「仁王、聞いているのか?」
「…ああ、聞いとるよ」
 数日後の部室内、いつもより厳しい口調の副部長の声が響き、それに対していつもと変わらぬ詐欺師の返事が返されていた。
「何じゃよ、カリカリしなさんな。俺はちゃんと聞いとるんじゃけ」
「…では、俺が今言った事を復唱してみろ」
「『これからレギュラーはシングル、ダブルス関係なく…―――――』」
 真田の言葉に即座に応じて、言われるままに淀みなく答えている仁王を、少し離れた場所から桜乃が非常に心配そうな表情で見守っていた。
「…何だか最近、仁王先輩の様子がおかしい気がするんです…何処が、とは言えないんですけど」
 隣にいた柳にそう訴えたが、向こうも眉をひそめるばかりで、マネージャーに的確な回答は与えられなかった。
「何か、気になる事があるのだろうか…集中力が乱れているのは明らかだが、流石というべきか、それでもいつもと遜色ないところまでは自分を律している」
 実はこの異常はもう一週間以上続いているのだが、それは桜乃の不安を今以上に煽ってしまうと判断し、参謀はそれについては伏せていたのだが、桜乃はそれ以外でも感じていた不安を零した。
「…避けられている気がするんです、仁王先輩に…この間も、顔色が優れないからつい手を伸ばしたら、怯えたみたいに退かれてしまって」
「…怯える?」
「あ…何となくです」
「…・・仁王が?」
 あの男が怯える…?
 それは面妖な事だ…と柳が思っている間に、真田からの課題をあっさりとこなして解放された仁王は、そのまますたすたとコートへと向かう為に部室を出て行き…そこで待ち構えていた柳生に腕を引かれ、問答無用で少し離れた場所に連れ出されていた。
「何じゃ柳生、どうした?」
「それはこちらの台詞です、仁王君。君は一体、何日眠っていないんですか!」
「…」
「誤魔化そうとしても無駄ですよ。上手く目薬とメイクで隠していますが、その目の下のクマ、いずれ隠しきれなくなります…いえ、その前に君の身体がもちません!」
「ほっとけ、この程度、騒ぐ程のものでもない。ちゃんと試合は勝っとるじゃろ?」
「誰がテニスの話をしましたか」
 ぴしりと断じた相棒だったが、仁王はそれでも自身の異変については何も語らない。
 彼がそういう姿勢を貫く以上、こちらが何を言っても覆す事など出来ないと分かっていても、今日ばかりは黙ってはいられなかった。
「理由はお聞きしませんがね、せめて私のパートナーである以上、倒れたり身体を痛めつける様な真似は止めて下さい。眠れないなら眠れないで、何かしら対処は出来る筈ですよ」
「何が出来ると言うんじゃ」
 初めて仁王が反論する…先程までの呑気な表情とは一転、夜叉の如くこちらを睨みつけて。
「仁王君…?」
「薬も試した、アルコールも試した、試せば試すほどに俺の心が壊されていくんじゃ…見たくもない夢が、今度は昼間の世界にも出てきよる…騙そうと思っても、その心から先に暴かれる…見ない為には意識を手放す訳にはいかんのじゃ」
 その言葉の意味の半分も理解出来ない柳生は、相手がすぅと隣を通り過ぎて去ってゆくことを止める事が出来なかった。
「…すまんの、柳生。当たるつもりはなかったぜよ…確かに今の俺はもう狂っちょるんかもしれん…せめて倒れる時にはお前さんの前で倒れるけ、親父さんに宜しくのう」
 そして、今宵、恐怖の時間がまた始まるのだ。
 もうこんな苦行を何度繰り返しただろう、あの部屋の中で…
 唯、自室に閉じ篭り、ベッドの上で毛布に全身を包まれながら座り込み、朝を待つ。
 出口のない、勝ち目のない戦い…自分が倒れるまでこの苦痛は続くのだろう。
(ああ…本当に、狂っていくんじゃな…)
 そして狂った時…俺は一体どうなってしまうんじゃ…?


 その日の深夜…
「…ん…」
 何かに呼ばれている気がして、桜乃はベッドの中で目を覚ました。
 暗い部屋の中で、窓から差し込む月光を頼りに時計を見ると、もうすぐ明日が訪れる時分…
(何で起きちゃったんだろ…ん?)
 どんどんどんどん…っ…
(な、何の音…)
 何となく、玄関から聞こえてくるみたいだけど…
 何事かと思い、椅子に掛けてあったショールを肩に羽織ると、桜乃はベッドから離れて玄関のドアへと向かう。
 間違いない…誰かがドアを叩いている…
(だ、誰…? どうしてこんな時間に…)
 一応ドアには鍵もチェーンも掛けているから、いきなり踏み込まれる事はないだろうけど…
「…っ」
 思わずリビングの電話機に視線を向けたものの、すぐに警察に連絡する事は思い留まると、桜乃はゆっくりとドアに近づいて、覗き窓から外の様子を窺ってみた。
「…っ!」
 闇の中でも月光を鮮やかに跳ね返す銀の髪が、揺れている。
 それを見た時には、桜乃の手はチェーンを外し、鍵を開けていた。
 例え知己であっても、女性の一人暮らしでそんな無謀な事をするのは禁忌だと知っていたのにも関わらず、桜乃はドアを開いてしまっていた。
「…仁王先輩!?」
 珍しい私服姿の男は、開かれたドアの向こうに佇み、じっとこちらを見つめている。
 そこには、いつも涼やかな笑みを浮かべている彼とは程遠い、触れたらそれだけでこちらが壊されてしまいそうな危うさが漂っていた。
「仁王先輩、どうしたんですか!? こんな夜中に…」
「……」
 問いには何も答えず、若者はゆっくりと歩を進める。
 その動作は非常に不安定で、上体がぐらぐらと揺れていたが、相手はかろうじて倒れずに桜乃の目前まで進み…
「えっ…!?」
 ぐい、と少女の細い肩を掴むと、そのまま力に任せて相手を押し倒してしまった。
 どさ…っ!
「きゃ…っ!」
 倒されたものの、勢いはそれ程なかったので後頭部の床への直撃は免れたが…起き上がれない。
「…眠れん」
「え…」
「……眠れんのじゃ、お前さんの所為で」
 床へと押し倒したまま、仁王は真っ直ぐに相手の瞳を見据えていた。
「毎日毎日、眠りたくてもお前さんが夢に出てくるのが恐い…お前さんが、俺以外の奴と笑っている姿ばかりが浮かんでくる…! 見たくもないのに!」
「に、おうせんぱい…?」
「何で笑ってばかりおるんじゃ…俺がこんなに苦しんどるのに…他の奴にも笑って、話しかけて…せめて俺ほどに上手くなくてもいい、騙してくれたら俺も騙し返したら済む話じゃったのに……!!」
 責めるような初めての相手の態度に、桜乃はただ困惑するばかりだった。
 正直、相手が何を言わんとしているのかすら分からない…ただ、思うのは…
「…仁王先輩は…私が嫌い…だったんですか…?」
 確かに、能天気だと言われた事もあるけれど、私の態度は、存在は、そんなに彼にとっては目障りな、耳障りなものだったの…?
 傷心の少女に対し、仁王は表情を変える事はなく…相手の言葉を否定する。
「…違う…」
 苦しそうに目を伏せる仁王の表情を改めて見た時、桜乃は彼の肌が真っ白なのに気付いた。
 酷く顔色が悪い…まるで透けて向こうが見えそうな…
「にお…」
「…多分…逆」
「え」
「好きなんじゃ…お前さんのことが」
「!?」
「毎日毎日…こんなに苦しいのに、想う事が止められん…辛いのに、諦めることさえ出来ん…好きで好きで、気が狂いそうじゃ…!」
「仁王先輩…っ! お、ちついて下さいっ」
 愛の告白…なのだろう。
 しかし、今は嬉しさよりも当惑してしまう。
 きっと彼は、何か…酷く疲れている所為で、曖昧な心のままに喋っているのだ。
 そうでなければ彼が…詐欺師とも呼ばれたこの人がこんなに直情的になる筈が…
 宥めようとした桜乃を、しかし仁王は更に肩を強く押さえつけ、叫んだ。
「分かっとるんじゃ! 今の自分がおかしいことぐらい!! もうどうしようもないぐらいに狂ってしまっとる! けどそうしたのはお前さんじゃろうが!!」
「っ!!」
「ああ狂っちょる…けど、お前さんがそうしたんなら責任ぐらいは取ってもらうぜよ? 無理やり付き合わせるつもりはない、どうせこんなコト仕出かした時点で結果は明らかじゃ…だったら言いたいことぐらいは聞いてくれてもええじゃろ?」
「……」
「俺はな、本気でお前さんが好きなんよ……なぁ、もうええじゃろ? 眠りたいんじゃ…桜乃」
 焦がれるあまりに眠り方さえ忘れてしまったのか、仁王は途方に暮れた子供の様に言った。
 どうしていいのか相変わらず分からなかった桜乃だったが、相手がどんどん力を失っていくのは分かった。
 さっきまで凄い力で押さえつけられていた腕が、肩が、今は自分である程度までは動かせる。
「仁王せんぱ…仁王さん」
 彼は何を求めているのだろう…私の受容か、それとも拒絶か…
 私が彼に与えたいものを、そのままに与える自由がもし許されているのなら…私は。
 相手が脱力している間に桜乃はゆっくりと上半身を起き上がらせると、男とすぐ傍で見詰め合う姿勢となり…伸ばした手で、彼を優しく抱き締めた。
「…っ!!」
「いいですよ…眠って下さい。私、傍にいますから」
「…」
「大丈夫ですよ…私はここにいますから。何処にも行きません」
 さわ…と優しく髪を梳かれ、柔らかな身体で抱き包まれ、甘い香りが鼻腔をくすぐった。
 それを感じた瞬間、自分の全身の神経の糸が全て斧で切られた様な開放感が仁王を襲い、彼はぐったりと身を委ねたままに意識を失う。
「…仁王さん?」
 呼びかけても返事はなく、安らかな寝息だけが聞こえてきた。
 本当に本当に…彼はたった今、精も根も尽き果ててしまったのだ。
「眠れないって…凄くよく眠ってるのに、仁王さん」
 こんなに気持ち良さそうに…と相手を覗き込んだ桜乃は、今更相手の美麗な顔に見入ってしまい、そして自分達の置かれている状況に気付いた。
「ど…どうしよう」
 深夜だし…起こせないし…女性の一人暮らしなんだけど……


「――――――――…?」
 深い深い…心地良い眠りから若者が目覚めた時、彼は柔らかなベッドの中にいた。
「…?」
 瞳を開いた後も、暫く彼は動くこともなく、ぼうっとしたまま天井を見つめていた。
(…何処じゃろう)
 何となく、深海から浮上した様な感覚…こんな眩しくも心地良い光も久し振りに見る様な気がする。
(えらく寝心地のいいベッドじゃなぁ…何じゃろう、この香り…)
 香水の様なきつさがない…柔らかで優しい香りがする…何故だろう、懐かしい。
 何処だろうと思っていたところで、彼の耳に懐かしい声が聞こえた。
「あ、良かった! やっと起きたんですね」
「!?」
 は、とその部屋の入り口を見ると、私服の桜乃がほっとした様子で自分を見つめていた。
「りゅ…ざき?」
「ずっと眠ったままでしたから、心配していたんです…本当は服を脱がせた方が楽なんですけど…流石にそこまでは出来なくて。ご気分、どうですか?」
「……」
 むくりと身体を起こしたまま、仁王は呆然とした様子で少女を見つめ、そんな彼に相手はくすくすと笑いながら話した。
「ご自宅には、早朝に出掛けた途中で急に気分が悪くなったみたいだから、ウチで休ませていますって連絡しておきました。学校にも、そうお伝えするようにお願いしておきましたから、多分大丈夫だと思います」
「俺は…」
 俺は…どうしてここにいるんじゃ…?
 左手を額の前に掲げて、仁王は押し黙ったまま記憶を発掘する。
 昨日の夜にまたいつもの様にベッドに座って…それからだんだんおかしくなっていって…家を飛び出して…そして…
 ゆっくりと思い出していきながら、仁王の左手が額から口元へと移動し…口を押さえて顔を隠す形になった…その頬が微かに紅潮している。
 どれが夢でどれが真実なのかも分からない…けれど、おそらく自分はこの子に、物凄いことを言ったらしい。
 今、心がやけに晴れ晴れしているのも、蓄積されていた感情が解放されたからか…!
 しかしその代償は…もう取り返しがつかないのは分かっているが…決して小さくはない。
 詐欺師らしからぬ醜態を晒したな、と自嘲の笑みを浮かべつつ、彼は桜乃に訊いた。
「…俺はどれだけ眠っとったんじゃ」
「ほぼ半日以上ですよ。もう昼過ぎですから」
「!? 学校は…お前さん」
「心配で放っておけませんから…風邪引いたって言っておきました」
 彼女まで学校を休ませてしまったのか…しかもよく考えたら、このベッドに自分が寝ている間、彼女自身は何処で寝ていたのか…
「〜〜〜! すまん、すぐに出て行くけ…迷惑掛けたの」
 ベッドから急いで降りて、数歩歩き出そうとしたところで彼の身体が激しく揺らいだ。
 天地が回るような感覚に襲われた仁王を、慌てて桜乃が支えた。
「仁王さんっ…! も、もう少し休んで下さい。すぐに動いたら危ないですよ、あんなに顔色が悪かったのに」
「いいんじゃ…放っといてくれて」
「え…」
「…優しくされたら、また諦められんようになるんじゃ…忘れたんか? 俺は詐欺師じゃ、その気になればどんな狡い手を使ってでもお前さんを閉じ込めてしまう…醜いじゃろ? それが嫌じゃったから、ここまで我慢しとったのに。お前さんは、俺にとっては心地良すぎる…酷い女じゃ」
 諦めようとしても、その手をお前が離してくれないなんて…残酷すぎる。
「……じゃあ」
 昨夜から、相手からの告白を続けて受けた少女は、返事とばかりに相手の顔の直前に自分のそれを寄せて小さい声で囁いた。
「…責任…取らせて下さい」
「…!?」
「私でいいなら…仁王さんの傍にいさせて下さい。大好きな人の、傍に…」
「りゅうざ、き…?」
 普段の饒舌ぶりが嘘の様に、それだけしか言えなくなった詐欺師の視線が恥ずかしくなったのか、桜乃はぽふ、と相手の胸に顔を埋めた。
「ちゃんと傍にいますから、見ていますから…もう、無理はしないで下さいね」
 まだ夢の中にいるのだろうか…信じられないことが起こっている。
 深夜に押しかけて、自分の気持ちを押し付けて、あまつさえ気を失った後は彼女のベッドを独占して、学校まで休ませて世話をさせたのに…
 ここまで無茶をして…それでもこの子は詐欺師の手を離さない。
「…嘘じゃろ」
「私、仁王さん程嘘はつけません」
「信じられん…そんな話」
「本当ですってば」
 視線を逸らし、顔を背け、仁王は目の前の現実が信用出来ないと頑なに拒んだ。
「こんな俺を好きだと言う奴なんて、よっぽど物好きな奴じゃ」
「むっ、すみませんねぇ、物好きで。しょうがないじゃないですか、本当に好きなんですから…」
 そこまで否定的に言われると、『好き』という言葉もあっさりと口の端に乗せられた…ところで、
「じゃあ…」
 さっきまでこちらの言葉を拒み、顔を背けていた相手が一転、がばりと桜乃の身体を捕えると、そっと顔を寄せて囁いてきた。
「キスさせてくれたら、信じちゃるよ…」
「!?」
 ぞくんと震えると同時に、いきなり余裕をかましてきた相手に、桜乃ははっと我に返った。
 しまった〜〜〜〜っ!!
 いつの間にか、主導権が向こうに移ってる!
 告白も、しっかり自分からもさせられちゃってるし…!
 いつから!? 何処から彼は『仕組んで』いたの!?
「ににに…仁王さん?」
「それも他人行儀じゃな…雅治がええのう、お前に呼ばれるなら…のう、桜乃?」
「ま…っ…」
「ちゃーんと責任とってくれるんじゃろ?…な」
「〜〜〜〜〜!! 詐欺師…っ」
 騙しましたね、と可愛い非難の瞳を向けて抗議する少女の唇を優しく塞ぎ、その詐欺師はうっそりと微笑んだ。
(夜這いもどきのコトしとって、お土産なしじゃ味気なかろ…こっちがあれだけ本心ぶちまけたなら、これぐらい貰わんとな)
 そして仁王は、ようやく安らかな眠りと、心の安寧を手に入れた。






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