地獄を見て来い


 その日跡部は、朝から普段の彼なら絶対にやらない事を珍しく実践していた。
「お早うございます、跡部さん。今日はお招き下さって、有難うございました!」
「フン、随分と早いじゃねぇか。まぁ人を待たせない心掛けは褒めてやる」
 十時十分前…豪邸と呼ぶに相応しい跡部邸の玄関に一人の少女が来た。
 氷帝と同じくテニス強豪校の青学、その一年生の竜崎桜乃である。
 彼女は、休日の今日はいつもの制服ではなく私服姿で、淡色系の清楚なワンピースを纏って子の場を訪れていた。
 そのトレードマークであるおさげも、今日は姿を消してストレートの黒髪が柔らかに風に揺れている。
 普段も十分に女性らしさはあったのだが、今日のいでたちはそれにも増して女の子らしさが強調されており、それを見た跡部は最初の台詞を投げかけた後に暫く無言で相手を凝視していた。
「それは勿論ですよ、跡部さんをお待たせする訳にはいきませんもん…どうしたんですか?」
「珍しい格好だな。気分転換か?」
「あ、いいえ、これはその…」
 跡部の問いに、来訪者の少女はうっすらと頬を染めて俯きがちに答えた。
「ええと…跡部さんにお呼ばれされたので、ちょっとおめかししてみました」
「……」
「に、似合いませんでしたか?」
「いや…悪くないと思うぜ?」
「そうですか? 良かった…!」
 無邪気にはしゃぐ桜乃の前で、跡部は再び無言になる。
 何だ? 自分に会う為にお洒落をしてきたと聞いただけで、こんなに嬉しくなるのは初めてだ…俺様に会いに来る奴ならその程度の心構えは当然だろうに…
「あ、そう言えば…」
 そうしている内に、また目の前の少女が何かに思い当たったらしく顔を上げて跡部を下から見上げてきた。
「あのう…ここに立っていらっしゃったって事は、もしかして私を待って下さっていたんですか?」
「…まぁな」
「!!」
「何処かの迷子の小娘が、ウチの番犬に不審者と間違われて襲われた、だなんてことになったら、流石の俺でも寝覚めが悪いからな…」
「ううう…優しいお気遣い有難うございます〜」
 そうだろうとは思ってました…と、一瞬期待してしまった桜乃は、落ち込みながらも相手に礼を述べ、彼はつれなく背中を向けた。
 因みに、今の若者の発言は殆どがはったりである。
 本当は、跡部本人が桜乃に早く会いたいが為に、わざわざ玄関先に出て待っていたのだ。
 番犬達にも、とっくの昔に彼女の姿と匂いについて教え込み、絶対に襲わないように教育済みだった。
 一個人にどうしてこの俺様気質の帝王がそこまで執心するのか…答えは実に簡単明瞭。
 その帝王が、現在この一人の少女に、ぞっこんに入れあげているからに他ならない。
 そもそも学校から異なる二人だったが、彼らを引き合わせたのは他でもない、『テニス』だった。
 青学との練習試合や公式戦の度に彼女の姿を見かけ、相手方の顧問の孫であるという事実をしるのには、そう時間は掛からなかった。
 最初は、テニスに関してズブの素人で、内気で、どちらかと言えば地味な相手にそう深い思いいれはなかったのだが、出会う度に、何かに常に一生懸命な彼女の姿が目に付いた。
 テニスであっても他の事であっても、とにかく一生懸命に前向きで、傍の帝王には全く目もくれない…実際は、余所見をしているゆとりが相手になかっただけなのだが。
 兎にも角にも、そんな『つれない』相手に跡部が興味を持ち…気がついたら夢中になっていた。
 そうなったらもうこの男は止まらない。
 誇り高く尊大な態度こそそのままだったが、桜乃に対し積極的に接触を図り、互いを知り合う機会を持ち、徐々に相手の心の中に己の存在を残していき…ようやく最近、相手を家に呼ぶことに成功したのだ。
 それが今日。
 ガラにもなく、跡部は今日、興奮の余りに三十分早起きをして、その分朝のトレーニングを早めに済ませ、それからずっと桜乃が来るのを玄関先で佇みながら心待ちにしていたのだ。
 しかし、帝王がまさかそんな事をしていたとばらす訳にもいかず、先程の皮肉混じりの説明になったのだった。
 向こうもこちらに多少なりと好意を抱いてくれている事は眼力で明らかだが…惚れたそれとは言え、弱みを見せられない帝王も苦労する。
「まぁいつまでもここで長話している訳にもいかねぇだろ。極上の紅茶の茶葉が入ったから淹れてやる、来い」
 『入ったから』ではなく、この日の為に『取り寄せた』というのが正しい。
「わぁ、有難うございます!」
 きゃ〜っと無邪気に喜んでくれる少女を中へと入れ、特に念入りに掃除をする様に言いつけていた客間に通すと、跡部は早速その紅茶とお茶請けを持って来る様に執事に命じた。
 その間に桜乃は、丁度部屋に入って来ていた跡部の愛猫を見つけて大喜びでそちらに構い出していた。
「…ところで」
 猫を抱いて可愛がっている桜乃と、跡部がようやく待ちかねていた一時を過ごそうと思っていた矢先…
 RRRRR…
「…」
 傍の電話が勢い良く鳴り出した。
 ここに通じるということは…自分宛か。
(全く…何処のどいつか知らねぇが邪魔しやがって…)
 折角の逢瀬を…と思い切り不満を心に浮かべつつ、跡部は受話器を取り上げて耳元に押し当てた。
「もしも…」
『あーもしもし? 旦那さん? アンタんトコのお連れさんがウチに凄い迷惑掛けてくれててねー』
「…………」
 こちらが話す前から、向こうから随分とぞんざいな、威圧的な台詞が男の声を通して聞こえてきた。
 短い台詞の中でも山ほど突っ込みたい処があり、跡部は返事を返さずに沈黙してしまった。
 この時点で既に、帝王の怒りはチョモランマ八合目ぐらいにマグマが上昇している。
 そもそも向こうは名乗ってもいない、明らかに如何わしい相手で、こちらは立場的には中学生、決して『旦那さん』などではない。
 『お連れさん』と言うからにはパートナーとなるべき相手を指しているのだろうが、思い当たる人物は…
「…」
 振り返って桜乃を見ると、向こうはそんな電話口の黒い世界など無縁の様子で、きゃっきゃと猫をあやして遊んでいる。
 そんな彼女が掛けた迷惑ってどんなのだ…と心で突っ込んでいる内に、跡部が沈黙しているのをいいことに、向こうは更に脅迫めいた台詞を続けてきた。
『ウチに百万、至急で入れてくれないと、お連れさんを売り飛ばすコトになっちゃうよ?』
「…ほう、俺の女を売り飛ばす」
「?」
 物凄く物騒な発言だったが、それは実に小さな声でぼそりと呟かれるのみであり、結果桜乃には聞こえていなかったのは幸いだった。
 猫を抱き上げながら桜乃が見つめていた跡部の背中は、普段と変わりないものだったが、その裏では怒りの大噴火が起こっていたことまでは分からなかった。
 ついでに、彼がどれだけ恐ろしい憤怒の表情を浮かべていたかという事も。
「…てめぇは俺様の女が、たった百万ぽっちのはした金程度の価値しかないと言いたいのか…上等だ」
『え…?』
 跡部の返答が意外なものだったので、向こうは聞き返してきたが、もう彼は丁寧にそれに答える気すら失せていた。
「しかも折角のデートを邪魔してくれた挙句に売り飛ばすだと? 面白え、それは俺に対する挑戦だな」
 言いながら、跡部はゆっくりと右手の人差し指を、電話機本体に据えつけられていた謎の赤い丸ボタンへと伸ばし、笑いながら最後に締め括った。
「…一回、地獄を見て来い」

 かちっ…

 躊躇いなく、赤いボタンを押した跡部はそのまま受話器を置いた。
 それと同時に、邸の奥の方から物々しいサイレンの音が聞こえ始める。
 何事かと桜乃は猫を抱いたまま忙しなくドアの方へと視線を遣ったが、邸の主人である跡部は全く気にしていない素振りでこちらへと振り返った。
「あの、跡部さん…あのサイレン…火事とかじゃ…」
「ああ、心配するな。ちょっとした訓練だ」
「訓練…?」
「ウチを警備している奴らのな…まぁ気にするな」
「はぁ…」
 そうしている内に、部屋に執事が豪奢なカートを押して紅茶と菓子一式を運んで来た。
「景吾坊ちゃま、お茶をお持ち致しました」
「ああご苦労」
「……」
 様子を見ていても、ロマンスグレーの執事も全く先程のサイレンについては動揺している素振りはなく、主人である跡部と雑談まで始めている。
「今日は良い天気でようございましたな…的も見え易いでしょう」
「フン、まぁな…素人相手にあいつらが下手を打つ訳もない。些細な余興だ」
「仰る通りで」
(……何の話かよく分からないなぁ…)
 そうしている内に、桜乃の前にも美味しそうなクッキーと紅茶が差し出され、彼女は跡部とゆったりとした優雅なティータイムを迎える。
「どうぞ、桜乃様。イーラムより取り寄せたファーストフラッシュでございます」
「あ、有難うございます…わ、良い香り〜…」
 イーラムって何処だっけ…と思いつつも、桜乃は嗅覚で感じた紅茶の高貴な香りに夢中になり、嬉しそうにゆっくりとカップを口へ運んだ。
「…美味しいです!」
「当然だ」
 この跡部景吾の選んだ品に、間違いはない…と相変わらず自信満々の若者だったが、素直な喜びの声を聞いた事は純粋に嬉しい様子だ。
「お前は甘い物も好きだったな…この紅茶に相応しいクッキーも用意しておいた。遠慮なく食べるといい」
「はぁい」
 跡部の促しに笑顔で応え、早速クッキーを一枚手にとり、それを味わっていたところ、今度は窓の外が少し騒がしくなる。
「…?」
 ばらばらばら…と特徴的なプロペラ音と共に、黒色のヘリが飛んでいくのが窓越しに見え、更に同じく跡部邸の敷地内から、数台のバンが猛スピードで外へと出て行く様子が確認出来た。
 何やら、非常に物々しい…
「…あれも訓練なんですか?」
「ああ、ウチはそれなりに名を知られた財閥だからな。何かがあった時の為に常にハイレベルのSP達が常駐してくれているが、たまには実戦で勘を鈍らせないようにしないといけないのさ」
「はぁ〜……大変なんですね」
「そんな事はどうでもいいだろう……それより、一息ついたら、テニスをしないか?」
「え?」
「どうせお前の事だ、屋敷の中ばかり案内されても退屈だろう…ウチの専用のコートで俺様が直々にコーチをしてやる。道具も一式貸してやれるが、どうする?」
「ホントですか!?」
 予想通り、少女は物凄くいい食いつきを見せた。
 育った環境はかなりの差があるが、テニス好き、という事では同類だ、しかし、だからこそ自分達はここまで親しくなれた。
(…その点でも、テニスには感謝してもいいがな)
 こっそりと思いながら、跡部はのんびりとしたティータイムを桜乃と楽しんだ後、彼女をコートへと誘い、爽やかな汗をかいたのだった。



「あ、何かニュースですよ?」
「ん?」
 跡部邸の専用のコートは想像以上に豪華な造りだった。
 全てが一級品で揃えられており、コートには夜でもプレーが楽しめるようにライトまで設置されている。
 更に、休憩する為のフロアーには更衣室の他にロビーやスパまで揃っているという、超高級ホテル並みの備え。
 跡部に厳しいながらも懇切丁寧な指導を受けた桜乃は、タオルで汗を拭きながらロビーで休憩をとりつつ、そこにあった大型テレビを眺めていた。
 時間的に、その時に入ってきているニュースを流しているらしい。
 向こうの女性アナウンサーが話している隣の画面には、何処かの住宅街と、警察に連行される容疑者らしい男達数人が映っていた。
『今日の午前十時過ぎ、住宅街に潜伏していた振り込め詐欺集団の男性五人が緊急逮捕されました。男達は、本日十時ごろに一般人宅に脅迫の電話を掛け、百万円を騙し取ろうとした疑いが持たれています。契約していた警備会社が犯人がいると思われた現場に急行し、その後警察と合同で逮捕に繋がりました。容疑者達は、適当に電話番号を掛けた先々で同じ詐欺を仕掛けていた模様ですが、警察は男達に余罪もあるものと見て厳しく追及を…』
「すごーい! この警備会社って、凄く優秀なんですねー。こんなに早く解決出来るなんて…何処の会社かしら」
「……まぁまぁだな」
 『そんなの調べなくても、俺と一緒に住んだら済む話だぞ』と言いたい気持ちをぐっと堪えつつ、跡部は軽く流しながら画面を見つめた。
 逮捕された男達は、居直ったりする気力も悉く削がれた様子で、生気のない顔でよろけながらパトカーに乗せられている。
 逮捕されるまでの時間、相当に恐ろしい思いでもしたのだろう…跡部家御用達のSP集団によって。
(…言っただろうが…地獄を見て来いってな)
 俺とこいつのデートの時間を多少なりとも無駄にしてくれたんだ…当然の報いだろう?
 何も知らない少女の後ろで、跡部は満足そうに笑っていた……






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