「え?」
「竜崎さん、ちょっと…」
ずいっ!
「!?」
それからも幸村は数歩桜乃の方へ踏み出して彼女を歩道脇の塀へと追い詰めると、今度は相手の身体をぎゅ、と抱き包んできた。
(ええええ!?)
瞬間、記憶の奥に追いやろうとしていたあの夢がフラッシュバックする。
嘘!?
これって、夢の続き…じゃないよね? 現実だよね?
現実なのに、どうして幸村さんが…
頭の中が真っ白になって桜乃が硬直している間に、二人の背後を大型のトラックが走り抜けていく。
その大きなタイヤが二人の傍にあった水たまりの泥水を激しく散らし、ばしゃっと一部が幸村のズボンの裾へと掛かってしまったが、本人は気にする様子もなく、桜乃を庇う様に抱き締め続けていた。
やがてそのトラックも走り去り、聞こえていたエンジン音も静かになったところで、ようやく幸村は桜乃の身体を優しく解放した。
「ごめんね、君があそこにいたら巻き込まれたり、泥はねしちゃいそうだったから…大丈夫?」
「…」
「竜崎さん?」
呼びかけられても、桜乃は答えない、いや、答えられなかった。
(だ、抱き締められちゃった…幸村さんに…! うわ、どうしよう、顔から火が出ちゃう! 見られたら、真っ赤になってることバレちゃう…! うあああ、だめだめだめ、頭がぼーっとして、真っ白になって…)
ふらぁっ…
「! 竜崎さん!」
相手の足取りがおぼつかなくなり、あわや倒れるといったところで間一髪、幸村の見た目より逞しい腕が彼女を支えていた。
「竜崎さん、どうしたの!?」
「……」
声を掛けてもぐったりとして返事がない娘に、幸村はいつになく逼迫した表情で、急いで彼女の額に手を当てた。
「熱い…」
明らかに平熱じゃないそれを感じながら、幸村は急いで次に取るべき手段を考える。
彼女の家…は遠すぎる、病院もここから運ぶには結構時間が掛かるし…一度身体を休ませるには、やはりうちの学校が一番近いだろう。
「…しょっと」
桜乃の身体を前に軽々と抱き抱えると、幸村は一路、急いで本来の目的地である立海へと向かっていた。
『大丈夫なのかい? おさげちゃん』
『保健の先生が風邪だろうって…今は休ませてるから大丈夫だよ。後で水分を摂らせて様子を見よう、必要なら帰りも送っていくよ』
『ふむ、大事なければ構わんが…にしても病院に行っていた筈のお前が病人を連れて来るとは驚いた』
『ふふ、俺も目の前で倒れられた時はびっくりしたよ。念の為に、俺はもう少し彼女の様子を見ていくから、部の方は宜しく頼むよ、弦一郎』
『分かった…』
「――――…」
そんなやり取りの声が聞こえてきて、桜乃がぼんやりと目を覚ます…が、起きた時にはもうその会話の内容は覚えていなかった。
見慣れない部屋、微かに香る、消毒薬の特徴的な匂い…
そうだ、ここは自分の学校のものではないが、保健室という類の部屋にとても似ている…
白いベッドに寝かされた桜乃がきょろっと周囲を見回している様子に気付いたのか、少し離れた部屋の出入り口付近にいた人物が、すたすたとこちらに歩いてくる。
「目が覚めたかい?」
「幸村さん、私…?」
幸村だった。
しかし今はもう制服姿ではなく、いつもの立海のジャージ姿に着替えている。
いつの間に着替えたのか…いや、そもそもあの道で出会ってからの記憶が自分にはない…
どういう事なのか分かっていない少女が身を起こそうとしたところを、やんわりと幸村が手を出しつつ止めた。
「ああ、ダメだよ。熱があるんだからまだ寝てなきゃ…」
「え…?」
きょとんとして自分を見上げてくる桜乃に、幸村が困った様に笑った。
「覚えてないかな…君、道で倒れちゃったんだよ。一緒にいた俺も驚いた。立海(ここ)が一番近かったから、取り敢えず連れて来たんだ」
どうやら、ここは立海の保健室らしい。
それが分かってもまだ熱の影響か、驚く反応も今一つ鈍く、桜乃が静かに自分の言葉に聞き入っている様子を見て、テニス部部長はベッド脇で心配そうに首を傾げる。
「それにしても無茶をしたね、あんな熱があったのにウチに来るなんて…言ってくれたら、見学ぐらい先送りにも出来たのに…」
「私…熱があったんですか?」
自分自身の不調にも気付いていなかったらしい少女の、呑気とも取れる発言に、相手が軽く目を見開いた。
「気付いてなかったの? 結構高かったから、身体もだるかったんじゃないかと思うんだけど…」
「それは……私てっきり、幸村さんの夢の所為かと…」
「え?」
「!!!」
つるっと口を滑らせた発言に、がばっと桜乃が自分の口を抑える。
しまった!
熱だ何だと話している勢いで、ついうっかり…!!
やばい…と思った時にはもう遅かった。
聞き間違いです、という言い訳も出来ない程に、先程の自分の発言はしっかりと相手の耳に拾われてしまったらしい。
「…俺の夢?」
「えええええと、その…」
面白い事を聞いた、とばかりに、幸村がゆっくりとベッドの上から自分を見下ろしてくる。
笑っているが…瞳の奥には獲物を逃がすまいと狙う野生の光が覗いていた。
「どんな夢…?」
「ああああ、あの…それ、はその…」
ベッドの中で身じろぎながらどもっていた桜乃が、は、と気付く。
いつの間にか。
相手の両手が自分の両の腕をしっかりと抑えつけ、逃げられない様に封じていた。
いや、逃げるつもりは最初からなかったが、この姿勢で桜乃は更に朝のあの夢の内容をはっきりと思い出してしまう。
似ている…そっくりだ。
こうして自分はベッドの上に仰向けになっていて、相手が笑いながら腕を抑えつけてきて、顔を寄せて来た…夢はここまでだった。
でも今は間違いなく現実で…服こそ違えども、向こうは夢と同じ様に自分を拘束している…
夢とは違う今、彼はこれからどうするのか…
「あ…」
私は、一体どうされたいのか……
「の…」
分からない。
本当に分からないのか、ただ今は熱に浮かされて考えられないだけなのか…それすらも分かっていない。
どうしよう…彼に答えたいけど、答えたら…私の気持ちまで今度は暴かれてしまいそう…
「…」
潤んだ瞳で、途方に暮れた様な表情で、こちらを見つめてくる桜乃の姿に、幸村は軽く身を震わせた。
やっぱり…凄く可愛いじゃないか、この子。
こんな可愛い反応をしてくれているんだから、きっと夢の中の俺も無碍にはされていないんだろうって…ちょっとは期待してもいいのかな…?
出来たらこのまま、強引に夢の話を聞かせてもらいたい気もするけど、病人相手じゃフェアじゃないよね…仕方ないけど。
「……ふふ」
微かに笑い声を漏らし、幸村はもう一度桜乃に視線を合わせて言った。
「今日は俺が退いてあげる…君が元気になったら、夢のこと、聞かせてね」
「!…」
「約束だよ」
そして、幸村はその約束の証を示す様に、
ちゅ…
「!!!!!」
桜乃の、まだ熱が下がり切っていない額に優しくキスを落とした。
告白はまだしていないから…恋人という訳でもないから…
唇へのキスは、今日は我慢してあげる。
でもこれで…少なくとも俺の気持ちは伝わったよね…?
ああ、そうだ。
これは『予約』の意味でもあるんだから、もう俺以外の奴に目を向けるのはダメだよ。
現実でも、夢の中でも…俺だけ見てて……
翌日…立海大附属中学の三年生の教室にて…
「竜崎が、四十度の熱を出して学校を休んでいるらしい」
「えええええっ!!?? マジっすか!?」
テニス部参謀の柳が何処からか仕入れて来た噂をレギュラーに披露し、遊びに来ていた二年生レギュラーも含めて全員を驚愕させていた。
「昨日の無理が祟ったんじゃないのか?」
ジャッカルの心配そうな口調に、柳生も同調して頷く。
「確かに…保健室で休ませはしましたが、元々華奢なお方ですし…」
「俺らが悪い訳じゃないが、気の毒にのう…」
相棒の仁王もいつになく神妙な顔で相手を気遣う言葉を口にしている。
「帰りも顔が真っ赤だったし、ふらふらしてたもんな」
「うむ。養生して早く良くなってくれたらいいのだが…」
丸井や真田も各々そんな台詞を述べた後、近々都合がついたら見舞いにでも行こうか…という話に移っていく。
そんな彼らの陰で、部長の幸村だけはこっそりと背を向け、愁眉の表情で口元に手を当てていた。
(……俺の所為かなぁ、やっぱり)
あれでも結構抑えたつもりだったんだけど…刺激、強かったかな…?
どうやら夢の話の続きと彼女の返事を聞くのは、もう少し先になりそうだ。
少し残念に思いつつも、その美麗な若者は、恋しい少女の一日も早い回復を心から祈っていた…
了
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