とある日のうささく
『お疲れ様でしたーっ!!』
その日も無事に立海テニス部の朝練が終わり、部員達が各々自分のロッカーへと散っていくところだった。
部を取りまとめる役を担う部長、三年生の幸村精市は、いつもの様に軽くジャージを羽織る姿で、皆とは一歩遅れた場所を歩いていた。
部員達が部室に向かい始めたすぐ後に、午後の予定などについて参謀と呼ばれている柳蓮二と、足を止めた状態で少し話し込んでいたのがその主な理由だ。
しかしその話もそう長くは続かずに、今は彼らも部室へと足を向けている。
「…ふぅ」
そんな中、不意に幸村は軽く息を吐きながら首をくいっと曲げ、伸ばした方の肩を手で押さえた。
「疲れているのか? 精市」
自分を気遣ってくれる副部長の真田の台詞に、彼はいやいやと苦笑して首を横に振った。
「いや、それほどじゃないよ。昨日はちょっと勉強が乗っちゃって、夜更かししちゃってさ」
「そうか…試験も近いからな。しかしお前なら問題なく高位につけるだろう」
「今回は範囲も広めだし…部の方に力を入れてるのは間違いないからね、油断しないようにしないと」
「確かにな」
いかにも優等生の台詞である…が、それはそのまま正しい。
立海男子テニス部は「常勝立海」を掲げており、それはテニスに留まらず、あらゆる勝負事に於いても付き纏う、言わば鉄の規律だ。
試験もまた、厳しく言えば自分との勝負と言えなくもないので、部員は全力を以って臨む事を求められており、その見本となるかの如くレギュラー達は悉くが上位に収まっていた…まぁ約一名を除いて。
「…あいつもいい加減真面目に取り組んでくれたらいいのだが」
その除外された一名を思い出したのか、真田が実に渋い顔をして愚痴を零すと、幸村がふふ、と穏やかに微笑む。
「まぁ気長にね…あまり補習を喰らう様だったら、必要な練習時間を確保出来ない理由でレギュラーを外す事も考えるけど、今のところはギリギリで踏みとどまっている様だし…事実、彼より腕のある部員もいないから」
「そういうところは実に読むのが上手い、まぁ勘でやっている可能性が高いが…天性の才能というやつかな」
「全く…たるんどる」
相変わらずの口癖を呟く真田にもう一度笑いながらも、幸村は自身の身体に微かに残っている疲労を自覚していた。
(まぁ確かに…昨日の夜更かしが祟ってるのかな、ちょっと身体が重いや)
どうも身体が本調子じゃないと気分も滅入るな…と思いつつ、彼は友人達と共に部室へと入り、各々のロッカーの前で着替えを始めた。
毎日の事なので、その行為も実に手慣れたものである。
早々に着替えを済ませた幸村は、午後の部活動に備えて、必要なジャージ類は中に入れたままロッカーを閉めると、ふと思い出した様にブレザーのポケットをごそりと探った。
取りだしたのは、何の変哲もない一冊の生徒手帳…無論、幸村本人のものである。
「…」
彼がそれをぱら、と開き、中を覗き込むと…
「…………」
ほわん…
と、効果音がついてきそうな程に和やか〜な癒し空間が彼の周囲に広がった。
漫画で表すと、見えない花々が散っているかの如く。
それと同時に、幸村本人の表情も、元々穏やかなそれから更に険が取れた様な、全てのストレスから解放された和やかなものへと激変していた。
「…はぁ」
満足げに息をついたところで、幸村の後ろからぴょっと二年生の切原赤也が顔を覗かせた。
彼こそが、先程までの真田との会話で取りざたされていた「例外」の人物だ。
「お、何スか何スか幸せそうな顔して! もしかして恋人の写真でも入れてるとか!?」
「バカッ、赤也!」
意外にも、そこで声を上げたのは普段は斜に構えている事が多い「詐欺師」の仁王雅治だったが、時は既に遅かった。
「へ?」
仁王の声を聞くと同時に切原の目の中に飛び込んできたのは、幸村の「恋人」の写真ではなく、一羽の白ウサギの写真だった。
幸村が飼っているペットで、名前を『桜乃』と呼ぶらしい。
「あれ…?」
「嫌だなぁ赤也、恋人だなんて。でも確かに人間だったら、絶対に恋人にしたいぐらい可愛いんだよね、ウチの子。聞分けはいいし、美形だし、俺には特別懐っこくて、家にいたらそりゃもうべったりとくっついてきて、まぁそれがまた更に愛らしいというか…」
途端、始まった怒涛のペットべた褒め攻撃に、切原がぎょ、と後ずさるが、向こうの猛攻は最早止まらない。
「こないだもちょっと一人で散歩に行っただけなのに、寂しがっちゃって後で慰めるのが一苦労でさ。お詫びに新しい洋服と新鮮な草とおやつを買っていって、それで何とか機嫌を直してもらえたんだけど…あ、その服着た写真もあるんだけど見る? こっちも上手く撮れててね」
「え、え…?」
たじたじになって更に後ずさる切原が、他の部員に助けを求めるように視線を彷徨わせたが、誰もそれに答える人物はいなかった。
『…あーあ、やっちまったい』
『バ飼い主のペット自慢地獄のスイッチ思いっきり押したな…気の毒に』
丸井とジャッカルがこそこそと言葉を交わした向こうでは、やれやれと遅かった忠告をした仁王が眉をひそめていた。
『…じゃから言ったのに…ご愁傷さまじゃな』
『そう言えば仁王君も、先日捕まってましたねぇ…二時間程』
『ネタ探っちょったばっかりにアルバム五冊…うう、えらい目に遭ったぜよ』
その時の事を思い出しているのか、仁王がうええ、とあからさまに嫌な顔をしている。
『…憐れだな、赤也』
『……』
憐れんでいる柳の隣では、真田が渋い顔をして押し黙っていた。
長年の親友も、幸村の愛の暴走を止めるまでには力が至らず、せいぜい自分の身を守る事で精一杯らしい。
そんな憐れな切原の唯一の救いは、その時が「放課後」ではなく、次の授業もある「朝練終了後」だったということだった…
幸村精市がその生き物を拾ったのはつい先日のこと。
皆は一様に口を揃えて「一羽の白ウサギ」と言うが、幸村だけにはその生き物は、ちょっと異なる形で見えている。
白い兎の耳と、丸く可愛い尻尾をつけた、おさげの少女。
両手に十分乗る程の大きさの彼女は、道端のダンボール箱に入れられて捨てられていたところを、興味を持った幸村に拾われたのである。
当初は、ちょっとした興味と、主に憐れみの気持ちで拾ったらしい白ウサギだったのだが、それからそう間を置く事もなく、飼い主の幸村はその白ウサギ…桜乃に陥落した。
はっきり言うと、見事なバ飼い主にジョブチェンジしてしまったのだ。
ウサギという生物としてではなく、表情が分かり易い人間の姿で相手が見えてしまうという理由もあったのかもしれない。
兎に角、今現在は幸村の生活はテニスと桜乃を中心に回っていると言っても過言ではないだろう。
「ただいま」
帰宅した幸村は、先ずは真っ先に自室へと向かう。
「ただいま、桜乃。良い子にしてた?」
『!』
部屋のドアを開けると、玄関での彼の挨拶を聞きつけていたらしい桜乃が、ちょっこりと既にお出迎えの姿勢で座っていた。
いつもの事だ。
ここに拾われて来てから、幸村の学生生活のスケジュールを徐々に覚えていった彼女は、毎日彼をこの部屋のドアのところで見送り、出迎えていた。
毎日、毎日、その習慣は一度も破られた事はない。
例えその時に丁度昼寝をしていたとしても、そしてそれがどんなに心地よいものだったとしても、桜乃は幸村の「ただいま」が聞こえたら、すぐに起きだしてドアの前に座り、彼をちゃんと出迎えるのだ。
「やぁ、今日も迎えてくれたんだね、有難う」
相手の健気な行動に幸村が声を掛けると、向こうは嬉しそうな顔でわちゃわちゃと前脚を彼の足にかけ、その帰宅を大いに喜んでいる。
「よしよし、何だい? 抱っこ?」
ズボンに毛が付く事も構わず、幸村は小さくふわふわな相手の身体を大事そうに抱きあげて、自分の目線にまで持って行く。
「んー…顔色も良いみたいだし、元気だね、よし…あはは、くすぐったいよ、桜乃」
直近で相手の健康状態を確認した幸村が、桜乃から身を伸ばされ、ぺろぺろと頬を舐められる感触に声を上げて笑う。
幸村目線では、明らかに少女の姿をした生き物がピンクの健康そうな舌で頬を舐めてくれる、ちょっと危ない光景なのだが、他の一般人からは単にウサギとじゃれている様にしか見えない。
良い事なのか悪い事なのか…少なくとも飼い主にとっては良い事なのだろうが。
そうしてひとしきりご主人様に愛情表現を示した後、落ち着いた桜乃はきょろっと首を巡らせ、じっと窓際を見つめた。
「ん? 何かあるの?……ああ」
相手の視線を追った幸村が、或る事に気付いてそちらへと足を向けた。
窓際には、一つの植木鉢…とそこに咲き誇る赤いバラの花。
買ってきたものではなく、幸村が丹精込めて育てたものだ。
元々ガーデニングが趣味だった彼は、一階のガラス天蓋付きのベランダで沢山の植物を育てているのだが、中でも綺麗に育ったものは、時々こうして自分の部屋に持ち込んで愛でる習慣がある。
桜乃を飼い始めてから暫くは、植物にいたずらしたり、誤って食べたり、鉢を落としたりしないだろうかと心配していた時期もあった。
しかしどうやら彼女は幸村が思っていた以上に大人しく、しかも主人と同じく花好きだったらしい。
香りの良い花が持ち込まれると大喜びで傍に居座り、悪戯を働く事もなく、のんびりと丸くなってその場でくつろぐ日々…
粗相をしない「良い子」だと分かってからは、幸村は自分が学校に出かける時も、彼女のケージを開けてやり、部屋で自由にさせていた。
「桜乃はこのバラがお気に入りなんだね、香りが良いからかな?」
自分が手塩にかけて育てた花が気に入られるのは、幸村でなくても悪い気はしない。
しかもその品種は、改良に改良を重ねたもので咲かせるのは難しいと言われていたものなのだ。
「はい、どうぞ」
ちょこ、と鉢の隣に置かれた桜乃は、早速目の前の美しいバラの花を見上げ、漂ってくる香りにうっとりと至福の表情を浮かべつつ、小さな鼻をひくひくと鳴らし始めた。
(可愛いなぁ)
確かに可愛い仕草だったが、幸村の脳内フィルターにかけられて、その煌びやかさは裕に五倍は増している。
「あ、そうだ」
そうしている内に何かを思い出した幸村が一旦そこから離れ、その後いそいそとデジカメを持って来ると、気合い満々でバラと戯れる桜乃を撮り始めた。
勿論、撮った映像はディスプレイで毎回厳しくチェック。
「うーん……やっぱりもう少し性能良いのが欲しいなぁ。最近じゃ3Dで撮れるのとかもあるらしいし、一度蓮二や仁王に相談してもいいかな…あ、メモリももうないや、明日買ってこないと…アルバムも二十冊超えたし、そろそろ整理して…」
悩みつつも、幸村はそれからも桜乃と一緒に楽しく遊んだり、写真を撮ったりして過ごしていた…
その日の深夜
帰宅した幸村の父と、出迎えた母が、彼のいないリビングで真面目な顔で話し合っていた。
正しく言うと、母親が父親に切り出した形である。
「カメラ? いいじゃないか、男の子が機械に興味を示すのはよくある事だよ。寧ろ、これまでずっとテニスとガーデニングだったし、そろそろ新しい事にもチャレンジしたくなったんじゃないか?」
「でもねぇ…」
どうやらカメラの購入について息子から相談を受けたらしい母親は、寛容な父親に反して不安げに頬に手を当てていた。
「撮る被写体がどうも…あのウサギみたいなんですよ」
「ウサギ? ああ、部屋で飼っているあの白いのか。精市は随分あれを可愛がってるみたいだな…君に世話を任せずにちゃんと自分で育てているし、やや箱入りという気がしなくもないが」
どうやら桜乃は、自分の父親にも滅多に見せない秘蔵っ子らしい。
「だから不安なんですよ。母親の私が言うのもあれですけど、もう年頃なんですからそろそろ恋人の一人も連れて来たっていいのに、テニスが終われば桜乃桜乃って…」
「おいおい、恋愛は自由だよ。親が焦ったって仕方ない……あのウサギが原因で、成績が下がっているならともかく」
「…………それが癪に触るというか腑に落ちないと言うか、最近は却って成績良くなってるのよね」
「…じゃあいいんじゃないか? リラックス効果で」
「そうかしら…」
「すぅ…すぅ…」
『ぴぃ……ぴぃ…』
両親たちの心配を余所に、その会話の中心にいた息子の幸村は、ベッドの中で枕元の桜乃と一緒に安らかな寝息を立てていた……
了
Shot編トップへ
サイトトップへ