記憶の上塗り


「よいしょ…っと」
「今日は手伝ってくれて本当に有難うね、桜乃」
「いいえー、一度見てみたかったんです、精市さんが育てているお花」
 とある休日の昼下がり、立海大附属中学三年生の幸村精市は、自宅の庭で一人の少女と仲睦まじく庭弄りを楽しんでいた。
 青学の一年生、竜崎桜乃…彼の恋人になったばかりの娘である。
 今日は立海のテニス部の活動もお休みであり天気予報も快晴を謳っていたので、これ幸いとガーデニングに徹しようと決めていたところ、それを聞いた桜乃も興味を示し、それなら、とこれ幸いに自宅へ招待したのだった。
 青空も心地よく風も穏やか、傍には愛しい恋人、幸村にとっては至福のひと時だ。
「結構小さく見える鉢も、持ってみたら重いんですねー」
「土は意外に重いものだからね…あまり無理はしないで、一番小さな鉢だけ移動してくれたらいいよ」
「はい…じゃあ、次はこれ…」
 丁度足元にあった鉢を持とうと、桜乃は腰を屈めて両手を伸ばし、鉢の下部へと指を滑り込ませた…

 ぷに…っ

「……?」
 今の感触…何だろう?
 何かやけに柔らかくて、ちょっとひやっとしてて、ぬるっとしたモノが、指先に触った様な…
 戸惑いながら、桜乃はゆっくりと鉢を持ち上げ、それが置かれていた煉瓦の敷地を見て…
「…!!!!!」
 ごとん…
 再び、鉢をその場に置いた。
「…? 桜乃?」
 いきなり無言になってしまった恋人に、訝し気に幸村が声を掛けたが、向こうは聞いているのか聞こえてないのか返事を返す事もなく、だーっといきなりダッシュで何処かへと疾走して行った。
「???」
 一体何があったんだろう?
 幸村でなくても疑問に思うのは当然で、彼もまた一時作業の手を止めて、彼女の後を追いかけた。
 桜乃が行った先はすぐに分かった。
 そう遠い場所ではない同じ庭の一角…作業の始めに教えた、水道がある場所に彼女はいた。
 勢い良く流れ出る水に両手を曝し、ばしゃばしゃと音も激しく洗っている。
 見た感じ、怪我をしたとかそういう訳ではなさそうだったが、様子を伺うとやけに表情が厳しい…と言うか、うっすらと目には涙が滲んでいる様な…
「桜乃、どうしたの?」
「…すっ、すみません…鉢を…持とうとしたら…」
 やはり声にも涙が滲んでいる…どうやら何かショックな事があった様だ。
「?」
「……鉢の下に…ナメクジさん…」
「あ…」
 思わず鉢が置かれていた方を振り返りつつ、幸村が声を漏らした。
 確かに鉢の下にはそういう生き物が潜り込んでいる事もよくある話だ。
 自分はもう慣れっこだったが、か弱い女子にはかなりの精神的ショックになってしまったかもしれない…素手で触ってしまったなら尚更。
「ぷにって…! 指先に思い切りぷにって…!」
「ああ…分かるよ」
 ふええ〜〜と涙目で訴える少女にどう慰めていいのか分からず、幸村は取り敢えず頷きつつ傍へと近づいて、ぽんぽんと優しく肩を叩いた。
「びっくりしたね」
「す、すみません、こんな事でうろたえてしまって…うう、まだ指先に感触が残ってます〜」
 きゅっと蛇口を閉じて手洗いを終えた桜乃は、付いた水滴を払う様に手を振りながらも、全身の産毛を逆立てていた。
 まだ、問題の瞬間が脳裏を巡っているのだろう。
 こういう嫌な記憶は結構後々まで残り、同じような感触に再び触れると、再び頭をもたげるのだ。
「ああ、さっきの記憶を消してしまいたいです…今は柔らかいものに触っただけで思い出してしまいそう」
「うーん…」
 いくら『神の子』と呼ばれている自分でも、そこまで人の心を自由に出来る訳もないし…けど、俺の手伝いの所為でそのまま嫌な記憶を引きずらせるのも申し訳ないな…
 そんな事を考えていると…
「…あ、そうだ」
「え?」
 何かを思いついたのか、幸村はにこりと笑って人差し指を立てながら桜乃に一つの提案をした。
「記憶を消す事は出来ないけど、塗り替える事は出来るかも」
「記憶を…ですか?」
「そう…さっきのナメクジよりもっと強烈な印象を与えたら、そっちの方を思い出すんじゃないかな…」
 ふふ、と微笑む恋人に、桜乃は半分納得しながらも首を傾げた。
「強烈な印象、ですか…それはそうかもしれませんけど、さっきのより強い印象なんてそんなにないですよきっと…」
「ちょっと手を貸して?」
 解決策が思い浮かばない桜乃に、ひょい、と右手を差し出し、幸村はその上に彼女の手を乗せる様に促した。
「?」
 何をするんだろうと思いながらも、桜乃は素直に幸村の言葉に従い、ナメクジの感触を記憶してしまった自身の右手を相手の掌へと乗せた。
 すると若者はそれをきゅ、と優しく握りつつゆっくりと持ち上げ、同時に自分の顔をそちらへと寄せていき…

 ぱく…っ

「っ!!」
 少女の目の前で、彼女の人差し指と中指が、幸村の口の中に含まれた。
 温かい、濡れた感触が二本の指を包んだかと思うと、柔らかな舌が口腔内で踊り出しそれらに絡み付いてくる。
「あ…っ!」
 声を上げて手を引こうとしたが、幸村の手がそれを押さえつけ、許さない。
 そうしている間にも、彼の舌はまるで蛇の様に二本の指のそれぞれをからかうように蠢き、絡みつき、唾液を塗りつけてくる。

 くちゅっ…ぴちゃっ…

「あっ…やぁっ…やめてぇ、精市さ…っ」
 ぞくぞくぞくぅ…っ
 甘い戦慄が背中を走り、桜乃がぶるっと身を震わせる。
 さっきのナメクジなど足元にも及ばない、この感触と不可思議な快感…
 記憶の上塗りなど考えられないと思っていた桜乃だったが、既に記憶の中にはあの忌まわしい瞬間は微塵も残っていなかった。
「せいいちさん…っ」
「…」
 ふるふると身体を小刻みに震わせ、目元を赤く染め、瞳を潤ませて哀願するような少女の姿に、戦慄を与えていた幸村もまた、それを感じていた。

 ぺろり…

 名残惜しむように、最後に二本の指をゆっくりと根元から指先に向かって舐め上げると、若者は舌先を覗かせながら、桜乃の手を口腔から解放する。
 彼女の指は彼の唾液で濡れた艶を放っており、それを見た桜乃が更に頬を真っ赤に染める。
 そんな恋人に幸村はちょっぴり意地悪な笑みを浮かべて、相手を抱き寄せると上から覗き込んで言った。
「どう…? 少しは嫌な記憶、消えた?」
「は…はいっ…」
 そんなに間近で見つめられたら、また恥ずかしくて、胸がどうにかなってしまいそうなんだけど…
 しかしそれを訴える前に、幸村の方が先に言葉を継いだ。
「本当にごめんよ、俺の手伝いをさせた所為で嫌な思いをさせて…お詫びをしなきゃ、ね」
「え…」
 そう言うと、幸村はくすりと笑い、ゆっくりと桜乃の唇を己のそれで塞いだ。
 本当にゆっくりな動作だったにも関わらず、避けることなど出来なかった。
「んんっ…!」
 またも驚かされた桜乃が身体を捩ったが、強引な若者の力は非常に強く、自由にさせてくれない。
 深く甘い口付けを交わし、ふと唇が離されたかと思えば、またすぐに塞がれる。
 何度も何度も…甘い時は繰り返される…
「ん…はぁっ…」
「桜乃……凄く可愛いよ」
 ひそりと密かに囁きながら、幸村は笑った。
 止めなきゃいけないと思っても、君がそうさせてくれない…
 俺がどれだけ君に囚われてしまっているのか、きっと話しても君は信じられないんだろうね。
 だからね、これはお返しなんだ。
 君が何かに触れた時…それを切っ掛けに思い出すのが俺の悪戯であるように…
 俺と同じように、君も少しでも俺に囚われてしまうように…
 こんなに夢中にさせてくれたんだから、これぐらいいいよ、ね…?


 その日以降、桜乃は幸村の思惑通り、柔らかなものに触れる度に条件反射的に顔を赤く染め、周囲から指摘されては弁解に困ることになってしまうのであった。






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