そして放課後…
「うう〜〜…」
「何だ丸井、腹でも下したか?」
 ラケットを抱え込み、コート脇の通路でしゃがみこみながら声を漏らしていた相棒にジャッカルが声を掛けたが、向こうは一瞥も向けず逆にかくっと首を項垂れた。
「……おさげちゃんがチョコくれない」
「だから諦めろって。そういうのはねだるモンじゃないだろうが…そもそもお前、例年とそう変わらないぐらいの数は貰ってただろう?」
「そうだけどさ〜……それでも二割近くは減少してて、チョコのレベルが明らかにダウンしているこの怒りは何処へぶつけたら」
「知らねぇよ」
 そこまで面倒見られるか、とジャッカルが突き放したところで、その視線が遠くへと移り、彼は改めて相手に声を掛けた。
「ほら、あまりぐだぐだしてると変に思われるだろうが…アイツはアイツで頑張っているんだから、俺らも手本にならないとな」
「うー…」
 そう言いながらジャッカルが示した先には、忙しそうにぱたぱたと走り回る桜乃の姿があった。
 彼女は今日が何の日であるかという事も知らず、また、気付いてもいない様子だ。
 無論、そんな筈はないだろうという事は分かる。
 立海では基本的にチョコなどの持ち込みは禁止されていないので、今日という日は様々な処でそれを見かける機会はあっただろうし、女性達の間でも少なからずそういう会話は賑わっている筈だ。
 何より、自分達が部室に運んで来たチョコの山を彼女は目にしている筈なので、知らないということはあり得ない。
 しかし、今日これまでの時点で、自分達レギュラーの誰もが彼女からチョコなどの類を受け取った事実はない。
 見事なまでのスルー能力。
「…この際、くれるんなら十円チョコでも何でも…」
「往生際が悪いって…」
 そんな会話が交わされている事にも気付かず、桜乃は真田に昼に伝えていた通り、体育館の倉庫に搬入されていた物品をダンボール箱に入った状態のままで幾つか運び入れていた。
 一つ一つは結構な大きさがあるものだが、それ程重みは感じていないのか、彼女一人でも問題なく運べている。
「結構大きい箱みたいだけど、大丈夫かな?」
「今回ウチが依頼して納入してもらった物品は、基本的にボールや文具などが主だから重量がきついものはない。箱が大きめなのも、梱包の関係だからな…女性でもそれ程に苦痛ではないだろう」
 真田が前に言っていたのと同じ懸念を部長も見せたが、それは参謀の言葉により問題なしと判断された。
「そうか、なら構わない」
 流石に幸村は、大事なテニス部員達を預かる立場として、部活動中にチョコなどといった浮ついた思考は一切切り捨てている様子だ。
 桜乃を気遣いはするが、それはあくまで部長としての立場に拠るもので、他意は一切感じられない。
 しかし、実は今日一日、部活が始まるまでは彼が何となく落ち着かず心を揺らしていた気配を、参謀は敏感に察知していた。
 いや、部長だけではなく、レギュラー全員に言える事だ。
 昨年と同様のレベルでチョコを大量に貰いはしたが…どれも自分達の心を揺らすには及ばない。
 くれる女性達には申し訳ないとも思うが…心に嘘はつけないのだ。
(……しかし、解せない)
 箱を運ぶ桜乃を眺めながら、柳がふむ、と顎に手をやる。
(他人の懐事情に口を挟むつもりは毛頭無いが、あれだけ義理堅い子がそんなにあっさりと今日のイベントを放棄するものだろうか…? いや、逆に親しくなりすぎて渡しづらくなったという事も考えられる…)
 色々と考えたものの、結局確信が持てる結論には至らず、それを本人に確かめる事は当然出来ず、柳はその思考を打ち切った。
 今はそれより、テニスに集中するべきだ。
 考えるのは…部が終わった後にでも出来ることだから。
 きっと全員、同じ事を考えているのだろうと思いつつ、柳は部が終わるまで参謀としての役を完璧に演じ続けていた。

 そして、部活動が終了し、他の部員達が着替えて引き揚げていく中で、レギュラー達はコートに最後まで残って練習の成果や今後の課題についての検討を行っていた。
 上に立つものは下の者よりもより己に厳しくあらねばならない。
 上に登り、そこでふんぞり返った瞬間、その者はすぐに下の者に蹴落とされる。
 少なくとも、それが立海のテニス部における暗黙の了解だった。
「じゃあ、今日のミーティングはこれで終了するよ」
 部長の幸村の一言で、彼らがコートで解散し部室へと向かっていく。
 その中には桜乃の姿もあったのだが、先を争って走ってゆく丸井や切原を見遣りつつ、彼女は幸村達の方へと顔を向けてきた。
「…あのう、先輩方…」
「ん…? どうしたの?」
「……今年も、皆さん、凄い量のチョコを受け取ってましたよね」
「…!」
 気にしていた事を突かれ、一瞬動揺したものの、すぐに部長は優しい笑顔でそれを押し隠し、変わらず相手と会話を続ける。
「まぁ、毎年の恒例行事だけどね…そう言えば、竜崎さんはもう誰かにあげた?」
 あくまでも先輩としての顔を崩さずに、しかし一番聞きたかった事を聞いた相手に、桜乃は何故か歯切れが悪い答えを返す。
「あ、あの…ええとぉ…い、勢いに乗りすぎて、よく考えたら思い切り間が抜けたコトを…」
「え?」
 どういう意味だろうと聞き返した若者の声に被って、部室の方から…
『わ〜〜〜〜〜〜っ!!』
『すっげ――――――っ 何コレ何コレーッ!!』
という丸井達の叫び声が聞こえてきた。
「…? 何をしとるんだあいつらは」
「〜〜〜」
 何事だとそちらを歩きながら見ている真田達と一緒に、桜乃も顔を赤くして部室へと向かう。
 そして、その中に入った時、叫びこそ上げなかったものの、他のレギュラー達も一様に驚愕し、言葉を失ってしまったのだ。
 男達の視線を釘付けにしたのは、部室内の机上に置かれた巨大な二段重ねのチョコケーキ。
 程よいチョコの色合いと、スポンジの間から覗く白い生クリームとのコントラストが、食べる前から交じり合う二つの食感と味覚を思わせ、また上部の飾りつけも見事で、生クリームを塗った上には円周に沿ってハートや星型の絞り出しのアクセント、中央にはチョコペンでHAPPY VALENTINEと綴られていた。
 これはもう、間違いなく…
「え、と…竜崎さん、あれって…」
 『アレだよね』という意図を含めてその物体を指差す幸村に、桜乃がてれてれと真っ赤になった頬に手を当てながら俯き加減で言った。
「みっ、皆さんそれぞれへのチョコも考えたんですけど、何か急に大きなの作りたくなっちゃって…でも、よく考えたら夕食もまだの時間だし、考え無しな事をしてしまいました…」
 やっぱりチョコの方が良かったかな、と考えている少女の考えとは裏腹に、男達は全く逆の方向で感動していた。
 もう今年は貰えないかと諦めかけていたところで、何という嬉しいサプライズ!
「十円チョコが、ケーキのお化けになった!」
 あまり嬉しくない表現だが、丸井は感動に瞳を潤ませながらひしっとケーキに抱きつくジェスチャーまでしている。
「どうやって持ち込んだんだ? それらしいものは来た時にはなかったぞ」
「あ、体育館の倉庫の荷物に紛れて運びました。折角だからびっくりさせたくて…」
 真田の質問に微笑みながら答える少女の思惑は、見事に成功していた。

『本当にびっくりした…』

(そうか……スルーされていた訳じゃなくて、彼女の中ではもうあげるコト前提だったから、普段通りの態度だったのか…)
 成る程な…とジャッカルが納得しているところで、しかし少女は少し残念そうに全員に呼びかけた。
「夕食が食べられなくなっても困りますから、切り分けて持ち帰ります?」
「やだ」
 即答した切原に続いて、ケーキを楽しそうに眺めていた仁王達もうんと頷いた。
「折角じゃ、ここでみんなで食った方が美味いじゃろ。なに、甘い物は別腹って言葉もあるし、その程度のヤワな胃袋の奴はここにはおらんよ」
「その言葉を使うタイミングがやや早すぎる気もしますが…そうですね…折角作って来て下さったのに、部屋で一人で食べても味気ないですから」
 勿論、三強達も彼らの意見に賛同。
「…弦一郎、蓮二、君達の家はこういう事には厳しそうだけど、今日だけは固い事は言いっこなしってコトでどうだろう」
「む…ああ、今日だけなら構わん」
「そうだな、家よりここでの方が食欲もそそられるだろう」
 三人が同意を示した事で、早速、準備が整えられ始めた。
 ケーキを切り分け、お茶を入れて、部室が今だけの隠れ家カフェへと姿を変えると、彼らは早速少女の作品に舌鼓を打ち出した。
「んまっ! やっぱ美味いな〜、おさげちゃんのお菓子って」
「テニスで疲れた身体にすっごく効くッスねー」
 ぱくぱくぱく…とフォークを運ぶ速度を全く緩めようとしない男達が美味しい美味しいと喜んでいる姿を見て、桜乃もとても嬉しそうな様子だった。
「良かった…本当に勢いだけで作ってしまって、ご迷惑になるんじゃないかとも思ったんですが」
「そんな事、ある筈がないよ…俺達全員、君からのプレゼントが一番楽しみだったんだから」
 幸村のようやく漏らした本音を聞いてきゃ〜っと照れていた桜乃に、ふと何かを思い出した柳が相手に確認した。
「そう言えば……竜崎」
「はい?」
「その…人の経済問題に口を出す気はないのだが…これだけの準備はその分予算も掛かったのではないか? 大丈夫か?」
「そう言えばそうだよなー、おさげちゃん、お米も我慢してたし…ケーキは勿論嬉しいけどちっこいチョコでも良かったのに、何で?」
「あ……えーと」
 全員からの心配そうな視線を受けながら桜乃はちょっと答えを躊躇っていたが、説明をしないと心配させたままになると思い、当たり障りのない返事を返す。
「いえ、この材料を買った時は大丈夫でしたから」
「ああそうか、それなら…」
 良かった、と言おうとしていた真田の口が、不意に閉ざされる。
 何だ、今何か…
「……物凄く心に引っ掛かったものがあるんだが」
「あううっ…そ、そこはスルーで」
 びくびくびくぅっと怯える様にその話題を避けた娘に、柳が読めたとばかりに言い放つ。
「…お前、これが原因で生活切り詰めていたな?」
 大当たり。
 一斉に視線を向けた男達の前で、桜乃はしゅんとしながら渋々認めた。
「そ、そうともいいます…」
「そうとしか言わんじゃろ」
 やってしまったらしい少女は、ばれてしまったと思いつつ弁解する。
「そのう…単純に店を巡っていたら、どーしても作りたくなっちゃいまして…皆さんには日頃からお世話になっていますし」
「そんなに気に病まれなくても…私達もそこまで鈍感ではありませんよ」
「だな、お前が俺らに日頃気を配ってくれていることぐらい分かってるつもりだぞ? わざわざこんな大きな物で表現しなくてもな…」
「あの…でも…」
 柳生やジャッカルの優しいフォローに、桜乃は俯いて激しく照れながらも告白する。
「でもこれ…義理とかそういうモノじゃなくて『本命』のつもりで作りましたから、手抜きはしたくなかったんです…」

(本命!?)

 全員、例外なく桜乃から視線を逸らしたが、それは負の感情によるものではなく、寧ろ照れによるものだった。
 本命として、作ってくれたケーキ…という事は、彼女は自分達をそれだけ大切に思ってくれているということ。
 しかも、これを本命と言い切ることはつまり、他にチョコをあげた対象もいなかったという事になり、一気に彼らのモチベーションが急上昇した。
(よーしよーし、いい感じじゃ)
(この調子だと、他の奴らがおさげちゃんに寄り付くスキはないよな…)
(先輩方が卒業したら、少なくともその後の一年は、俺が多少は有利になるし…)
(私達の中に限っての話なら誰でも及第点ではあるでしょうが、だからと言って自分から諦める必要もありませんね)
(困ったなぁ…俺はそこまで積極的にはなれない性格なんだが…けどやっぱり可愛いしなぁ)
 様々な思惑が彼らの脳裏を乱れ飛んでいくのを、三強達が沈黙したままに見つめていた。
 目には見えないものだが、その方がよく分かるものもある。
「結局、候補は変わらず俺達八人か…ほっとしていいのか、悩むべきなのか、ツライところだね…」
「…まだこのままでいいと思うのは、俺の身勝手か?」
「いや…俺もそう思っている。理屈は抜きでな」
 今は何も難しい事は考えず、気のおけない仲間達と、可愛い妹分と一緒に、楽しい一時を過ごそうか…
 それからもテニス部部室の明かりは消える事無く、賑やかで楽しげな笑い声が外まで微かに洩れ聞こえていた。




 後日談…
「わ、竜崎さん、それなぁに?」
「凄い荷物だけど…」
「う、うん…」
 朝練が終了して教室に入ると、彼女の姿を見たクラスメート達が、彼女の持つ紙袋に視線を向けた。
 非常に大きな紙袋で、中には何か色々な荷物がぎっしりと詰められている。
 興味も露に尋ねてくる彼女達に、桜乃はえへ、とちょっと照れた様子で説明した。
「ちょっと…朝のタイムセールで色々と買っちゃって…ひ、一人暮らしって色々と物入りだし、実家にも迷惑掛けられないし…」
 袋の中には、米や味噌や紅茶にジャム…更には卵や醤油まで。
 日用品の山に、友人達はすぐに彼女の言葉を全面的に信じた。
「うわー、大変なんだね」
「でも偉いよ、そこまで考えるなんて」
 凄〜い、と友人達の尊敬の視線を受けながら、しかし桜乃は内心はちょっぴり罪悪感に苛まれていた。
(い、言えない……全部、テニス部の先輩方から貰ったものだなんて…)
 あの校内でも大人気のレギュラー達から贈り物を貰ったなんて知られた日には、大騒ぎになる事は目に見えている。
 一応、彼らからこういう言い訳をする事は許してもらっているし、中身が中身だけに、まさかこれがプレゼントだとは誰も思わないだろうけど……
(うーん……これも、『貢がれている』ことになるのかしら…)
 実はバレンタインが終わってから、レギュラー達がその礼も含めて彼女の家計を助けようと、こういう形での援助に繋がったらしい。
 微妙な気分の桜乃だったが、それらの差し入れのお陰で、次月の彼女の家計はかなり上向いたという……






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