『お姫様だっこだ!』
『副部長がお姫様だっこしてるぞ!?』
遠目で真田の行動を見て、ざわざわざわ…!とテニス部員が陰で大騒ぎしているのにも気付かず、本人は少女の小さな身体を軽々と抱え、部室へと運び込んでいた。
そこには立派なベッドなどは勿論置いてはいないが、身体を横に出来るベンチはある。
「竜崎…!?」
ベンチに出来る限りそっと優しく相手を寝かせた後、さわりと乱れた前髪をかき上げ、顔を覗き込む。
確かに傷はなく、呼吸も規則正しい…問題は何も無い。
しかしそれでも、真田はどうしても心の中に生まれた不安を掻き消せずにいた。
生きているし、怪我も無い…すぐに目を覚ます筈なのに、もしやという思いが消えてくれない。
もし…彼女が目を覚まさなかったら…?
(…馬鹿な! 有り得んことだ!!)
ぶんぶんと激しくかぶりを振って、嫌な想像を振り払っていた時…
「…ん」
「!?」
真田の不安を払拭させるように、ぱちりと桜乃の瞳が開かれた。
「あ…真田、さん?」
「竜崎! 良かった、気が付いたか」
「え? はい…あの、私…」
よいしょ…と上体を起こした桜乃は、きょとんとした顔で相手を見上げ、続けて辺りを見回した。
「あれ…?」
「倉庫で気を失ったのだ。前に荷物が落ちてきたから、驚いたのだろう」
「……あ」
真田に言われて思い出した記憶に、桜乃はおろっといきなり怯え出す。
「そ、そうでした〜…! 私、そのっ…びっくりしちゃって…!」
「い、いや、もう大丈夫だから…恐がらなくてもいいぞ」
震えさえ始まってしまった相手に、真田も少しだけうろたえながら必死に宥めた。
「すまんな…やはりお前を行かせるべきではなかったか…」
「そ、そんな…真田さんの責任じゃないですよ。地震の所為ですから…」
笑う少女の震えが徐々に収まっていくのを認め、真田が微かに微笑む。
良かった…無事で本当に良かった…
「…もう大丈夫か?」
「はい、随分落ち着きました…けど…」
「ん?」
「…ちょっと腰が抜けてしまったみたいで、力が入らないんです…もう少し、ここにいてもいいですか?」
「ああ、それは勿論だ。あまり無理をするな」
「…」
優しくいたわってくれる相手に、少女はしかしとても申し訳なさそうな顔をして俯いた。
「…竜崎?」
「…お手伝いするつもりだったのに、却って足手まといになって御迷惑まで掛けてしまって…私の方こそ、謝らないと」
「そ、そんな事は無い! お前が気に病む事はない。だから、そういう顔をするな、その…」
仔犬の様な瞳を向けられ、真田の心臓が急な動悸を訴えた。
テニスをしている訳でも、ランニングをしている訳でもないのに…どうにもおかしな感覚だ。
しかも厄介な事には、心臓だけでなく心までもが騒ぎ出した。
目の前の少女が『可愛い』と、大合唱を始めだし、自分の手を前へ前へと押し出してゆく。
「…!」
上目遣いに見上げてくる桜乃の頭に男の大きな掌がぽんっと乗せられ、そのままかいぐりかいぐりと撫で回された。
「真田さん?」
「…お前はよく頑張っている…その…俺は、お前のそういうところが…き、気に入っているのだ…だから、そう自分を責めるな」
きっと彼自身、こういう事をするのが初めてで、どういう風にしたらいいのかもよく分からないのだ。
しかし、それでも何とか自分を励まそうとしている気持ちがよく分かり、桜乃は無性に嬉しくなった。
「えへ…こうやって真田さんに褒められるの、初めてですね。凄く嬉しいです」
「そ、そうか…?」
「はい」
「…そうか、俺も…その…悪くない気分だ」
うっかり『お前が可愛いからな』と続けそうになり、慌てて口を閉ざす。
一歩は前に踏み出しはしたが、まだまだ経験値が足りない様である。
しかしそれでも一度覚えた喜びはなかなか手放せないらしく、真田は暫く、かいぐりを続けていた。
「…あ、そろそろ行きましょうか? いつまでも真田さんを独り占めしているのも悪いです」
「え…」
独り占め、という単語に、またどきりとする。
そう言えば…
確かに自分達は今、二人っきりの場所にいて互いが互いを独占している事に…しかし、それは別に俺にとっては不都合ではなく、寧ろ…
(いかん…今日の俺は本当におかしい…しっかりしろ、弦一郎!)
この状況が物凄く魅力的なものに見えてしまったことに対して、真田が自身に喝を入れる。
健全な男子であれば別に責められるべきことではなく、逆に無感動な方が精神衛生上は問題となるのだが…
「そ、その…もう、大丈夫なのか?」
「はい、多分…」
にこ、と桜乃は微笑んで、真田の前でゆっくりとベンチから立ち上がった…が…
「あら…」
まだ、少しばかり足元がおぼつかない。
どうやら、抜けてしまった腰の脱力感が残ってしまっている様だ。
「大丈夫か?」
「はぁ…ちょっと情けないですね〜」
えへへ…と照れた様子で笑う桜乃に、思わず真田も笑みを浮かべた。
「無理をするな、辛かったらまだ休むか、掴まっていけば…」
「あ…そうですか?」
相手の忠告に、桜乃はきょと・・と真田を見上げると…
「じゃあ、すみません。少しだけ…」
きゅむ…
「っ!!」
小さな手が男の鍛えられた逞しい腕に縋り、少女は相手に寄り添う形で立った。
「りっ…竜崎…? そのっ…」
「? はい?」
自分から言い出しておきながら、今度はやたらと慌てふためく男だったが、そこには幾分かの誤解があった。
彼は、自分に掴まるという意味ではなく、他の壁や何か物に掴まって、という意味で言ったのだ。
無論、彼女に手助けをしたくない訳ではなく、自分に縋れと言っても相手が困るだろうと思っての、彼なりの気遣いだったのだが…相手は想像の更に上をいっていた。
しかし、こうなったら…
「…し、しっかり掴まっているんだぞ」
「はい」
腕に触れる柔らかな手の感触と、隣の少女の存在感に、純情な武士道男は戸惑いながらもそう言って、相手の行動を許した。
「医務室へ行ってもいいぞ?」
「大丈夫です。コートに行く間に、きっと元に戻りますよ」
にこりと笑う桜乃の方が、寧ろ心のゆとりはあるのではないだろうか?
何となく複雑な気持ちになりながらも、真田はゆっくりと気遣いながら歩き、彼女をコートへと連れて行った。
『腕組んで歩いてる!』
『副部長が彼女と腕組みして歩いている!!』
また別の騒動を巻き起こしながら真田が桜乃を連れてコートに行くと、幸村達が二人を迎えてくれた。
既に先に来ていた仁王から話を聞いたのだろう。
「やぁ、大変だったみたいだね。怪我がなくてよかったよ、竜崎さん。今は切原が倉庫に行ってるけど、もう一人でも片付く量だって。お疲れ様」
「すみません、お騒がせしてしまって…」
「ん…うん…まぁ、そっちはそんなに騒ぎじゃなかったんだけど、ね」
ぺこりと頭を下げる桜乃に、何故か幸村は口元に手を当ててくすくすと笑っている。
「精市、そんな言い方はないだろう。彼女にとっては酷い災難だったのだぞ、あわや大怪我をするところだった」
「うん、ごめん…でも、早速俺の忠告を聞いて、チャンスを活かしてくれたみたいだから」
「?」
たしなめる真田の言葉にも幸村はまだ笑みを消せずにいて、流石に相手がそんな親友の態度を訝った。
そう言えば、周囲のレギュラー達も、微妙な視線を向けてきている様な…?
何をそこまで笑っているのだろう…それに、忠告?
「…精市? 一体…」
「ふふ…専ら大騒ぎになってたんだよ。弦一郎が結婚式の練習でも始めたんじゃないかって」
「けっ…!?」
「…こん?」
言葉を失った真田に続いて、桜乃が首を傾げると、幸村はちょいちょいと二人を指差した。
「だって、弦一郎。彼女をお姫様だっこしてたじゃないか…しかも今はそんな格好で、ヴァージンロードでも歩いているみたいだよ」
はっ…
「っ!!!!!」
指摘され、初めて真田は自覚した。
そう言えば、自分、慌てていたから全く自覚はなかったが、確かに彼女を前に抱いて部室まで運んでいた。
それに、今の状況も…確かに…
幾ら意識していなかったとは言え…自分は…とんでもない事をっ!!
「〜〜〜〜〜〜〜!!!」
「きゃあ! 真田さん!?」
いきなりそこにがくんと片膝を付いてしまった男に、桜乃は声を上げ、幸村はおやおやと苦笑しながら歩み寄った。
「…結構な精神的ダメージだよな」
「好きな子相手なんだからいーじゃんか」
遠巻きに見ていたジャッカルと丸井の感想に、柳が、はあとため息を漏らす。
「…明日は寝込むかもしれんな…弦一郎」
「お気の毒じゃのう」
「ではその異常に嬉しそうな笑顔はやめて下さい、仁王君」
他の仁王や柳生達もそれぞれ発言している向こうで、真田に倣って片膝を付いた部長が笑って相手に声を掛ける。
「結婚式には俺も呼んでね」
「せ・い・い・ち〜〜〜〜〜〜!!!」
「まぁ、それは冗談として」
どうしてウチの部員は、心臓に負荷をかける冗談を言う奴らばかり…っ!!
真田の全身がわなわなと震えているのは、怒りの為か、動揺の為か…何れにしろ、いつもの鋼の精神状態でないことは確かだ。
その全身の震えもやがては無くなり、代わりに男はがっくりと膝だけではなく頭までも力なく垂れて呟いた。
「不埒な考えは決してなかったが……すまん…俺はしばらく立ち直れんかもしれん…」
「……」
そこまで自責の念にかられる男が流石に気の毒になったのか、幸村が肩に手を置きながら言った。
「別にやましい気持ちがなかったのなら、普段通り堂々としていたらいいんだよ。ね、竜崎さん、君は弦一郎がそんな男だとは思わないだろう?」
「勿論です! 真田さんは、私を心配して下さったんですから」
力強く幸村の意見を肯定した桜乃は、一度は離れた手を再び相手の腕へと触れた。
「大丈夫ですよ? 私は、真田さんを信じていますから」
「……竜崎…」
おや、と瞳を軽く見開いた後、幸村がふふ、と笑って立ち上がる。
(なんだ…やっぱり彼女の方が、こういう場合は適任みたいだね)
それならこの子に任せよう、と、彼はその場から離れていく。
「精市・・?」
「弦一郎、気持ちの整理がついたら非レギュラー達の練習の監督を任せるよ。竜崎さんにあまりみっともない格好は見せないこと。仮にも君は立海テニス部の副部長なんだから」
さりげない一言が、見事に真田を発奮させる。
「なっ…! 俺はそこまで女々しくはない!」
「じゃあ頑張って」
「う…」
結局、言いくるめられてしまった形でその場の会話は終わり、真田は憮然とした表情を隠すように、ぎゅっと帽子をきつく被り直した。
「ふん…!」
「真田さん…」
「…すまなかったな竜崎、もう大丈夫だ…お前に変な誤解を掛けさせる事はせん、心配するな」
巨大な精神的ダメージを食らった副部長だったが、桜乃の信頼の言葉が彼を大きく前向きにしてくれたらしく、その瞳にはもういつもの鋭い眼光が戻っていた。
「お、復活した」
「うわぁ、何か燃えてそう…」
「…ちっ」
「だから何でそこで舌打ちなんです、仁王君」
「ほう…竜崎の存在は、俺の予想以上に弦一郎にプラスに働くようだな」
レギュラー達の視線の中、真田と桜乃は互いに向き合い、微かに微笑みあった。
「お前が信用してくれているのなら、俺ももう気にせん。見苦しいところを見せたな」
「そんな事ないですよ、私は…その…」
「?」
「実は嬉しかったです。お姫様だっこ、覚えてなくてちょっと残念でした」
「お…」
ぐら…と視界が揺らぎ、必死に真田は踏み止まる。
ようやく立ち直ったところで、また意外なところから不意打ちがっ!
「そ…そうなのか?」
「はい」
今、自分の中に生まれた感情は、やはり…『嬉しい』というものなのだろうな…
「それはまぁ…残念…だったな」
「女の子の夢ですから」
「ほう、なら…」
言いかけた真田が、己の口を手で押さえる。
「?」
「いや…何でもない」
危うく言いそうになってしまった…
『また俺が抱き上げてやろう』
これまでの自分なら口が裂けても言わなかっただろう台詞が、何故、彼女を前にすると…
「……?」
「む…いや…」
何でもないと首を振り、前へと視線を移した真田だったが…
「…宜しくお願いします」
「え…?」
まるで心に封じた言葉を読み取ったかのように、桜乃が言った。
「…竜崎?」
「……」
呼びかけに振り向いた相手は、何も言わず、ただ微笑む。
「……」
そこに、言葉にはならない確かな答えを感じ取り、真田もまたそれ以上何も言わず、笑って頷いた。
お前が、それを望むなら…
言葉で埋める必要のない穏やかな空気の中で、二人は短くても、静かに共に過ごすひと時を楽しんでいた…
了
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