二人の問題児
「お宅の娘さんの桜乃ちゃんは、非常にいい子です」
或る日、幸村桜乃の母親は、幼稚園での面談の為に園を訪れ、保母から娘についての報告を受けていた。
元々が病弱で内気な性格であることは、勿論母親である自分も理解しており、それについて何らかの指摘があることは予想している。
しかし、親の欲目かもしれないが、普段から大人しく素直な娘が、そんなに大きな問題を起こすこともないだろうと、彼女は安心して保母の報告を受けていた。
ところが意外にも、彼女の予想通りの指摘をした後に、保母はほうと溜息をつきながら別の気になる一点を指摘してきたのである。
「…ところで、桜乃ちゃんのご家庭でのコミュニケーションはどんなものなんでしょうか? お母様とお父様とも、ちゃんとお話はされてます?」
これには、少しばかり母親も驚いた。
何故なら、そんな指摘を受けるとは思えない程に、自宅での親と子供達のコミュニケーションは完璧だったからである。
別に自閉症らしい気配もなく、子供達はしっかりと年相応の会話能力があり、表情も非常に豊かだ。
逆に何故そんな事を訊かれるのかそちらの方が疑問であり、母親はそのまま素直にそれを相手にぶつけてみた。
「ええ…実はちょっとだけ気になる事が…」
三日前…
「桜乃ちゃん、またご本を読んでるの?」
「はい」
いつもの様に、自由時間になると静かに部屋の片隅で絵本を開いていた桜乃に、保母が問い掛ける。
「お家でも、よく読んでいるの?」
「はい…おうじさまが、すごくつよくてかっこいいの」
こくんと頷いて、本の世界に没頭していた少女に、何気なく、本当に何気なく保母はある事を訊いてみた。
「ふぅん…じゃあ桜乃ちゃんが一番強いと思っているのは誰かしら?」
「おにいちゃん」
「……」
保母が期待していたのは、『お父さん』という答えだったのだが、まぁ、これもありか。
確か、年が近い兄がいると聞いていたので、もしかしたら彼がよく妹の面倒を見てくれているのかもしれない。
気を取り直して、保母は続けて質問した。
「じゃあ、桜乃ちゃんが一番優しいと思うのは?」
「おにいちゃん」
「……」
またも即答…
因みにこの時保母が期待していた答えは、『お母さん』だった。
強くて優しいお兄ちゃん…まぁ、それもありだろう。
両親が忙しい時に色々と面倒を見てくれる兄なら、どちらの顔も見せているだろうし…
自分を納得させながら、保母は再び気を取り直して、最後の質問。
「じゃあ、桜乃ちゃんが一番尊敬しているのはだぁれ?」
「それはもちろん、せいいちおにいちゃんです」
「…………」
保母は、最早何も訊くまいと思い、桜乃は、相変わらず絵本をじっと眺めていた……
「兄妹仲が非常にいいのは確かに喜ばしいことではあるんですが…ちょっと過度なところがあるのではないかと」
「…………」
思い当たる節があり過ぎるのか、思わず顔を俯けて言葉を継げなくなってしまった母親に、慌てて保母は取り成した。
「ま、まぁよくある事なんですよ! でも、成長を続ける内に、きっと互いの自我も確立されていくでしょうから。ご両親とのコミュニケーションが問題なければ、そう心配する事はないでしょう」
そして、その日の面談はそこで終了したのである。
それから帰宅後に、母親は父親にも面談の事を伝えてみた。
しかし家庭そのものはすこぶる円満であり、兄妹仲だけではなく、親子の関係も非常に良好であった為、何をどう解決するという訳でもなく、結局、それはそれで良しとしようということで決着がついたのであった。
月日は流れ流れて……
「ただいま」
中学三年生になった桜乃の兄、幸村精市が、いつもの様に鞄とテニスバッグを抱えて帰宅すると、真っ先に妹が玄関に飛び出してきて彼を迎えた。
「精市お兄ちゃん、お帰りなさいっ!」
「やぁ、ただいま桜乃」
年頃になると、異性の姉妹を疎む男子もいるのだが、この若者に関してはそういう素振りは微塵もなく、寧ろ相手と同じく喜んでその出迎えを受けた。
鞄を抱えているのとは別の腕にぎゅーっと縋ってくる妹も一緒に連れて、幸村がリビングへと移動すると、いつもなら準備されている筈の夕飯が卓上に見当たらない。
「あれ? ご飯は?」
彼の質問に、キッチンにいる母親が申し訳なさそうに答えた。
『ごめんなさい精市、今日はちょっと遅れちゃったのよ。あと三十分もしたら出来ると思うけど…』
「あ、そうなんだ…うん、全然構わないよ」
「私もお手伝いしたけど、時間ばかりはどうしようもないの」
しゅん、としょげる妹をよしよしと頭を撫でて慰めてやりながら、幸村はさてどうしようかと考えた。
あと三十分…何とも微妙な時間だ…今の時間に見たい番組もないし、かと言って何をするにも中途半端な感じになりそうだし……
「…じゃあ、ちょっと仮眠でも取ろうかな」
今日の練習はいつもよりちょっと熱が入ってしまって、気だるい感じがする。
ほんの少しだけ仮眠を取ったら回復するだろう。
「寝ちゃうの? お兄ちゃん」
「うん、ちょっとだけ疲れちゃったからね…ソファー借りるよ」
言いながらリビングの隅に鞄を置いた幸村は、そのままソファーにころんと寝転がって体勢を軽く整える…が…
「………」
納得出来る寝心地ではないのか、暫くもぞもぞと身体を動かしていたのだが、それでもどうにもならなくなったらしく、遂に彼はちょいちょいと桜乃を手招きで呼び寄せた。
「桜乃、桜乃」
「はい?」
「膝枕して」
兄妹であってもかなり気恥ずかしいだろう台詞を幸村はしれっと言ってのけ、それを言われた桜乃も、別に動揺することもなくあっさりと頷いた。
「はぁい」
そして、兄に言われるままに頭の方へと移動して、ちょん、とソファーに座り、膝の上に彼の頭を乗せてやる。
「はぁ…良い気持ち」
「うふふ」
それから母親がキッチンで出来た料理をリビングへと運んでいくと、まだ兄妹はソファーでいちゃいちゃと思い切りいちゃついていた…勿論、一般的な兄妹のスキンシップの範疇でだが。
「………」
しかし、その時母親の脳裏には、あの幼稚園での面談の記憶が甦っていた。
年は経過したが、あの二人の仲良し振りは一向に変化を見せない…いや、寧ろどんどん強く深くなって言っている様な…
「もぉ〜、お兄ちゃんったら子供みたい」
「ふふ、中学生は子供だよ」
兄妹仲良く喧嘩せず、互いに助け合う心は尊いものではあるけれど、やはりどこかで躾を間違えてしまったのかと思わずにはいられない母親だった…
了
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