不思議な生き物・ジャッカル編


「あーもー、どうして俺はこんなに不幸なんだろう」
 その日の帰宅途中、立海の中学三年生であるジャッカルは、誰ともなしにそんな台詞を口にしていた。
 普段はそういうネガティブな言葉は心には思っても声に出すことは滅多にない男であり、それだけ、今の彼のストレスが大きいものである事を伺わせる。
「まあな、悪い奴らじゃない、悪い奴らじゃない事は分かってるんだ。けど、人に頼ったりたかったりするのにもいい加減限度ってもんがあることを知ってほしいと言うか何と言うか…」
 言っている事は全く理に叶っているのだが、言葉の後が何とも気弱なものに変わってしまっているところが、彼の大らかさと言うか、人の良さを語っている。
 そんな彼がまだぶつぶつと一人で小言を言いながら歩いていた時、丁度通り過ぎた道の反対側の電信柱の陰から、彼を呼ぶ声が聞こえてきた。
「お兄さん、疲れてるね。幸運の使い、要らない?」
「あ?」
 思わずそちらへと視線を向けると、一人の男が足下に一つのダンボール箱を置いた状態で立っていた。
 年齢は二十代か三十代とそんなに老けている様子ではなく、見た目カジュアルな服を纏っており、あまりいかがわしい雰囲気は感じられない。
(何だぁ? 宗教の勧誘にしては砕けた格好だけど…)
 勿論その手の類の勧誘は断る気満々だったジャッカルだが、向こうはそんな相手が何か質問する前に自分から説明を始めていた。
「可愛い良い子ばかりだよ。本当は一匹千円なんだけどさ、君は何か凄く人生に疲れてる感じだし、まだ若いみたいだし、五百円でいいよ。幸運を運ぶミニウサギ、飼ってみない?」
 ああ、そういう事か。
 たまに、道端でこうして生き物やら雑貨やらを売る輩には会った事がある…その手合いか。
(人生に疲れてるってのは余計だっつーの)
 多少むっとしながらも、それがあながち間違った指摘でもなかったので否定する事も出来ず、心の中に留めてジャッカルは男の足下に注目した。
 相手が手ぶらだという事を考えると、そのウサギというのはあの箱の中に入っているのだろう。
「…幸せを運ぶったって、そんなの誰にも分からないじゃないか。本当にそんな動物がいたら、それこそとんでもない値段がついているんじゃないか?」
「はは、そりゃ尤もな話。当然、こいつらにそんな御利益があるという証拠はないが、癒しっていう一つの手段にはなるんだ。何かを求める気持ちがないと、ペットを飼うなんて習慣は出てこなかっただろう?」
「ふーん…」
 物は言い様だな…と思いつつも、ジャッカルは小動物達に興味を持った様子で相手に近づいていった。
 癒しを与えてもらえるならそれこそ願ったりだが、甘い言葉にすぐ飛びつくほどジャッカルは軽率ではない。
 癒しを与えられると言っても、それ以上に世話に手間暇が掛かれば、かえってストレスを増やす事態になりかねないのだ。
(まぁちょっと見るぐらいなら…)
 飼えなくても、ちょっと見せてもらうぐらいなら…と思いつつ、いよいよ箱の中を覗いたジャッカルが、あれ?と首を傾げた。
 中には確かにウサギ…ミニウサギが数匹遊んでいる。
 斑模様だったり、黒一色だったり様々な毛並みのミニウサギがいたのだが、ジャッカルはそんな普通のウサギ達ではなく、一匹の特殊な姿のウサギだけに注目した。
「…人間?」
 他のウサギ達に混じり、もこもこと箱の片隅で動いていたその生き物は、ウサギと呼べるような形態ではなかった。
 黒の髪のおさげ、セーラー服、人間と同じ表情…いや、これはもう人だろう。
 長く白い耳と同色の尻尾を除けば、誰だって…そう、自分以外の誰でも同意してくれると思う。
 まだ若い、自分と同年代に近いのでは?と思うウサギは他のウサギとは少し離れた場所でじっと大人しくしていたが、影が差したことでジャッカルの接近に気付いたらしく、ぴょっと顔を上げて相手を見つめてきた。
(何だこのへんちくりんな生き物はーっ!!)
 だらーっと心で嫌な汗をかきながらジャッカルがそう思っている間に、今まで静かにしていたその少女ウサギが急に元気になって、ぱたぱたと彼に向かって両手を振り回してきた。
 まるで抱っこをせがまれている様に見えたジャッカルは、つい物珍しさもあってその子に手を伸ばして目線近くまで抱き上げてやる。
(人間…だよなぁ…すげぇちっさいけど……何でこんな奴がウサギだなんて…)
 悩む彼に、そのウサギを売っている男はおっと楽しそうに声を上げる。
「お目が高いね、そいつはこいつらの中でも一番賢くて物分りがいいんだ。桜乃っつって、ちょーっと内気で自己アピールには欠けるんだが、アンタの事はやけに気に入ったみたいだな…どうだ?」
「どうって…あんたにはこれがウサギに見えるのか?」
「何が? どう見たって立派なミニウサギじゃないか、真っ白で綺麗な毛並みだろ?」
「……」
 どうやら…ウサギが人に見えてしまうくらい、自分は壊滅的に疲れているらしい…こいつだけっていうのが引っ掛かるが…
 抱き上げたウサギに視線を戻すと、向こうは会えた事が嬉しいと言っている様に無邪気な笑顔でまだ手足をぱたぱたと振っている。
 可愛い…と言ってもいいかもしれない…下手に凶暴そうな雰囲気でもないし…
(…幸運を運ぶウサギねぇ…)
 どっち道、自分の財布には相棒や後輩にたかられた所為で殆どまともな残高は残っていない…ならいっその事……
「……分かったよ、どんな幸運が来るか分からないけど、こいつに頑張ってもらおう」
「よし、取引成立だな」
 そしてジャッカルは五百円を渡してその少女の姿のウサギを買い取ったのである。


「あーあ…これで本当に今月は厳しくなっちまったなぁ…あと二週間も次の小遣いまであるってのに…」
 兎に角それまでは、自分の家にある雑貨を使うなりしてこいつを飼うしかないなーと思いつつ、ジャッカルが桜乃という名のウサギを抱いて更に道を歩いていた時だった。
『…!』
「ん? どうした?」
 急にそれまで大人しかったウサギが手の中でもぞもぞと暴れ出し、ぴょーんっと弾かれる様に宙に舞った。
「うお!」
 そのまますとんと無事に地面に着地すると、桜乃はぴょこぴょことジャッカルの先の道を走っていく。
「おいおい! 待てって!!」
 慌ててジャッカルが追いかけたが、それはそう長くは続かず、一つの公衆電話ボックスの前で終わった。
「…ん? どうしたんだ、お前…」
 普段の自分の帰り道でありそのボックスもよく知っているが、この携帯電話が普及しているご時世、特に目を留めることもなかった。
 そのボックスの前で、あの白い耳を持つ少女がちょこんと座り、かりかりと前脚でボックスの扉を軽く引っ掻く素振りをしている。
「何か珍しかったのか? 中に入っても遊ぶものはないぞ…って、ん…?」
 再びウサギを抱き上げかけたところで、ジャッカルはそのボックスの中の違和感に気付いた。
 電話機が設置されているその下に電話帳を置く棚が設置されているのだが、その棚の中に茶色のボストンバッグが置かれていた。
 明らかに、これはボックスの中の備品ではない。
「…? 忘れ物?」
 手が届く処にそういうものがあると流石に気になり、彼はきぃ、とドアを開けてそのバッグの取っ手を掴み、ずるりと棚の中から引き出した。
 ずしっと重い質感…結構な重量のものが入っている様だ。
「おおおっ…こりゃ結構重いなぁ…何が入っているか知らないが、落とした人は困ってるだろう。確かすぐ近くに警察署があったな…」
 拾った物を私物化するなどという不届きな思考は一切頭に過ぎる事もなく、その善良なハーフの若者は、片手にウサギを抱え、もう片手には見知らぬ誰かのバッグを抱え、一時方向転換して警察署に向かって行った。
 それが自分に凄い幸運を運んでくるとも知らずに…


『ほんっとうに有難うございました!!』
 警察署に入ってから一時間後、ジャッカルは警察署員と一緒に、そのバッグの落とし主から深々と頭を下げられていた。
 ジャッカル本人も、署員の人も、いやいやと首を振っていたが、実は最初は物凄い騒ぎになっていたのだ。
 署に落し物だと届けた後、じゃあ一緒に確認を、と署員がチャックを開けたら、中から出てきたのはかなりの数の札束だったのだ。
 何百万…いや一千万以上あるかも…?
 偽札ではないかと憶測も飛んだが、それから間もなく別の交番からの連絡で真相が分かった。
 何処かの社長が取引の為に現金をバッグに入れて取引先に向かっていたのだが、その途中で公衆電話に立ち寄り連絡を入れ、そのままバッグを忘れてしまったということらしい。
 向こうが必死な様子で連絡をしてきたので、すぐにこれの事だと判明した…流石にこれだけの金額を失えば顔色も悪くなるだろう。
(忘れんなよこんだけのお金…っても、そういう時ってのはテンパってるのかもなぁ…)
 自分は、最初にバッグの中身を見た時は失神寸前までいったけど…一生に一度見るか見ないかという光景だったな。
 何やら会社の命運を左右する程の取引だったという事で、無事に荷物を取り戻せたその社長は、盗む事もせず素直に署に届けてくれた善良な学生に何度も礼を述べ、謝礼金として少なくない額を彼に渡して去っていった。
 桜乃の身の回りの雑貨を全て買い揃えても、数か月分の小遣い分は残る額だ。
 桜乃を五百円で買い取って一時間としない内に…ジャッカルは早くも幸運を一つ手に入れたのである。
「…お前、もしかして…自分の入居費用のつもりで教えてくれたのか?」
『…?』
 尋ねたジャッカルに、桜乃は不思議そうな表情を浮かべ…にこ、と無邪気に笑っていた。



「何か最近、ジャッカル先輩元気っすね」
「いや、あいつはいつも元気だぞい?」
「そういう意味じゃなくて…」
 あのジャッカルの転機の日から暫く後、そんな会話が立海男子テニス部の中で交わされていた。
「なんつーか、身に染み付いていた苦労性の雰囲気が薄くなったっつーか…これまで以上に気合入ってる感じがするんスけど…」
「そーいやそうかも…」
 後輩の切原に話を振られた丸井は、相棒の姿を遠くから観察してみた。
 四つの肺を持つという異名すら持っているタフな相手だが、確かに今見ている姿は普段の彼に更に輪をかけた感じでパワフルだ。
 『ファイヤーッ!!』という雄叫びが聞こえてきそうな程に試合にも熱が入っている。
「…最近、ウサギ飼いだしたって言ってたのと関係あるのかなー」
「へっ、ジャッカル先輩がウサギ?」
「そう…凄ぇ大事にしてるらしくて、会わせてくんねーの」
「へぇ〜〜、癒しってヤツっすかね…そんなに効果あるのかな」
 切原と丸井は半信半疑の様子だったが、間違いなくジャッカルは桜乃の癒しパワーに助けられていた。
 あの嬉しいハプニングの後もそんなに日常がすぐに変わる訳ではなく、相変わらず後輩達は自分の手を焼かせてくれていたが、少なくとも自宅に帰れば彼を癒してくれる存在が彼を待ってくれているのだ。
「ただいまー、桜乃」
 声をかけながら自室に戻れば、あの白い耳の少女はすぐに自分の足元に駆け寄って迎えてくれる。
 その小さな身体を抱き上げ、ベッドに仰向けになりながら胸の上に置いて毛を梳いてやりつつ、一時の休息タイム。
「聞いてくれよ桜乃、今日も切原のヤツが…」
 困ったもんだーと零す間も、桜乃は嫌がる素振りもなくじっと素直に彼の愛撫に身を任せながら、その言葉を聞いてくれている。
 そんな相手を見ていると段々と愚痴を零すのも馬鹿らしくなり、桜乃が来て以来、ジャッカルは更に前向きに思考を改められるようになり、結果、部活での活躍にも繋がっていた。
「…ま、お前が来てくれたからいいけどな」
 最近は必ずその言葉で締めて、本格的に桜乃のブラッシングを始めている…そして今日も。
(…そう言えば、結局疲れが取れても取れなくても、こいつはこいつの姿のままだったな…けど今更ウサギに変わられたら、それも困るし…)
 これからも、俺の傍にいてくれよ、と穏やかな気持ちでそう願いながら、ジャッカルは優しく桜乃を撫で続け、桜乃はとても嬉しそうに、気持ち良さそうにジャッカルに身を委ねていた……





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