不思議な生き物・真田編
「ただいま帰りました」
その日、立海のテニス部副部長・真田弦一郎は、いつもの様に粛々とした挨拶をしながら家に戻っていた。
特に変わりない玄関を抜けたところで、彼は不意に台所のある方角へと目を遣った。
(…殺気?)
常日頃から武道を嗜む真田は、常人では察知出来ない気配なども容易く感知することが出来る。
加えて、大人顔負けの決断力も備わっているので、一つの事実を確認したらすぐに十の行動に移すことも出来るのだった。
もしやしたら家人以外の何者かが入り込んだか…と危険な状況を思い描きながらも、真田は実に俊敏に行動を起こした。
先ずは音をたてないように靴を脱ぎ、同時に肩に掛けてあった鞄類を外して玄関先へと置く。
身軽になったところで、今度は傘立ての中にさりげなく常備してあった愛用の木刀の一本を抜き出し、軽く振って感覚を確かめると、それを持ったまま、殺気が感じられた方へと足を踏み出した。
勿論、自身の気配は消した状態で。
既にこの時点でこの若者は十分常人離れしているのだが、真田家に於いてはこれが常識なのである。
(…何者だ…しかし、あれから大きな音はたてられていない様だが…)
疑問に思いつつも、真田は更に歩を進め、いよいよ台所に通じる扉の前へと立つ。
明らかに向こうには人の気配…そして何か小さな物音が聞こえる…
「…?」
いざ踏み込もうとした直前で僅かな動揺が生まれた真田に、意外な言葉が向こうから投げかけられた。
『弦一郎だな、入れ』
「っ…師匠?」
扉をまだ開けてもいない、声もかけていない、気配すら消していたにも関わらずあっさりとこちらの状況を見抜かれた真田は、驚きながら半歩引いたものの、すぐに気を取り直して扉を引いて中へと入った。
「…師匠でしたか」
師匠と彼が呼ぶのは、紛れもない彼の祖父である。
真田が幼少時より武道を学ぶ切っ掛けともなった人物で、日々道場にて若き逸材達を鍛える日々を送っている豪傑は、真田が入って来た時には、台に向かい、出刃包丁を片手に何かを斬ろうとしているところだった。
「師匠がここに立つとは珍しいですが…何か」
「うむ…親戚が子ウサギの肉をと送ってくれたのだが、生きが良い様にと生きたまま送ってきおってな。あれが『惨いことだ』と手を出したがらんから、代わりに下ろしてやろうと思ったのだ。生きがいいのは結構だが、ぴょこぴょこと手こずらせおる」
「ウサギ…ですか」
相手が言った「あれ」というのは、自分の母親の事だろうと思いながら、真田は師匠へと更に近付いていった。
ウサギ…しかも子供の、となれば確かに惨い事だろう、母が手を掛けたがらないのも道理だ。
確かに子ウサギも立派な食材として認識はされているが…と、師匠が手にしていたウサギを遠目から覗いた真田の目が、いきなりくわっと極限まで開き、身体がびたっと硬直した。
ウサギ…じゃない!!
「え…?」
その時真田の目に見えていたのは、師匠の手に両の耳を握られて身動きを封じられ、まな板の上で身体を小さく縮こまらせ、ぶるぶると震えている一匹…一人の少女だった。
耳…は確かにウサギの白い耳だ、丸っこい尻尾もついている。
しかし他は、まるで変則的な縮小コピーをかけられた様な女性そのもの!
着ている制服の様な服も、黒い瞳も、二本のおさげも、全てが人間の成りを象っている。
自分がこれからどうなるのか、うっすらと分かってしまったらしいそのウサギの少女は、恐怖に押し潰されている様に四肢を縮めて伏せの形を取り、目尻からはぽろぽろと涙を零していた。
その少女が、不意に真田の姿に気付き、瞳を彼へと向けて…小さく鳴いた。
『…ぴぃ』
助けて…
その瞬間、師匠が包丁を振り上げたと同時に、真田が声を上げて彼らの間に割り込んでいた。
「をわああぁっ!! し、師匠っ! しばらくっ!!」
「むっ! 何を止めるか、弦一郎!」
実に珍しい孫の狼狽振りに包丁を持つ手を止めた祖父の前で、真田は相手の手からそのウサギを取り上げ、腕の中に抱え込んだ。
「も、申し訳ありません…が、師匠! その、このウサギ…譲って頂けないでしょうか!?」
「それを…?」
「はい…! その、ま、まだ幼い命を奪うのは、余りにも不憫かと…」
「ぬう……甘い事を言いよる」
孫の言葉に苦言を呈した祖父だったが、それから暫く黙し、何かを考えている。
真田の左手で支えられ、右手で優しく庇う様に触れられているそのウサギはまだぶるぶると小さく震えていた。
その恐れぶりが余りにも哀れに思えていたところで、祖父が頷いた。
「…しかし、命を奪うより、育んでその重みを知る事も肝要かもしれん。小さな命でもそれを生かすことがどれだけ手間を要するか…学んでみよ、弦一郎」
「はい!」
良かった、何とか人の姿の生き物スプラッタは見ずに済んだ!と内心安堵していると、祖父の念押しが続いた。
「但し、あまりに粗末に扱っている様ならその時こそ鍋の具材だぞ」
「し、承知しました…」
絶対にヘマ出来ない…!
そう心に決めた弦一郎は、かくして一匹の人型ウサギを飼うことになった。
「それにしても…どう見ても人間の、若い女子なのだが」
部屋に連れて行った後、真田は胡坐をかいて座り、その足の上にウサギを乗せてよしよしと背中を撫でてやっていた。
制服を纏った少女の姿をしたウサギは、まだ震えが完全に治まった訳ではなかったが、少しは落ち着いた様子で足の上でじっとしている。
そして、命の危機はかろうじて脱したこと、真田が自分を救ってくれたらしいことを察知してか、彼女はおず、と彼を見上げた。
その黒いきゅるんとした瞳で見つめられ、真田は通じないだろうと分かっていても、つい声に出して相手を諭した。
「ああ、恐れるな…もう大丈夫だ、心配は要らんぞ」
『……』
静かで穏やかな声が相手の耳を優しくくすぐる。
もう己を脅かす刃もないと知り、そのウサギは獣でありながらまるで人の様に嬉しそうに微笑んだ。
「う…」
まるで『有難う』と言われている様で、真田は思わず獣相手に照れてしまい、そっぽを向きながら必死に別の事を考えた。
「そ、そうだな…飼うならば名をつけねばならんか…ううむ、男なら太郎丸などでも良かったが…」
かなり特殊なセンスを持っていた若者はそれからうーむと暫く唸っていたが、ふとそこから見える外の景色に目を遣った。
薄い桜色の花弁が、風に乗って舞い踊っている。
そう言えば今はあの花が咲き誇る季節でもあったか…いつ見ても美しく、雅なものだ。
「…桜……そうだな、では…」
さわりと相手の艶やかな黒髪を撫でて、真田が微笑む。
「桜乃…桜の様に美しく、そして心を『つなげる』様に…桜乃、今日からのお前の名前だ」
彼の言葉の意味が分かったのか分からなかったのか、桜乃と呼ばれたウサギは、尚も嬉しそうに微笑みながら、前脚を真田へと投げ出して身体を摺り寄せてきた。
「そうか、嬉しいか? 桜乃…」
図らずも、一つの命を預かる責任を負わされた真田だったが、その表情はとても穏やかだった。
以降、真田は桜乃の世話を始めたのだが、相手はすぐに彼によく懐き、躾もそう苦労することもなかった…寧ろ、本当の人間である筈の二年生の某後輩の方が躾に手間取っているという体たらくだ。
『馬鹿な子ほど可愛い』という諺はあれど、賢い子が可愛くない筈もなく、桜乃の世話を始めて一ヵ月後には、真田もすっかり彼女の事がお気に入りになっていた。
家に帰って自室に入ると、先ずは桜乃にかまってやるのが彼の日課になり、桜乃もまた、真田の足音が聞こえると部屋の襖の前でちょこんと座り、ぴこぴこと尻尾を振って出迎えてくれる。
「ただいま、桜乃、良い子にしていたか…? よしよし」
相手が人間の姿だけに、殆ど恋人状態にも見える一人と一匹だったが、そんな彼らでも困った事が一つだけあった。それは…
『弦一郎』
「あ…師匠?」
ふと、襖の向こうから聞こえてきた祖父の声に、真田が顔を向ける。
『昔の知り合いに呼ばれたので、少々家を空ける。留守を頼むぞ』
「はい」
襖越しの短い会話を済ませ、先程まで読んでいた小説に目を落とそうとしたところで、ふと足に感じていた重みが失われている事実に気付く。
ついさっきまで、ここには桜乃がのんびりと身体を投げ出してくつろいでいる姿があったのだが…
「…」
それから彼は無言で自室の押入れに目を遣ると、そこが少しだけ開かれているのを確認し、そちらへと歩いて行った。
扉をもう少し開けて奥を覗いてみると…
(…やはりか)
今まで足元にいた桜乃が、押入れの奥の奥で縮こまり、ぶるぶると震えていた。
どうやら祖父の声を聞いた事で、あの出会いの日の恐怖を思い出してしまったらしく、光速の速さで逃げ込んだのだろう。
「…まぁ、包丁突きつけられていたのは事実だからな、トラウマになるのも仕方ないが…俺がお前を見捨てる訳がなかろうが」
やれやれと溜息をつきながら、真田は桜乃の身体を抱えて身体の前に抱いた。
(…舅と嫁の争いに巻き込まれた婿の気分だ…)
まだ中学生なのに…と思いつつも、内心は嫁の方の味方になる気満々の真田だった…
了
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