入り口を過ぎ、恐怖と不安で瞳を閉じた桜が再びそれを開いた時、目の前には地獄が広がっていた。
 地獄と言っても、鬼が亡者を責め苛む地獄ではない。
 見渡す限りが不毛の土地…そこには生の息吹を感じさせるものはない。
 荒涼とした地…それだけだ。
 しかも自分達が今から赴こうとしているらしい先の大地には、それを覗ける余裕がない程に数多の骸と思しき物体が転がり重なっていた。
 人…なのだろうか?
 それとも妖…?
 それを知るより前に、視界の向こうで蠢く物を見つけた姫は、彼らが最早人ではない存在であるとすぐに気付いた。
 様々な人の纏う服を身につけてはいるものの、その外見は明らかに人ではない。
 鳥の頭をしている四肢を持つ生き物や、手足が逆になっていながら、難なく歩いてゆく頭のない生き物…全てが、人の形から大きく外れていた。
 元々からそういう化生であったのか、それとも人がそう変じてしまったのかは分からないが、彼らは明らかに人と似た様な思考を持っているのだと桜は本能で気が付き…故に慄いた。
「凄いね…以前来た時よりももっと禍々しくなってしまって…こんな仰々しい百鬼夜行も初めて見るよ。これは相当な数の邪神が来ているな…参ったね」
 薄いのか厚いのかよく分からない暗い雲がこの世界の空を覆っている。
 まるで夕立を迎える前の様な薄暗い世界に於いて、幸の輝かんばかりの存在はまるで闇に灯る一つの灯りだ。
 だからこそ、目立つ。
 彼の存在に気付いて、辺りの亡者や魍魎達は何を望んでいるのか、奇怪な声を上げて向かってくる。
 しかし幸が何か行動を起こす前に、彼らの第一陣はその前に控えていた弦の一太刀によって灰燼へと帰していた。
 斬られた傍から塵芥と変じてゆく異形の者達は、血さえも流さずに消えてゆくが、中には骸を残して倒れる者もいる。
 しかしそれすらも束の間…寧ろその騒ぎは辺りの化物達にも知られる事となり、我も我もと襲い掛かってくる。
 そこには話し合いや意思の疎通はまるでない、言葉もない…獣の世界に等しかった。
 これが天意へと至る道だと、信じられない程に。
「幸様…っ」
「周りに目を向けないで、姫…ご覧、あそこに聳え立つ岩壁があるだろう」
 こうしてのんびりと言葉を交わすことが出来るのは、二人に至る前に異形たちを消し去る弦の力があってこそだ。
 彼は正に武神の具現化した存在の如く、嬉々として太刀を揮っている。
 その様は、神に仕える妖と言うよりも寧ろ、鬼と例えた方が合っているかもしれない。
 兎に角。
 桜は幸が示す自分達の向かう先に、確かに空と同じ色をした壁が、向こうの世界とを隔てるかの様に高く高く聳えているのを見た。
 その頂上は天をも突きぬけ、果てを見る事が出来ない。
 遠目で見ると、まるで天から厚布が一枚垂らされている様な感じだった。
「あそこに見える壁のその向こうに目指す場がある。神と共にでないと入る事は出来ない。ここからはひたすらに歩くだけだよ」
「はい…」
 促され、桜は気を取り直して幸に従い、歩き出した。
 気が付いたら、あれほどいた百鬼夜行の輩達は、いつの間にか姿を消していた。
「…みんな、斬ったのですか?」
「まさか」
 太刀を鞘から抜いたまま、辺りに気を配りつつも弦は相手に答える。
「おそらくは他の獲物を見つけたのだろう…しかし、この数は一体…」
「……人も随分と変わってしまったみたいだね」
 彼らの心の奥にある闇が異形を生む、とだけ呟くと、幸は再び彼らを連れて歩き出した。
 桜にとっては初めての場所であり、初めての感覚…
 人から妖に身を変えられてからも彼女はこれまでと何ら変わりない人としての感覚を宿していたのだが、この場ではどうも勝手が違う。
 何と言うべきなのかは分からないが、やけに身体が重く感じるのだ。
 おそらく環境に拠るものなのだろうが、それでも自分とは異なり弦と幸は平然として歩を進めている。
(うう……恐い処だからかもしれないけど、何だか足が重い…)
 出来るだけ周りには意識を向けないで、二人についていこう…と、桜は彼らからの忠告を守ってしっかり同行した。
 そうして素直にいう事を聞いている桜に、二人も安心していたのだろう。
 そして桜も、決して彼らの言葉を軽んじていた訳ではないのだろう。
 しかし、大きな災いはもうす桜の足元に口を開けて待っていた。
『…・―――』
「…?」
 何かが聞こえた気がして、桜は辺りを見回した。
 この時はまだ警戒する気持ちもあったので、もし危険が及ぶ様であれば、すぐに弦達に知らせるつもりだった。
(何だろう、気のせいかな…)
 一度はそう思い、再び彼女は二人の背中へと視線を戻したのだが、すぐその後にまた…
『……けて』
「!?」
 微かな声を聞き、振り返った。
 相変わらずそこには荒れ果て、彩の一つもない無味無臭な世界だけが広がって…いや…
(あれは…)
 娘が目を凝らしたその先には、暗い骸の山にはあまりに不釣合いな彩が紛れていた。
 そんなに離れてはいない場所だ、ほんの少し歩いていけばすぐにそこへと至る事は出来るだろう。
(…文太、様?)
 一瞬、あり得ない事を想像した。
 あの赤い髪は…文太様ではないの…?
 骸達が重なっている間から、赤い髪が覗いていた。
 人の形をしている…間違いない、人がうつ伏せで倒れている。
 周囲のどす黒く変色した塊とは異なる、血色のいい肌も、彼が人ではあるのだと思わせた大きな理由だった。
 ぎょっとして立ち止まってしまった少女の見ている中で、その人物は確かに動いて、生きている証を見せる。
 こちらの存在に気付いたのか、相手は必死に手を伸ばしながら、その顔を向けた。
 まだ幼い…自分もそうだが、大きな瞳を持つ少年。
 声がもう出ないのか言葉を聞き取る事は出来なかったが、口の動きは相手の言わんとしている事を確かに桜に教えてくれた。
『た・す・け・て…』
(どうしてこんな処に、人が…!?)
 疑問はあったが、それよりも桜は相手の身体を心配した。
 向こうは助けを求めており、しかも見た印象では彼はかなり疲弊している。
 もしかしたら妖達の襲撃から逃れはしたものの、傷でも受けてあそこで力尽きようとしているのかもしれない!
(助けなきゃ…!!)
 その優しさが、仇となった。
 弦と幸は、彼女を傍に置くことで守りたかったのなら、彼女に『誰であっても手を差し伸べてはいけない』と戒めておくべきだったのかもしれない。
 今それを言っても、最早手遅れだった。
「……っ!? 姫!?」
 はっと弦が相手の異変に気付き、振り返った時には、桜はその子供の傍に駆け寄り、手を差し伸べようとしていた。
 きっと、この骸の中から彼を助けたら、すぐに幸達の許へと戻るつもりだったのだろう。
 そう思える程に、三人とその少年の距離は大したものではなかった。
 しかし…
「大丈夫…!?」
 桜がしっかりと少年の手を握り、温もりを確認した次の瞬間、がくんと彼女の身体に大きな衝撃が走ると同時にその視点が一気に下へと下がった。
「え…っ」
「姫!?」
「しまった! 道が…っ!!」
 幸と弦の声が耳に届いた時には、自分の身体はもう自由が効かなかった。
 昏い世界でもかろうじて保たれていた僅かな光ですら、もう見上げる円形の穴からしか覗けない。
 奇妙な浮遊感を感じながら、その穴が一気に小さくなるのを見届けつつ、桜は、自身が穴に落ちてしまったのだとようやく気付いた。
 恐怖感も麻痺してしまう中で、自分が唯一感じられるのは、握り締めた少年の手。
 二人一緒に落ちてしまった以上、互いが互いの命綱になれる訳もない。
 それでも桜は遠くなる意識の中、せめて寄る辺を失わずに済むようにと少年の手を離さずにいた。
 二人が別の道を通る間にも危険が消えた訳ではなく、魑魅魍魎達はこの隠れた道の中すら巣食い、獲物を待っていた。
 そこに落ちたが故に餌食になった妖達も数知れず…本来ならばこの娘と少年も同じ運命を辿る筈だったのだ。
 しかし、それは実現しなかった。
 何故か、意識を失った桜の懐から急に小さな光が漏れ出したかと思うと、それは彼女を守る様に更に強く輝き、魍魎達の目を眩ませ、そして身をも竦ませたのだ。
 彼らは本能で知っていた、あの光に触れるべきではないと。
 それさえ守れば自分達の身は守られるだろう…この小娘と子供を見逃すだけで。
 彼らには、何かとてつもなく大きな力が守護としてついているのかもしれない。
 異形の者達はそれが何であるかまでは分からなかったが、二人が更に穴の奥底に運ばれるのをただ見ているしかなかった……


 どっさ!!
「きゃんっ!」
「う…」
 桜が生きたまま目を覚ましたのは、穴から落ちてそう時間が経過していない頃だった。
 無論、気を失っていた少女にはそれは分からなかったのだが、取り敢えず彼女は自分が生きている事を確認し、そして辺りを見回した。
 少し前に見ていた場所とは明らかに景色が違う。
 まだかなり離れていた筈のあの岩壁が、もうすぐそこにある。
 相変わらず昏い世界にいるのは疑いようのない事実だったが…その視界の何処にも弦と幸の姿は見当たらない。
「え…?」
 慌てて再度周囲を確認してみたが、通ってきた穴の場所も見つからなかった。
(嘘…私達、何処から…)
 ちょっと身体が痛い気もするけど…まさか空から落ちたなんてこと…
「???」
「うううん、重い〜〜」
 不意に声が聞こえ、それと一緒に地面が揺れた。
「え…」
 思わず下を見ると…赤い髪の少年。
 ちゃっかり自分が彼の上に乗っかっていた事実にようやく気付き、桜は大慌てでその場をどいた。
「きゃーっ! ごめんなさいごめんなさいっ!!」
 そして彼を急いで抱き起こすと、その子はぱちっと大きな目を開き、確かに理性を宿した瞳を向けてきた。
「だ、大丈夫ですか? お怪我、ありません!?」
「うう…」
 尋ねてみても、向こうはぐにゃり〜と身体を脱力させて動こうとせず、ただ一言。
「…腹減ったぁ」
(あ、何か誰かと被る…)
 そう言えば今頃あの人は宮でおべんとの片方を食べているのだろうか…
「あの、もし…! しっかり…」
 声を掛けて揺さぶろうとした直後、そこで二人にまたも目に見える危機が訪れる。
 嫌な音が聞こえたのだ。
 呻き声や叫び声…鵺が鳴く様なけたたましい笑い声…恐い声だった。
「…」
 恐くても、やはりその声が聞こえた方を向かなければ…
 桜が恐る恐るそちらへと向くと…
「きゃあああ!!」
 思わず上がる悲鳴も無理のないこと…百鬼夜行だ。
 またも訪れた招かれざる客だったが、残念ながらここには自分とこの脱力状態の少年しかいない!
 あの弦と幸の加護もないまま、彼らをまともに相手にする事は不可能だ。
(うわああぁぁん!! 別のお腹空いた人達まで〜〜〜〜っ!!)
 こうなったら逃げるしかない…でも、この子もこのままじゃ…!
「ちょ…起きて! 危ないから、逃げなきゃっ…!!」
 少年へと向きながらその両肩をがくがくと揺さぶってみても、向こうは完全に体力が切れた状態らしくうんともすんとも言わない。
 そうこうしている内にも向こうの呻き声は更に近づいてくる。
 いよいよ駄目かもしれない…
(あ…そう言えば懐刀…!)
 ふとそこに忍ばされていた切り札に手を伸ばしたが、あれだけの集団にどれだけ役に立つだろうか…
 でも、抵抗しないよりは…と覚悟を決めて、夜行達の群れへ身体を向けると…
「…?」
 見慣れない、また別の者が背を向けて立っていた。
 幸とは違うが…同じ束帯姿の男…
 誰…と思う前に、自分の盾になるように夜行達との間に佇んだ者が、何処か笑みを含んだ声でひそりと囁くのを聞いた。
「……ほう、この吾の前に立つか…下賎な輩が笑わせる」
(! この声は…っ)
 桜が一人の男を思い出したところで、彼は軽く右手を掲げて相手たちへと向ける。
「そうら…」
 実に楽しそうな声で言うと共に彼の右手が軽く揺れた途端、周囲の大地が瞬く間に冷気を宿す凍土へと変わっていった。
 それは大地のみに及ばず、こちらに向かってきた異形の者達も含めて…全てだ。
 見ている前で百鬼夜行は逃げる事も叶わずに氷に侵食されてゆき、彼らが慌てふためき苦しむ様を、まるで子供の遊びを眺めるように冷気を司る者は笑っていた。
 しかしそれももう飽きたとばかりに彼は瞳を軽く閉じ、再度右手指を軽くぱちんと鳴らしながら歌うように命じた。
「…凍てつけ」
 きん…!
 耳に響く音が弾けた気がした。
 男の傍にいた桜と少年は無事で済んだが、二人が二度ほど白い息を吐き出した時には、辺り一面、夜行たちを氷の彫像に変えた銀世界が広がっていた。
 生きて残っているのは、三人だけ…
「……」
 その世界を桜がしかと見届けた瞬間、金属が擦れるような甲高い音が響き、全ての氷の彫像達が砕け散ってゆく。
 その存在の存続すら許さないとでも言う様に、彼らを包んだ冷えた粒子の一つ一つが、彼らを構成する物質をあまねく破壊し、宙へと舞ってゆく。
 細雪の様な、粉雪の様な、夜行達の成れの果てが、風に流されて視界からも消えてゆき、気がついたら元の無機質な景色が再び眼前に広がっていた。
 目の前で瞬く間に起こった奇跡を桜が呆然として見ていると、上から声が降ってきた。
「…何やってんだ、お前は」
「景…様…」
 ああ、やっぱり…この御方だった…
 気配と言うか雰囲気でそうではないかと思っていた少女の前で、景は相変わらず鋭い目をしながらこちらを見下ろしている。
「あの…どうしてこちらに」
「あん? 天意に呼ばれて来たに決まってるだろうが…お前らこそ何だ、幸は?」
「いえその…はぐれちゃいまして…」
「……………本当に?」
「はい」
「……」
 微かに景の顔色が変わり、彼はそのまま顔を逸らしてしまった。
 この娘、どう考えても幸のお気に入りだった筈だが…だとすると、今頃向こうは大変な事になってるだろうな……弦も気の毒に……
「…仕方ないな、はぐれた奴を放っておくのも寝覚めが悪い。吾と来い、幸達に引き渡すまでは面倒見てやる」
「! あ、有難うございます!」
 ぺこっと頭を下げた少女を、景は微妙な表情で見つめる。
「…お前に頼まれたからな。幸の助けになるように…まさか言った本人を助ける事になるとは流石の吾も思わなかったが…」
「うう、す、すみませんっ…」
「……」
「……」
 いきなり沈黙した相手に、桜は、え?と首を傾げた。
「何ですか?」
「いや、何ですかと言われても…いいのか、そいつ」
「え…」
 相手に促されるままに後ろを振り返ると、そこには、自分の持参したおべんとを既にほぼ完食していた少年が、いきなり元気を取り戻した様子で大きな目を自分へと向けていた。
「あ〜〜〜〜〜〜っ!! 幸様達の分まで――――っ!!」
 うえ――――んっ!!と嘆く桜とは対照的に、その子は非常に嬉しそうににこにこ笑って彼女に大声で挨拶した。
「おおきにな! 助かったわ! ワイ、金太郎っちゅうねん」



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