飲み物をもってこい


 或る日、青学と氷帝のテニス部レギュラーが青学コートに集まり、練習試合を行う重要な日のこと。
「青学じゃあ客のもてなし方もロクに知らねぇ様だな」
「?」
 相変わらずの俺様帝王である氷帝側の部長、跡部景吾は、氷帝側に準備されていたベンチに堂々と座りながらそんな台詞を口にしていた。
 たった一人で呟く程度のものならそれは単なる独り言で終わっただろうが、その時の彼の傍には実は青学の一年ルーキーがいて、彼の聞こえの良い耳は跡部の台詞をしっかりと拾い上げていた。
 ルーキーの名は、越前リョーマと言う。
 何を言い出したのかと、越前が『は?』という様な表情を自分の背後で浮かべている事実を察していたのか否か…跡部はその後も同じ様に不遜な口調で続けた。
「わざわざ俺様たちがはるばる出向いてやったんだ。飲み物の一つも出すのが最低の礼儀って奴だろう、これだから二流は…」
 むっかぁ…!
(そこまで言うならプールに沈めて死ぬほど飲ませてやってもいいけど…アオコブレンド水)
 思わず口元までそんな悪態が出かかったが、結局越前は何も言わずに跡部の背後からすたすたと青学のメンバー達がいる方へと場所移動。
 別に相手に圧されている訳ではない。
 ただ、ここにいる限りまた向こうから余計な台詞を聞かされるだろうし、そうなると結局何かしらの飲み物を持っていってやらなければならなくなるのだ。
(ったく、大体飲み物欲しくなるのは予想出来ることなんだから、そっちはそっちで準備してるの出せばいいじゃん)
「あ、リョーマ君」
 そんな不機嫌状態の越前に、同級生の竜崎桜乃が声を掛けて来た。
 彼女の祖母が越前達の顧問という縁があり、テニスに興味を持った彼女は応援という形でそこに来ていたのだった。
「? どうしたの? 機嫌悪いみたいだよ?」
「別に」
 機嫌悪いみたいじゃなくて、実際悪いんだけどね…と内心は思いつつ、彼はそっけない返事を返した…ところで、
「…ん?」
 ふと、その少女の手にしている紙コップを見た。
 茶色の液体が入っている…見た目と漂ってくる香りは紛れもなくコーヒーだが、彼女、そんな苦いものを好んで飲んでたっけ…?
「コーヒー?」
「あ、ううん違うの。これ、乾先輩の試作品」
「…」
 越前が黙ってしまった向こうで桜乃が苦笑いしながら説明した。
「匂いと見た目をコーヒーにしたら、少しはみんなも飲み易くなるんじゃないかって作ったらしいんだけど、さっき間違えて飲んだカチロー君が倒れちゃって…処分しようかなって」
 また誰かが間違えてしまったら、しかもそれがレギュラーだったら大事になるもんね、と言う少女に、越前が不意ににやっと意味深な笑みを浮かべた。
 これは…使えるかもしれない。
「ねぇ、それどうせ捨てるなら俺にくれない?」
「え? これ? どうするの?」
「有効利用」
「?…いいけど」
 詳しくは説明されなかったが、どうせ捨てるだけだし…と判断した桜乃は何の気もなく相手にそれをコップごと手渡した。
「サンキュ」
 魔のアイテムを手に入れた少年は楽しそうに笑い、くるっと背を向けて何処かへと歩き出す。
 何となく手渡した手前、気になってしまった桜乃もまた、そんな彼の後をついていくことにした。
 もうすぐ試合が始まるというのに何処に行こうというのか…と桜乃が疑問に思っていると、例の少年は真っ直ぐに跡部の座っているベンチへと向かっていく。
(…え?)
 何で…?と考えている間に、彼は向こうの部長の傍へと到着し、何事かを話しかけながら…よりによって相手に向かってあのコップを差し出していた。
(ひいいいいいっ!! 毒殺目的――――――っ!?)
 まさかそんな事をやるとは当然全く予想していなかった桜乃は、大慌てでそちらへと走り出す。
「わーんっ!! 跡部さん、飲んじゃダメ〜〜〜〜〜ッ!!!!」
 必死の制止も空しく、向こうは完全にコーヒーと思いこんでいたのか、疑う様子も無くくいっとそのコップの中身を呷ってしまった。
 その一秒後、恐れていた事態が目の前で展開する。
『…っっっ!!!!!!』
「跡部さんっ!?」
 遅かった!!と桜乃が彼の傍に駆けつけた時、向こうは口元を手で押さえて必死に何かを耐えていた。
「〜〜〜〜〜っ!!!!」
 カチローが卒倒したという程の効き目(?)があるという事だったが、それでも意識を保っているのは流石と言うべきか…しかし既に顔色は真っ青で、額には危険な異物を体内に投入した所為で冷や汗が滲んでいる。
「く、あ…・っ!! 何でもいいから、『飲める』飲み物を持ってこいっ!!」
 意識を保つばかりでなくちゃんと人の言葉も叫べた事は、彼が帝王であるが故かもしれないが、いっそ気絶した方が楽だったかもしれない。
 それを安易に許せないというのも、或る意味、損な性分だ。
「飲めたじゃない、ソレ」
「リョーマ君っ!!」
 相手を叱った桜乃だったが、今はそれよりやる事がある。
 彼女はその近くに水飲み場がある事を思い出した…が、全身を震わせている跡部に、今そこまで動くのは難しそうだ。
 とにかく桜乃は無我夢中で水飲み場に向かって、その内の一つの蛇口を勢いよく捻った。
 しかし滾々と湧き出る水を見てそれを彼の許へ運ぼうとしたところで、自分が何も持っていない事に気付く。
「ああんもう! ええと…!!」
 気が動転していたとは言え、自分のドジ!と叱咤しながら、桜乃は両手で出来るだけ沢山の水を掬い取り、そのまま跡部の許へと戻って行った。
 急げばそれだけ揺れが酷くなり、水が手から溢れて零れてしまいそうになったが、桜乃は出来る限り細心に、そして急いで、苦しむ帝王へそれを運んだ。
「跡部さん! お水です!!」
 言いながら水を貯めた両手を差し出すと、向こうは一も二もなく顔をそれに寄せ、一気に中の水を飲み干してゆく。
 全てを飲んでもまだ痺れている舌先の感覚を少しでも取り戻そうというのか、跡部の唇が桜乃の掌に触れ、舌が指と指の隙間に残っていた僅かな水を掬い取った。
 ぴちゃっ…
「…っ」
 非常事態の中での出来事とは言え、桜乃が少しだけ動揺する。
 そんな渦中に、氷帝の忍足が何事かと傍に寄ってきた。
「…跡部、何しとるんや?」
 女の子の手から水を飲むなんて、ちょっといちゃいちゃしすぎやん?と、何も知らない彼がそう冷やかしている間に、桜乃は忍足がまだ未開封のスポーツ飲料のペットボトルを持っているのを見つけた。
「忍足さんっ!! お願い! それ譲って下さいっ!」
「え…これ?」
「後で必ずお返ししますから!!」
「???」
 あまりにも必死な少女の表情に半ば圧される様に、彼は素直に桜乃にそれを渡し…彼女はそのまま跡部へと渡した。
 ひったくるようにボトルを奪って栓を開け、跡部はあっという間にそれを空にしてしまった。
 まだ不快感の残渣は口内に残っていた様だが…どうやら峠は越したらしい。
「越前〜〜〜〜〜〜〜〜っ!!!!!!!」
 いつにも増して鋭い視線に殺気を漲らせながら叫んだ跡部だったが、既に犯人の姿はそこにはなかった。
「……一体何があったんや」
「話せば長いようで短い話なんですが…」
 激怒するのに夢中になっている相手では満足な答えは得られないと踏んだのか、忍足は代わりに桜乃へと尋ねたものの、少女も俯いてあまり話したくない様子。
 それでもぽつぽつとかいつまんで説明を受けたところで、その曲者はうえ、とあからさまに嫌な顔をした。
「あの地獄の名物を口にした、と…鋭敏な跡部の舌なら、そら大変やったなぁ…」
 よく生きていた、と感心している忍足と桜乃の前で、跡部は少年の目視による捜索を諦めたのか彼ら二人の方へと戻ってきた。
「あのルーキー、覚えていろ! 俺様の味覚をバカにしやがって…ったく、とんだもてなしだったぜ!」
 落ち着いたとは言え、まだ間違いなく怒りのマグマを心に滾らせているだろう相手に、桜乃はひたすらに詫びた。
 最初からこういう悪戯に使うと分かっていたら、自分も勿論渡すつもりはなかったのだが…
「すすす、すみませんでしたぁ〜〜!」
「あん…?」
 少女に謝られた跡部がその声の方へと視線を向けると同時に、少しだけ感覚が戻って来た舌を無意識にぺろっと覗かせる。
「っ!」
 赤く濡れて滑らかに動く舌…形の良い唇…それが、さっき私の手に……
 少女は自分の掌に触れた時の彼の唇と舌の感触を思い出し、微かに照れながら俯いた。
(わ……違う違う…あれは不可抗力)
 この人がそういう意志を持っていた訳じゃないから…と自分に言い聞かせている内に、跡部はちっと舌打ちして顔を横に背けた。
「よく分かった、青学では安心して飲み物も飲めないって事か…上等だ」
「そ、そんなぁ〜」
 もしかして、物凄く蔑まれてしまったんじゃあ…でも確かに乾先輩の試作品を初体験してしまったなら、その気持ちも分かるけど…と悩んでいる桜乃に、跡部がびしっと指を指した。
「おい、竜崎」
「はい…?」
「どうやらお前は少しは信用出来そうだ…よく聞けよ、俺はもう二度と青学では『お前が持って来た』以外の物を飲む気はねぇ…これからは、俺の飲み物は全て、お前が準備しろ」
「…え?」
 きょとんとする桜乃に、少し苛立った様子で跡部が念押しした。
「返事は!?」
「は、はいっ!!」
「よし、忘れるんじゃねぇぞ」
 桜乃が命令を受諾したと確認してから、彼は再びふんっと尊大な態度を取りながらその場を離れて歩いて行った。
 どうやら手塚の方へと向かっているらしい…先程のルーキーの悪戯を通告するつもりなのかもしれない。
 そんな彼の後を、忍足がついて行き…追いついたところでぼそっと囁く。
「…お見事」
「何の事だ」
「分からんならええけど…転んでも只では起きんのは流石やなぁ」
 向こうの非を利用して、ちゃっかりあの娘に譲歩する形でこちらの希望を通すとは…と目のみで訴え、口には出さない忍足だったが、向こうは視線そのものを完全に無視している。
「あのルーキーよりは、あの女の方が少なくとも美味い飲み物は作れそうだ…向こうが『良い』と言ったんだ、何を遠慮する必要がある」
(フツー、あんな目に遭わされたらここではもう何も飲まんやろ…)
 それでも彼女にああいう希望を述べるのは…理由は一つしかないんとちゃいますか?
 あのルーキーどうしてくれようと跡部が呟いているのを聞きながら、忍足はひたすらに『沈黙は金』を実行していた……






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