不思議な生き物・柳編
「ふむ、もうこの季節になったか…」
ある日、立海の中学三年生である柳蓮二は、校内の掲示板に張られていた一枚のポスターに視線を向けていた。
全国の中学生有志の論文を募集する要項を示したそれを眺めながら、彼はその提出期間を確認する。
「まだ期限にはゆとりがあるが…テーマは早めに決めておくべきだな、考えておこう」
実は例年それに論文を送っては、最優秀賞を獲得している若き天才は、今年も当然それに参加する意欲を見せていた。
そこに、親友であり、同じテニス部レギュラーでもある真田弦一郎が通りかかった。
「む、蓮二…今年も応募するのか?」
「ああ、折角の機会だからな…それに賞を取ったらかなりの額の図書券が貰えるのでな、とても助かる」
「お前らしいことだ…今年の題は?」
「いや、まだ決めていない。焦って考える必要はないが、惰性で書くつもりもない。良いテーマを選びたいものだ」
「そうか…早く見つかればいいな」
「有難う」
理解ある親友の応援の言葉を受け、柳は笑って頷いた。
そんな彼が当日の部活動も終了し、いつもの様に帰り道を歩いている時の事だった。
繁華街近くを歩いていた彼は、ペットショップの前を通り過ぎようとしたところで足を止めた。
「…」
細い目で、じっと彼が見詰めた先は、ペットショップの商品でもある様々な動物たちが見通せる、ガラス張りの壁向こうに置かれていた一つのケージ。
その中にいたのは一匹の動物だったのだが、博識な柳でさえ、それがどういう種であるのかは分からなかった。
(…人型?)
その身長は三十センチにも満たない小さなもので、片手でも持てそうな大きさしかない。
ケージの中でも片隅に寄って小さく丸まり、じっとしている様子から、大人しい性格なのだろう事は推測出来るのだが…問題はその外見だった。
人間…頭身はかなり小さいものだが、明らかに少女の姿だという事は分かる。
髪の毛は黒く長くおさげでまとめられており、服も何故か制服だがちゃんと身につけている。
しかし頭頂部の両脇からぴょこんと生えている二本の白い耳と、お尻についている白いまんまるな尻尾は決して人の持つものではない。
(人間…という事はありえないな、しかし、これはどういう珍獣だ…?)
自分の知らない知識には例外なく貪欲な柳は、そのまま素通りするには惜しいと思ったのか、過ぎる筈だった店の中へと足を向けた。
中に入ると鳥や犬や猫達の鳴き声が賑やかに聞こえてくるが、彼はそれらに意識を向ける事もなく、真っ直ぐに店員の方へと歩いて行く。
「失礼…向こうの壁際に置かれている動物について少々お訊ねしたいのだが」
「はい、いらっしゃいませ、どちらになりますか?」
若いペットショップの女性店員はにこやかに柳に応対し、その問題のケージ前まで同行してくれた。
「この…」
「ああ、ミニウサギですね。血統書はない雑種ですが、真っ白で可愛くていい子ですよ。桜乃って名前です」
「………ウサギ?」
動物の名前より、その店員が述べた相手の種について思わず柳は聞き返した。
この、明らかにウサギらしからぬ容貌の生き物が…?
確かに耳と尻尾はウサギと呼ばれる生き物のそれに酷似しているが…肝心の身体はどう見ても違うだろう、なのに店員はこれをウサギと断言している。
「…???」
自分の目がおかしくなったのだろうか…と悩みつつ、柳がじーっとケージに顔を近づけて凝視していると、その視線の熱に気づいたのか、昼寝をしていたらしい問題の小動物がぴょこ、と顔を上げて柳と視線が合った。
『…!』
その生き物は確かに人間そのものの顔をしており、黒く大きな目を輝かせながらすぐに柳の方へと寄ってきて、ぺた…と自分達を隔てているガラスの壁に右の前足をつけた。
「あら珍しい。この子は凄く内気で、私達相手でもなかなか寄ってくれなかったんですよ。お客さんが気に入ったのかしら」
「……」
それからも店員は、今はセールでお得ですとか、お勧めの飼育キットがありますとか説明していたが、柳はそれについては殆ど右から左へ受け流す感じに聞いており、ひたすらその白ウサギを見つめていた。
向こうも、じっと大人しくしながらもその顔には嬉しそうな笑みを称えて、こちらから視線を外そうともしない。
(…俺にしかこういう姿では見えないのか…? どういう原理でこう見えているのか非常に興味深い…もしやしたら新種のウサギか。しかし俺にしか見えてないとなると、その証明からして難しいが…何れにしろ、他のウサギとの相違などを比較して研究するのも面白いし次の論文のテーマにもなるか…)
様々な事を考えていた柳だったが、こんな興味深い生き物と会う事は二度とないだろうと思い、結局彼はその人型に見える白ウサギを購入して持ち帰ったのだった。
「さて…連れ帰ったはいいが、やはり躾は重要だな。その理解度についても研究の余地があるかもしれない」
自宅に戻り、自室に桜乃を連れ込んだ柳は、どんな反応を示すのかを確かめる意味で、全ての出入り口を封鎖した状態で彼女を放ってみた。
そろっと遠慮がちに外へと足を踏み出した桜乃は、きょろっと辺りを見回した後、おどおどとやや挙動不審の様子で部屋の中の見回りを始めた。
(ふむ…内気で臆病だという性格は、あの店員が言った通りだな…しかし表情が分かる分、どんな気分でいるのか察しやすいのは助かる)
そう思い、暫く彼女を自由にさせていた柳は、ある程度の時間が経過したところで、そのウサギの名前を呼んだ。
先ずは自分の名前を呼ぶことで覚えさせなければ躾も始まらないだろう。
「桜乃、桜乃」
幾らペットショップでも名を呼ばれていたとは言え、それは仮の名に過ぎず、一日に何度も呼ばれていた訳でもないだろう…と殆ど期待もしていなかった柳は、二回繰り返して桜乃を呼んだ…ところが、
『…?』
その名前を耳にした途端、桜乃の白い耳がぴーんと立って柳の方へと向くと、彼女もまた振り返って、真っ先にぴょこぴょこと足元へと近づいて来たのだった。
その反応の良さたるや、訓練を仕上げたばかりの警察犬ばりのものだった。
「………」
内心驚いている柳の前で、行儀よく座ったままの桜乃は『なぁに?』と言いたげに首を傾げて笑っている。
(…い、いや、まさか…おそらくは桜乃という名前ではなく、『音』に反応したのだろう)
俄かには信じられない相手の理解力に、若者は再び桜乃を抱いて少し離れた床に置いて遊ばせると、今度は全く関係ない単語をそらんじ始めた。
「テニス、数学、学校、テスト、アインシュタイン…」
どれにも共通点のない単語を幾つも口に出していくが、今度は相手のウサギは全くそれには興味を示さない様子で、ふんふんと床の畳の匂いを嗅いで遊んでいる。
柳の意味のない単語の羅列は暫く続き……
「教師、生徒、チョーク、椅子…桜乃」
それらの単語の中に混じって再び柳が名を呼ぶと、途端に桜乃が顔を上げ、ぴゅーっとこちらに向かって駆けてくる。
「………」
ここまで来ると疑い様もない…彼女はもう既にそれを自分の名前として認識している。
(…ウサギにしては賢いな…いや、もしかしたら誰かが頻繁に呼びかけていたのかもしれない…)
あくまでも分析は冷静に、慎重に行わなければ…と柳は己を戒めた。
ところが。
それからすぐに、彼は相手のウサギがやはり並ならぬ理解力を有している事を確認する事になった。
『餌は毎日決まった時間にこの中に置く』
『起床は六時、就寝は十時』
『部屋の中を散らかしてはいけない。お前の寝床はここだ』
『中で遊ぶのは構わないが、家具を噛んだり爪を立てる事がないように』
これらを動物に言って聞かせて、その通りに行動してくれたらどんなにいいことか…と世界中の飼い主達が羨む様な命令を、柳が一回出しただけで、桜乃はそれを悉く実践したのである。
お陰で柳の部屋は、彼の努力が一層必要になる事もなく清潔を保ち続け、叱る声も一切聞かれる事はなかったのだ。
「蓮二、論文の方はどうなっている?」
「ああ、弦一郎」
某日、真田が柳にいつかの論文の件について教室で尋ねたところ、相手は静かに笑って穏やかな表情で答えた。
「色々と考えたのだが、今年の提出は見送ろうと思ってな」
「ほう」
意外そうに相手は軽く目を見開いた。
相手が怠惰を理由に不参加を表明することはあり得ない、きっと何らかの理由がそこにあったのだろうと思った真田は、興味深そうにそれを訊いた。
「テーマが見つからなかったのか?」
「いや、考えてはいたのだが…勿体なくなってしまった」
「勿体ない?」
「ああいや…どう言えばいいのか…そうだな、まだ俺も発表出来る程にそれを理解していないという事だ」
「…成程」
中途半端な知識と理解のままに己の考えを文に著し発表する事は、確かにこの男に限ってはあり得ない、と真田は解釈し、苦笑した。
「少々残念だな…お前ほどの男なら、間に合いさえしたら相応の賞を取る事が出来ただろうに」
「…いや」
相手の言葉に、柳はまた穏やかに笑いながら首を振った。
「賞以上に良いものを、俺はもう貰ったからな。代償と思えば安いものだ」
「?」
同日夜、柳は自室で卓の前に座り、数枚の原稿用紙を眺めていた。
自分が飼っている或る動物についての研究内容とその考察を纏めたものだったが、彼は暫くそれを見つめた後、今度は傍の床でテニスボールと一緒に遊んでいる桜乃を見遣った。
お気に入りらしいその遊び道具に夢中になっている相手の微笑ましい姿に、柳はふ、と微笑みを浮かべ…びりっと未練もなく手の中の原稿を破く。
それらをただの紙切れに変えてしまうと無造作に屑入れの中に放り込み、彼はすっきりとした表情で桜乃を呼んだ。
相変わらず自分が呼ぶとすぐに飛んでくる小動物を、優しく抱きあげて膝の上に乗せ、若者は彼女の頭を撫でながら呟いた。
「お前という希少な生き物の存在を伏せるというのは、正しい事ではないのかもしれない…だが、俺にはもうお前を研究対象と見る事は出来ないからな…分からない、知りたい事も多すぎるし、紙の上で結論付けられるものとも思えない」
最初は確かに、その賢さに驚き、良い研究材料が見つかったと思っていた。
しかし徐々に…お前の世話をしたり、傍に寄せたり、膝の上に抱き上げるようになる内に、己の中に葛藤が生まれてきたのだ。
研究の為にと思っている一方で、そう看做したくないという気持ちが。
加えて、お前の事を発表することによって、お前に向けられるだろう奇異の視線を思うと、不愉快で堪らなくなっていた。
『…??』
不思議そうに首を傾げた桜乃に、柳は困った様に笑った。
「いや、お前には分からなくてもいい。こうして、俺の傍にいてくれたらいい…お前の姿が見えるのが、俺で良かった」
優しい指遣いで自分を撫でてくれる柳の胸の中に顔を埋めながら、桜乃は幸せそうな微笑みを浮かべて、ずっと離れようとはしなかった…
了
Shelfトップへ
サイトトップへ