不思議な生き物・仁王編


 或る日、立海の中学三年生、仁王雅治がいつもの様にテニスバッグを背負って家路を歩いていた時、その出会いは訪れた。
「…ん?」
 普段は静かな道なのに、今日はやたらと騒がしい。
 何だろうと少し耳を澄ましてみた仁王は、すぐにその騒音の正体について当たりをつけた。
「何じゃ、カラスどもか…」
 この道を少し歩くと先にゴミの収集所がある、きっとそこで鳥達がたむろでもしているのだろう。
 しかし、ゴミが集められた状態の朝ではなくこんな夕方にとは…もしや誰かが食べ残しでも放ったか…?
 何とはなしにそういう事を思っていた仁王の視界の先に、黒い物体が幾つか見え始める。
 ビンゴだ。
(はーん、やっぱりカラスじゃったか…)
 黒い羽を持つその鳥達は四、五羽で徒党を為し、ばさばさと羽を動かす音も騒がしく異様にヒートアップしている状態だった。
 何やら、ここから電信柱に隠れた空間に、鋭い爪と嘴で攻撃を与えては少し離れるという動作を繰り返している。
「…何じゃあ?」
 初めて疑問を音として乗せた時、仁王の耳にカラス達の鳴き声以外の音が聞こえてきた。
『ぴぃーっ…! ぴ――――っ!』
 やけに切羽詰った…必死な声。
 もしかしてカラス達があんなに興奮しているのは、別の生き物を攻撃しているからなのか?
(捨て猫か捨て犬かのう…身体が弱っとったらそのまま食い殺される事もあるんじゃ)
 興味が湧いて、少し足早にその現場近くへと向かってみた仁王は、カラス達が襲撃している生き物をはっきりと見た。
 ビンゴ…大体は。
「……何じゃありゃ」
 大体の予想は当たっていたが、根本的な部分が覆された感じだ。
 その生き物は犬でもなければ猫でもない。
 白い尻尾…白く丸い尾っぽ…だけを見ると、自分が一番知っている近い種族はウサギだろう…
 しかし、その身体そのものは…どう見ても人間の少女そのものだ。
 おまけに制服の様な服まで着ているし、手もきっちり人間の様に五本の指を持っているし。
 絶妙に三頭身レベルにデフォルメされた小さな少女が、あわやカラスの生きた餌食になろうかという現場だったのだ。
 数羽のカラスの嘴と爪の攻撃で、彼女の制服は汚れ、所々は破れて血が滲んでいる。
 捨てられていたのは確かなのか、全体的にうっすらと汚れた姿だったが、それだけに涙で滲んだ黒い瞳が非常に印象的だった。
『…ぴぃ…』
 仁王の見ている前で、明らかに体力の限界に近かったらしいウサギもどきは、最早カラス達に抵抗する事もままならない様子で、必死に身体を丸めて防戦一方だった。
 もうこのままでは、食い殺されるのも時間の問題…その時だった。
「ほれほれ、そこまでじゃ。弱いものイジメはいかんぜよ」
 大股で歩いてカラスを蹴散らしながら、彼らに向かってパンクズを放り投げ、仁王が割り入って来た。
 流石の連係プレーを取るカラス達も健康優良児に喧嘩を売る程愚かではない。
 彼の投げたせめてもの心遣いである学食のパンをそれぞれ咥えながら、彼らはその若者に道を譲った。
 仁王はすたすたとウサギの入っていた小さなダンボール箱へと近づいてから身を屈め、相手の様子を伺った。
 近くで見ると、目立たなかった小さな傷も露に目に映り、更に痛々しさが増す。
「ありゃりゃ…こりゃまた手酷くやられたのう、可哀相に…じゃが…」
 抱き上げたその生き物を目線の位置へと持っていくと、彼はしげしげとその不思議な生命体を興味深そうに眺めた。
「…何て生き物なんじゃ? お前さん」
『……』
 尋ねるも答えはなく、向こうは今だ怯える瞳で仁王を見つめるばかり。
「ほーう…黒髪のおさげか…よく見るとなかなかのべっぴんさんじゃ、カラス共の餌になるんはちと勿体無いのう…ん?」
 ふと見ると、ダンボール箱の中に小さな置手紙が遺されていた。

『ミニウサギです。桜乃という名前です。どなたか拾ってやって下さい』

(……ウサギ?)
 とてもそうは見えんのじゃけど…?
 うーむと困惑しながら、仁王は改めてその桜乃というウサギを見つめた…が、やはり人の姿にしか見えない…自分は。
 このままここに放置したら、またすぐにあのカラス達が戻って来て、今度こそこの子を美味しく頂いてしまうだろう…そして無残な亡骸が…
「…」
 自分の豊かな想像力にしかめっ面をしてしまった銀髪の若者は、そのまま彼女をひょいと自身のブレザーの中に隠し持つようにして支えながら歩き出した。
「よしよし、大人しゅうしとれよ」
 それからはまるでカンガルーの親の様に、仁王はその子を自宅へと連れ帰ったのである。


 結局、家人に桜乃を見せても彼らは彼女を只の白いウサギとしか認識せず、人間に見えるのは自分だけらしいと仁王は判断した。
 傷は多かったものの、どれも致命傷には至らず、桜乃は仁王の細やかな手当ての甲斐あって元気に回復していった。
 その内に、彼女も仁王の事を『優しい人』と認識したらしく、すっかり彼にべたべたの甘えん坊になってしまったらしいのだが…


「恐い話を一つ」
「何ですかいきなり」
 某日、テニス部の活動の準備を部室内で行っていた柳生に、彼の相棒が面と向かって話してきた。
 いつか桜乃を拾った仁王だ。
「ええから聞きんさい。今日な、いつもの様に鞄とテニスバッグを抱えて登校したんじゃが、普段と変わらん荷物の量の筈なのに、何やら鞄が重い感じがしたんじゃ…」
「ふむ…」
 怪談話は取り立てて好きではないが、耳を塞ぐほどに嫌いでもなかった柳生は、相手の話し出した内容に軽く相槌を打った。
「まぁ気のせいかーと思ってそのまま教室に入って、鞄を机の横に掛けて授業を受けとったんじゃが…何処からか人の吐息みたいな音が聞こえるんよ…」
「周囲の誰かが寝ていたのでは?」
「うん、俺もそう思ったんじゃが、辺りにらしい奴は一人もおらんかったんじゃ…そうしとると今度は…鞄が勝手にゆらゆらゆらっと揺れて…」
「いいいいい! マジっすか!?」
「やっべーんじゃねーのい!? 仁王!?」
 傍で聞いていた切原と丸井が、恐がりながらも興味津々の態で聞き入ってくる。
 そしてそのまま仁王の怪談は続いた。
「明らかにおかしいと思って、恐る恐る鞄の隙間から中を覗いてみたら、爛々と光る何者かの瞳…」
「ぎゃ―――っ!!」
 切原が悲鳴を上げたところで、仁王がその問題の鞄を出して取り出してみせたのは…
「俺が目を離した隙に潜り込んだウサギだったとさー」
『…?』
 ずるっ!と思い切りずっこけていた丸井達を他所に、桜乃はきょとーんとした様子で素直に仁王にぶら下げられていた。
「確かに怖いですね…バレた時が」
「いやもう授業中どう誤魔化そうかと必死だったぜよ。ま、耳が遠い教師で助かったがのう…俺の匂いを嗅ぎつけて入り込んだらしいんじゃ、賢いじゃろ?」
「そこに叱るという選択肢はないんですか…」
「ない」
 なでなでと桜乃を撫でて思い切りのろけている相棒に、頭痛さえ覚えながら柳生は忠告したが、向こうは全く聞く耳持たない。
「お前さん達も、桜乃の本当の姿を見とったならそんな事は言えんと思うぜよ。可愛いんじゃけどなぁ…」
「人の姿に見えるというアレですか…」
 いつかこのウサギを相棒が飼いだした時に、同じく彼女を見せられて人間の姿に見えないか尋ねられた時があった。
 勿論、自分には純白の小さなウサギにしか見えない…当然の話だ。
「…あなた、前世で生き物に悪さして、ヘンな呪いでもかけられたんじゃないですか?」
「呪いねぇ」
 こういう呪いなら、別に困らないし…と思いかけたところで、はた、と仁王が止まる。
 そう言えば、動物が関わっている呪いのパターンの場合、呪いを解く方法に、その動物とキスを交わすというものがあったな…
「…」
 それから彼は、じーっと熱の篭った目で桜乃を見つめた。
 もしキスをして呪いが解けたら…桜乃はウサギではなく本当の人間の姿に戻ったり…?
 そして彼女は、呪いを解いてくれた恩人と晴れて結ばれめでたしめでたし…
「…してみるか、キス」
『?』

 がすっ!!

 本気なのかまた冗談なのか、んーっと桜乃にキスをしようとしていた仁王の後頭部に、微分・積分の教科書が投げつけられた。
 相棒がしたたかに力を込めてそれをぶつけた所為で、キスは未遂に終わってしまう。
「何してくれとるんじゃ柳生―っ!」
「なに動物愛護団体に打ち首にされるようなコトやってんですかアナタはーっ!! ケダモノに欲情するなど恥を知りなさいっ!!」
 声を荒げる親友に、仁王は桜乃を抱きながらふーんとそっぽを向いた。
「桜乃はただの獣じゃないと言うたじゃろ」
「だったら一生彼女と添い遂げたら宜しいでしょう!!」
「おお、お望み通りケダモノに萌えちゃるわ、ビバ鳥獣戯画!」
 以降、延々と続く無意味な論争…原因は、あの一匹の白ウサギ。
「………精市」
「いっそ一思いにサクッとやっちゃって、別の人レギュラーに入れようか」
 何とかしてくれ…と縋る様な目を向けた副部長の真田に、幸村も背中を向けつつそんな物騒な台詞を口にしていた。
 人畜無害のペット…の筈が、その愛らしさの所為で、立海テニス部は多少の被害を被っている様子である…





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