半身浴効果


「さっむうい〜〜〜〜〜〜っ!!」
 その日、まだ二月も中の頃の夕方。
 切原家のリビングに女性の声が響いていた。
 外から同所へと避難を果たした、桜乃である。
 その手には外に干していた洗濯物を大量に入れたバスケットが保持されていた。
「ううう、湿度が低いからすぐに乾くのは有り難いけど、やっぱり寒いのは辛いなぁ…乾燥機とかあるといいんだけど」
「ZZZZZ…」
 がくがくとバスケットを持ったまま震えていた桜乃の耳に、不意に何者かの安らかな寝息が聞こえてきた。
「……」
 それを聞いた少女の目がきらーんと鋭いものに変わり、彼女の顔がゆっくりと部屋の中に備え付けられていたソファーへと向けられる。
 果たしてそこにいたのは…部活を終えて帰宅してすぐにソファーを陣取り、堂々と惰眠を貪っている兄の切原赤也だった。
 彼と桜乃が通う立海大附属中学に於いては、切原赤也は二年生でありながら全国的に強豪で知られる男子テニス部のレギュラーを張っている、或る意味有名人である。
 女性陣達からの人気もかなりのもので、これまでにも数え切れない程のラブレターを受け取っているという話もあるのだが…
(…絶対騙されてるっ!!)
 家に帰れば寝てるかゲームをしているか、その二択しかない兄の姿を知っている妹としては、到底納得の出来ない話。
(他のレギュラーの皆さんは、あんなに凄い方々ばかりなのに…どうしてお兄ちゃんがその中に入れたのかしら。まぁ確かにテニスの腕は凄いと思うけど、真田先輩も苦労しているんだろうなぁ…)
 学校では、自分よりも寧ろあの三年生の先輩の方が兄の手綱を握ってくれている…だからこそ負担がその分少なくなる自分は学生生活を楽しんでいられる訳だが、向こうの苦労を思うと素直に喜べない。
「ZZZZZ…」
 そんな妹の悩みも知らずに、相変わらず兄は夢の中…
「…む〜っ」
 洗濯物を取り込んだり、夕食の支度をしたり…確かに家事をするのは嫌いではないが、ここまで相手が能天気に自分の苦労の上に胡坐をかいていると腹も立つ。
 そのささやかな仕返しとばかりに、桜乃はバスケットを置いて、ゆっくりと音をたてずに眠っている兄の傍に近寄ると、ソファーと同じ高さになる様に膝立ちになり…
「えいっ」
 ぴとーっ
 外気に晒され冷え切った両腕を、相手のシャツの下の素肌に密着するように差し入れた。

「ぬおわぎゃあああああああああああっ!!!!」

 途端に上がる男の悲鳴…幸せな夢から一転、凍る世界へ突き落とされたのだから無理もない。
「つつつっ、つめてーっ!! 何だよ何だよ…って、桜乃―っ!?」
「あ〜、やっぱり無駄に筋肉ある分あったかーい」
 ほかほかと相手の熱で暖を取る桜乃に、夢から覚めた切原が状況を察して声を上げた。
「お前、いきなり何してくれてんだよ! あ”〜〜っ! つめてーって!! オイ!」
「可愛い妹が寒空の中で洗濯物取り込んでいるのに、のんびり居眠りだなんて良いご身分ですこと〜」
 ようやく身体を離して兄を解放した桜乃がつーんとそっぽを向きつつ非難し、男は傍に置かれていた洗濯物入りのバスケットを見てう、と口篭る。
「し、しょーがねーじゃん、俺は部活で疲れてんの!」
「部活もいいけど、少しは家の事も手伝ってよ。特に今の時期は寒いから、お兄ちゃんと違って冷え性の私には結構辛いんだし…」
「う…分かった分かったって…ま、おいおいな」
「ホントかなぁ…」
 懐疑の視線で見詰められ、居心地が悪くなった切原がぼり…と場を誤魔化すように頭を掻いた、ところで、不意にその瞳が軽く見開かれた。
「…そーいや冷え性…か」
「?」
「なぁ桜乃、お前、ちょっとコレ使ってみるか?」
 そう言いながらソファー脇に投げ出していた鞄を引き寄せ、切原が、中から赤みがかったカイロに似たパッケージを取り出した。
「なぁに?」
「何だかよく分かんねぇけど、ジャッカル先輩がドラッグストアで試供品で貰ったんだってさ。半身浴用の入浴剤らしい」
「半身浴…ああ、聞いたことある。身体の下半分までお湯につかって入浴するんだよね…へぇ、発汗作用もあるんだ」
 パッケージに印刷されている効能を読んでいった桜乃が、徐々に興味津々という様子になってくる。
 女性にとっては永遠のテーマとも言うべきダイエットにも、多少の効果が期待出来るというところに惹かれたらしい。
「お前、良かったら使ってみたら?」
「え? お兄ちゃんはいいの?」
「あー…俺ぁ別にいいや、元々血圧も低くねぇし…それに」
 そこまで言ったところで、切原がジャッカルからそれを貰った時の事を思い出したのか、けっとやさぐれた顔で言い捨てた。
「只でさえ血圧高めの俺にそーゆーのくれた時点で半分犯罪、半分嫌味だっての…脳の血管切れたらどーしてくれんだよ、ったく…」
「その暴走し易い性格を何とかしろってコトなんだよ、多分…」
 向こうの苦労を思い、桜乃が彼が言わんとする事を代弁したが、果たして兄にどこまで届いているかは不明である。
 結局、入浴剤は桜乃に譲渡されることになり、早速彼女は当日の入浴時にそれを使用したのである。


 夜…
「ふ〜…いいお湯でしたぁ」
 ほこほこと見るからに温かそうな湯気を立ち昇らせながら、桜乃がパジャマ姿でリビングに入ると、そこで切原がテレビの前に陣取って座っていた。
 この部屋のソファーを最も愛用しているのは、間違いなくこの若者だろう。
 彼も桜乃の前に既に入浴を済ませており、彼女とは色違いのパジャマを纏っていた。
「おーう…やけに遅かったじゃん。結構長く入ってたみたいだけど、大丈夫かぁ?」
「うん、半身だと意外と長く入れるんだね…凄いよ、いつもならすぐに冷えるのに、まだぽっかぽか〜」
 満足そうな妹の笑顔に、切原もにかっと屈託なく笑う。
「そーか、なら良かったじゃん」
「うん。ところでお兄ちゃんは何見てるの?」
「ん、アクション映画のDVD借りてきたから見ようと思ってさ。丸井先輩が勧めてくれたんだ」
「へぇ…じゃあ私もー」
 ちょこんと切原の隣に座る形で桜乃もその場に落ち着き、DVDの観賞を始めた…ところが…

「…ん?」
 こてん…
「おい…桜乃?」
「う〜…」
 映画が始まってまだ十分としない内に、桜乃の身体が傾ぎ、切原へと凭れかかっていた。
 よく見ると、目がとろんと明らかに眠気を孕んでいる。
「何だよ、もう眠いのか?」
「ん〜…半身浴って、結構疲れる……でも、ほかほかして気持ちいい…」
 心底気持ち良さそうな表情を浮かべながら自分へしなだれかかってくる桜乃の姿に、どき、と切原が図らずも胸を高鳴らせた。
「ふ、ふーん…そっか…」
 何で実の妹に照れないといけないんだ!と自分に突っ込んでいる切原だったが、向こうは当然そんな事など知る由もない。
「うん……」
 兄の呼びかけに答えるも、もう半分は意識が持っていかれている状態であり、それから桜乃は五分も経たず、すぅっと兄に身体を預けたまま眠りに落ちてしまった。
「…」
 テレビの画面には早速始まった映画のアクションシーンが流れていたが、あまり…と言うよりも、もう殆ど頭に入ってこない。
「……あー、ごほん」
 照れ臭さを隠すように一人咳払いをしつつ、切原はぐい、と桜乃の頭に手を回し、しっかりと自分の身体で相手を固定する。
 パジャマの薄い布地を通して、桜乃の体温が伝わってくる。
 放置していたら、いずれは熱も抜けてまた冷えてしまうだろうから、相手のベッドに運んでやらないといけないだろうけど…もう少し、ほんのもう少しだけこのままで。
「…まぁ…確かにぽかぽかしてんな」
 冷え性で、いつも冷たい手をしているお前にしちゃ珍しいぐらいだ、と思いつつ、若者は何とも言えない表情でぼそっと呟いていた。
「…今度、試供品じゃなくてちゃんとしたヤツ買ってきてやるか」
 そしたらお前もあったかいし…俺もあったかいから、さ。






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