不思議な生き物・柳生編


 某日、立海大附属中学三年生の柳生比呂士が帰宅すると、玄関先に何やら大きな金属製のケージが置かれていた。
 よくペットショップで見かけるタイプのもので、イメージとしてはフェレットやウサギが中に入れられているそれが一番近いかもしれない。
 側面と上部は大き目の網目で中は丸見えの構造…らしいが、今はその奥の様子を伺い知る事は出来ない。
 何故なら柳生の前にあるケージは裸の状態ではなく、ほぼすっぽりと黒い布で覆われており、かろうじて網目部分と底部のプレート部分の隙間が数センチしか露になっていなかったのだった。
「?」
 確か、自分が今日学校に登校する時には、こういう物体は玄関には無かった筈…となると、自分が帰宅するまでの間に家族の誰かが持ち込んだのだろう、しかし…
(…何かを飼うといった話は、聞いていませんけどねぇ…)
 家族に関わる事項であるならば、無論自分にもそれなりの告知なりあって然るべきなのだが、それが無かったというのはどういうことだろう…?
 いや、ただ単に何かの理由があってこういうケージのみを持ち込んだという可能性もある…と一度は思ったが、柳生はすぐにそれを撤回した。
 確かに何かがこの中にいる…小さな物音と気配が彼にそれを示したのだ。
(一体何でしょう…?)
 かなりの興味をそそられた柳生は覗いていいものかどうか悩み…ここではそれを断念した。
 持ち主が家族の誰かであっても、許しもなしに覗くのは、紳士の行動ではない。
 取り敢えず、彼は自室に自分の鞄などの荷物を置きに行って、それから家族がいるリビングへと足を運んだ。
 そこで珍しく自分より早めに帰って来ていた父親から、彼はあのケージの中身について話を聞くことが出来た。
「あれはウサギだよ」
「ウサギ…ですか」
「大学病院にいる先輩から預かったんだ。何やら実験用に購入したウサギの数に手違いがあって、置き場がないから暫く預かってほしいらしい。他の医者仲間にも呼びかけて避難先を募っていたらしくてね、かなり困っていたから、一匹だけという条件で引き受けた」
「そうでしたか」
 ではやはり中にいるのはウサギだったのか…と納得した柳生の前で、彼の父は困った様に溜息をついた。
「あまり神経質に考えなくてもいいとは思うが、衛生面だけが少し心配だな…然るべき業者から購入した生き物だから変な病気は持っていないとは思うが…こっちも患者に接する仕事だからね」
「ああ…」
 確かに、動物というのは種が何であれ伝染病の媒体になる危険性が高いことは事実だ。
 一般の店や病院でペット持込が禁止されているのも、それを踏まえての事。
 医師である父親の懸念も尤もだと納得した柳生は、そこで父親に申し出た。
「では、返すまで私が世話を引き受けましょうか」
「ん? お前がかい?」
「はい」
 眼鏡のフレームに指を触れさせながら、柳生はこくりと頷いた。
「幸い私には自分の部屋があります。玄関ではなく、私の部屋の中で飼うことにしたらお父さんとウサギの接触は避けられるでしょう。昼は学校に行きますので不在になりますが、朝と夕方に世話をしたら問題はないと思われます」
「ふむ…」
 息子の申し出に、父親は確かにその通りだと頷いた。
 普段からきっちりと自分を律する事が出来る自慢の息子ならば、ウサギの健康管理もしっかりやってくれるに違いない。
「…頼んでもいいのかな?」
「勿論です」
「ではお前に任せよう。先輩の話からもそんなに長い期間ではないらしいから」
「はい」
 そして、柳生はウサギの世話を引き受けると、早速ケージを自分の部屋の中へと運び込んだ。
 大きさはかなりのものだが、中にはウサギ一匹しかいないので、彼は割とあっさりとケージの移動に成功した。
「…この辺りでしょうかね…よ…っと」
 部屋の片隅…壁が露出している空いた空間に、柳生がケージをごとりと設置した時、偶然にも被せていた布が外れ、初めて中が露になった。
 柳生とウサギの初のご対面である。
「……え?」
『……』
 ウサギと聞いていた…筈ですが…
 柳生の偏光眼鏡の奥の瞳は、きっと極限まで見開かれていた筈だ。
 目の前にいるウサギである筈の生き物の、意外過ぎる姿を再確認しようと。
 しかし何度繰り返して見ても、彼の目の前のウサギは最初に見た姿から何の変化も見せなかった。
(人…!?)
 白いウサギ耳、白いウサギ尻尾は普通のウサギの持つそれだったが、他の頭部、体幹、四肢は自分と同じ人類の持つそれだった。
 いや、イメージで言えば、よく漫画で見かける三頭身。
 黒髪のおさげの少女…しっかりと制服らしい服を纏いこちらを見上げてくる姿は、三頭身ではあるが人間としての年齢は自分と近いと感じられた。
(え…ウサギ? 人? クローン…ではなくてこの場合は異種交配…? いや、そんなまさか…)
 そこまで日本の技術が発達しているという話は聞いていないし、そもそも倫理上どうなんだ!?と、半分パニックに陥りながら、柳生は再びリビングへと戻って父親へ声を掛けた。
「あ、あの、失礼します…お父さん、あの…」
 紳士として極力動揺は隠しながら声を掛けたが、それでも僅かに声が震えている息子に、父親はああと気づいてすぐに応じた。
「見たかい? 綺麗な白ウサギだっただろう、購入した中でも一番の美人さんだと先輩も言ってたな…実験に使われると思うと可哀相だが…」
「……」
 尋ねるより先に答えを与えられてしまった。
 どうやら『彼女』を人型として認識しているのは自分だけらしい…
 それ以上、何を問う事も出来ずに、柳生はまだ多少混乱しながら自室へと戻った。
 戻ったところで、今度こそ普通のウサギに見えないかと期待したが、ケージの中にいたのは、やはりおさげの少女の姿をした生き物。
「…あなたは何者なんです?」
『?』
 屈みこんで話しかけたが、向こうは不思議そうに首を傾げて微かに微笑を返すのみ。
 ウサギに人の言葉が分かる訳がないと分かってはいたが、つい声を掛けてしまった…
 しっかりしなさいと自分自身を戒めながら、彼がケージの入り口のロックを外して扉を開けると、それを見た相手が早速好奇心旺盛の様子でひょこっと外へと出てきた。
 それと同時に、柳生がケージの上部にセロテープで留められていたメモ紙に気づく。
(…ああ、納品書の写しですか…コードSA−KUのNo.618555)
 そう言えば、この子にはまだ何の名前もない…これから数日は共に過ごす事になるし、何か名前をつけた方がいいのか。
(とは言え、あまり悩んでつけた名前だと、情が移るかもしれませんし…そうですね…)
 ではこの写しのアルファベットから、SA−KUNoを繋げて…
「…サクノ、貴女の名前はサクノにしますよ」
 理解しているのかはやはり分からなかったが、自分を呼んだと感じたのか、その人型の白ウサギは屈んだ柳生の膝にちょいっと前足を乗せて伸び上がり、にこーっと笑った。
『はぁい』
「…っ」
 何となく、声無き返事を聞いた気がして、柳生は思わず眼鏡を押し上げながら視線を逸らした。
 それから彼のサクノの世話が始まったのである。

 当初は、実験動物なので返す際に問題があってはならないという気持ちでサクノの世話を始めていた柳生だったが、一週間もするとそんな念は一切彼の思考からは失われていた。

「お早うございます、サクノ。よく眠れましたか?」

「ただいまサクノ。いい子にしていましたか?」

「お休みなさいサクノ、ゆっくりと眠るんですよ」

 柳生の細やかな世話がサクノの心を先に開いたのか、サクノの素直で賢い姿が柳生の心を打ったのかは不明だが、気がついたら柳生が家にいる間の殆どの時間、彼はサクノを自分の膝上に置いて可愛がるようになっていたのだった。
 そこには、サクノが実験用動物であるという事実はもう無いものに等しかった。
 しかし…



「…?」
 その日、柳生が家に帰ると、玄関先に見知らぬスーツ姿の男が立っていた。
 客人かと思い、柳生が挨拶をしようと視線を固定させたところで、相手の腕の中にサクノが抱かれているのを見て、彼は思わず声を出していた。
「サクノ!?」
 サクノはとても不安そうな顔で、自分を抱いている男の腕の中で震えている。
 そしてその見知らぬ男は、玄関先で柳生に簡潔な挨拶をした。
「ああ、君が比呂士君だね。お父さんから話は聞いているよ、この子の世話をしてくれたんだってね。ようやく大学の飼育室に空きが出来たから、この子を引き取らせてもらうよ」
「!!」
 ざぁっと顔…いや、全身から血の気が引いていくのを感じながら、柳生は咄嗟に相手の腕を掴んで大声で尋ねた。
「そんな…! サクノは…どうなるんです!?」
 柳生に対して父親の知己らしいその男は、逆にどうしてそこまで真剣に聞くんだと不思議そうに答えた。
 それは明らかに…研究者としての、一種の冷酷さを備えた表情だった。
「え? いや、そりゃあ実験用の動物だからね…開発途中の薬物を打たれて経過を観察されるか…或いは薬の効果を確認する為に、必要なら解剖も…」
「っ…そんなっ!!」
 この子が、サクノが…そんな惨い目に…!?



「嫌ですっ!! 返して下さい!!」
 自身の大声で、柳生は目を覚ましていた。
 真っ暗な自分の部屋の中、上半身を起こした姿で、彼はベッドで暫く呆然としていた。
 全身が汗でぐっしょりと濡れている…息も荒くなっている…
 物凄く夢見が悪かった様だ…いや、事実最悪だった。
(夢……良かった…)
 あれが現実の話だったら…今思っても震えが走りそうだ…しかし、いつかはあの光景を迎える日が来るのか…忘れていた…
 まだ息が整っていない柳生の耳に、かしゃかしゃと金属の音が聞こえた。
 ケージの金網を、サクノが手で叩いたり、引っかいたりしているのだ。
 傍のテーブルランプを点けてから柳生が起き出し、ケージの扉を開けると、とても心配そうにこちらを見つめるサクノが柳生に飛びついてきた。
 どうやらうなされていた柳生を気遣ってくれているらしい。
「…大丈夫ですよ、サクノ…ええ、大丈夫です。貴女は何の心配も要りません」
 あの悪夢は夢でしかないと納得させる様に、柳生はサクノにそう優しく声を掛けながら、温かく柔らかな彼女の身体を抱きしめていた…


 翌日、柳生は帰宅後、数枚のプリント用紙を手に、帰ってきた父親と母親達に或る提案を持ちかけていた。

「お父さん、お母さん、私の今後の小遣いの使用方法について少々ご説明したい事が」

『?』



 そしてかつてない程の熱弁を奮った後、柳生は自室に戻ってケージの中のサクノを優しく抱き上げ、いつもの様に自分の膝上に置いた。
「ただいまサクノ…今日は贈り物があるんですよ」
 そう言って彼が出したのは赤く煌く美しい色合いのリボンであり、彼はそれを優しく桜乃の首に巻いてやった。
「私の小遣いで、貴女を買い取るようにお願いしてきました…今後の餌も、必要な物品も、散財しなければ十分に賄えるでしょう。貴女は今日から正式に、私のものになりました」
 貴女を、酷い実験などに使える訳がない…と呟く柳生に、桜乃は身に起こりえた不幸を知る由も無く、嬉しそうに笑っていた。
 しかしそれでいい…そんな未来など、教える必要もないだろう。
「…こんな事になるなら、もう少し名前を練ってあげたら良かったですね……けど、貴女も気に入っているようですから、まぁいいでしょう」

 そしてサクノはそれからも、柳生にとても大切にされながら幸せな日々を送るのであった…





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