「…いや、俺はいい。いつも通う書店にあるのも知っているから、これはお前が持って帰るといい」
「でも…」
「ここは年上の言うことを聞くものだ」
「…はい」
 絶対に引く気がない、という相手の雰囲気を感じ取り、桜乃は半ば仕方なく彼の手から雑誌を受け取った…のだが、
「きゃ…」
「ん?」
「真田さん、どうしたんです? 凄く手が冷たいですよ!?」
 雑誌を受け取った時にまた触れ合った指先…
 真田のそれが氷の様に冷え切っていることに驚いた桜乃は、思わず彼の手をぐい、と握って、しげしげと眺めた。
「あ、ああ…今、外から来たばかりだからな」
 説明しながらも、真田は少女に手を握られたことに内心うろたえていた。
 小さな、しかし自分のより暖かく、柔らかな手…
 振り解くのもためらわれ、しかしそのままにしておくのも気恥ずかしくなる。
 コンビニの中には他の客も数人いたが、誰も彼らに注目などしておらず、当然の日常の一風景ではあったのだが……
「わ…氷みたい…痛くないんですか?」
「いや、別になんということはない。この程度の事で根を上げる俺ではないぞ」
「…それは何となく納得ですけど…」
 相手の説明に苦笑した少女は、もう一度、真田の両手を自分のそれで包むように握り、そこに自分の顔をすぐ側まで近づけると…

 はぁ…っ

「っ!!!」
 自分の吐息を男の両の掌に優しく吹きかけた。
 吐息に篭った熱が、掌の皮膚に触れ、温かな感覚を伝えてくる。
 そしてその吐息以上に熱い何かが、真田の心と身体の芯に一気に注ぎ込まれた。
 手足が、体幹が、何より頭が、一気に血が逆流するような、激しい熱…
「りゅ…」
 声を出すことすらためらわせるのは、その熱があまりに熱く、それでいて、経験がないほどに甘美なものだからだろうか…
 くらくらと、眩暈を覚えそうになっている相手の様子には気付くこともなく、桜乃は息を吹きかけた彼の両手を、今度は優しく自分の手でごしごしと擦っていた。
 少しでも、相手に自分の持つ熱を、分けてあげようというかのように…
「〜〜〜〜〜〜!!」
 滅多に動揺を表さない鬼の副部長の顔面が、この時ばかりは一気に紅潮する。
 それは、決して外気から受けた寒冷刺激によるものではなかった。
 いや、寧ろ、身体が熱い。
 手からほんの少し分けてもらった熱が、自身の身体の中で何兆、何京にも増幅し、暴れまわっているようにも思えてしまう。
 どくどくと、心臓は激しく脈打ち、喉が渇き、汗が噴き出す。
 武士道を重んじ、心身を鍛えることに常に切磋琢磨していた己の心が、今は、自分より年下の少女によって、まるで飴細工の様に溶かされてしまいそうだった。
 それでも…それは不快なものではなかった。
 少女は彼の手をまだ熱心に擦っていたが、相手が感じている温度とは別物なのか、手に本来の熱がなかなか戻らないことに首を傾げている。
「あー…やっぱりこれじゃあ、あったかくなりませんね…」
「いや…もう…十分…」
「え?」
「い…いや…何でもない」
 見上げてくる少女と視線を合わせるのが何故か後ろめたく、真田は咄嗟に視線を横に逸らす。
「その…気遣ってくれてすまない。もう、いいぞ」
 一瞬、勿体無い…という不埒な気持ちが湧き上がりそうになり、真田は心の中、速攻でその気持ちを成敗する。
 これ以上熱に浮かされたままでは、自分がどうにかなってしまいそうだった。
「ん〜…」
 残念そうに唸った桜乃が、はっと顔を上げ、自分のパーカーのポケットをごそごそと探ると、何かを取り出した。
「そうだ、これがありました!」
「?」
 見ると、小さなハンディサイズのカイロが一つ。
 桜乃はそれを、開かせた真田の掌にそっと乗せる。
「じゃあ、これあげますね。あったかいですよ」
「え…?」
「雑誌、譲ってくれたお礼です」
「…」
 にこりと笑う少女にじっと視線を向けたまま、真田は何も言えなくなる。
 手にしたカイロをゆっくりと握ってみると、確かに温かい。
 先程の少女の吐息より確実な熱が手にじんわりと広がる…が、あの時のような、身体の中に小さな太陽が生まれた感覚は、もたらされはしなかった。
「…帰りが困るだろう?」
 先輩らしい忠告を言った真田に、桜乃は平気ですと笑った。
「実は手袋も持ってます。それに、真田さんの手の方が心配ですよ。テニスをするなら、手を大事にしないと…霜焼けとか」
「む…」
 尤もな相手の言葉に、何も言い返せない。
 健康管理には常日頃、十分気を配っているつもりだったが、今日はここまで寒くなるとは思わず、また、己の身体に対する過信があったのも事実だった。
 いつも他人に節制を求めることが多い自分が逆に諭されたことで、真田はそこは素直に反省した。
「確かに、お前の言う通りだな…俺も少し気が緩んでいたようだ。気をつけよう」
「そんなに改まって言われることじゃないですよ」
 照れる少女は、脇に抱えていた雑誌を持ち直し、ぺこんと礼をする。
「これ、有難うございました。大事に読みますね」
「…ああ」
 そして、桜乃がレジに向かおうと振り返った時、
「竜崎」
「はい?」
 真田は桜乃に呼びかけ、一瞬、逡巡すると、ちょっとだけ照れた様子で言った。
「…その…有難う…温かかった」
「?…はい」
 気付いているのか、いないのか…
 少女は少しだけ不思議そうな顔をしたが、それはまたいつもの優しい笑顔に戻った。
 頷いて、一礼し、そして再びレジへと向かう。
「………」
 雑誌という目的を失い、既にコンビニに留まる理由も失った真田だったが、桜乃が会計を済ませ、またこちらを向いて手を振り、去ってゆく姿を見届けるまで、彼はずっとそこに留まっていた。
 桜乃がいなくなり、コンビニの中の微妙な喧騒が耳に入ってくるようになり、ようやく真田は動き出した。
 理由をつけるように書籍の棚を見て、そして飲料水の棚へと移動し、しかし、結局買いたいと思わせるものは見当たらず、男は手ぶらで外へ出た。
 相変わらず外は寒く、来た時よりも暗くなっていた。
 コンビニで少し温められた身体も、外の外気に晒され、再び熱を失ってゆく。
 真田は、さっき貰ったカイロを右手で軽く握り、そして左手に移してまた軽く握り…それを静かに、遠慮がちに頬に押し当てた。
(…温かい…な)
 あの子の心遣いが、そのままこのカイロの熱として宿っているようだ。
 らしくもない事を考えた自分に驚き、思わず辺りを見回す。
 当然、彼に気を向ける人はおらず、彼の心を読む人もいない。

 どうかしている…本当に

 己を叱咤して、真田は今度こそ自宅に向かって歩き始めた。
 温もりが残るカイロを、ずっと握り締めながら…



 翌日の登校時、真田は例のカイロをブレザーのポケットに入れて家を出た。
 やはり秋から冬へと、確実に季節は移ろってゆく。
 朝の、涼しいというには少し冷たい風を受けながら、彼は学校に向かう。
「……」
 少しためらい、ポケットに手を入れると、カイロが指先に触れた。
 昨日貰ったそれは、もうその本来の熱を失いつつあった。
 正直、ポケットに入れていても、殆どその用を果たしているとも思えない。
 しかし…・と、真田は思った。
 もう少しだけ、持っていたかった。
 ほんの僅かな温もりでも残っているのなら、捨ててしまうには忍びない。
 あの子の優しい心が少しでも…ここに残っているのなら。

 真田は、誰に知られることもなく、小さなカイロをもう一度ポケットの中でそっと握り締めた…






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