兄の謀略


「御免」
『はぁい』
 或る日曜日、立海男子テニス部副部長である真田弦一郎は、同部に所属している柳蓮二の自宅を訪ねていた。
 玄関の戸を開け、声を掛けると、若い女性の声が返ってくると同時に、ぱたぱた…と小さな足音が近づいてくる。
「お待たせしました…まぁ、真田先輩」
 姿を見せたのは、薄い桃色のワンピースを纏った、おさげの少女だった。
 蓮二の妹の桜乃であり、今年、真田達と同じ中学校に入学したので彼らの後輩にもなる女性である。
「お邪魔する」
「蓮二お兄ちゃんからお話は聞いています。お兄ちゃん、お部屋にいますからどうぞ」
 女子にはとかく恐がられがちな真田だが、桜乃にとっては柳と一緒にテニスに打ち込み、珍しくその兄から高い評価を受けている先輩なので、彼女はいつもと変わらず人懐こい笑顔を見せた。
「む…すまない」
 わざわざ柳の部屋まで案内してくれるとは…と恐縮する相手に、桜乃はいえいえと笑いながら先に立って歩き出した。
「真田先輩とお友達になってから、お兄ちゃん、共通の趣味について語り合えて嬉しいって凄く喜んでいるんです。今日も、来て下さるのを楽しみにしていたんですよ」
「そ、そうか…」
 何となく照れ臭くなり、曖昧な返事を返している間に、二人は一室の前に来て閉められている襖へと向き直った。
「蓮二お兄ちゃん。真田先輩が…」
『ああ、入ってくれ』
 全てを言う前に向こうから兄の許可が下り、桜乃は言われるままにす、と襖を開いた。
 その部屋は完全な和室で、調度品もほぼテニス関連の物以外は和風で揃えられている。
 そして部屋の中央に準備された将棋盤の前に、桜乃の兄である蓮二が、いつもの様に普段着の和服を着てぴしりと背を伸ばして座っていた。
「よく来たな、弦一郎」
「すまんな、いつも付き合わせて…お前から見たら下手の横好きだろうが…」
「そんな事はない。正直、お前と棋し合うのは楽しいからな…テニスとはまた違った緊張感がある」
 どうやら今日、二人は一緒に将棋をする為に集ったらしい…確かに中学三年生にしては渋い趣味だ。
「桜乃、すまないがお茶を」
「はい、今すぐにお持ちしますね」
 兄の言葉を予想していたとばかりに、にこ、と笑った少女は素直に頷き、襖を静かに閉めて去っていった。
「相変わらず、奥ゆかしい妹君だな」
「あれでなかなかお転婆なところもあるのだが…兄の俺が言うのも何だが、素直で優しい自慢の妹だ」
「ふむ…」
 そこまできっぱりとのろけられると返す言葉もないのか、それとも気がついていないのか…
 真田は特に何も返す事無く、勧められるままに対面の座布団に腰を下ろしたが、不意に相手に顔を上げた。
「そう言えば、お前の家にはよく遊びに来るが…お前はいつも和服だが、彼女は洋服だな。やはり面倒なのだろうか?」
「いや、桜乃はそんな横着をする娘ではない。洋服は俺がそれを着るように言っているだけだ」
「お前が…?」
 和風の物を好む親友が、可愛い妹に洋服の方を勧めるとは…と驚く真田に、柳はふ、と何かを孕んだ不気味な笑みを浮かべた。
「…昔は桜乃も和服を着ていたのだがな…それを知った男の級友達が、その姿見たさに我が家を訪れ、やれメルアドやらデートやら異星人の言葉を喚くので、彼女については和服禁止令を出した」
「……成る程」
 その時の柳の怒りっぷりが目に浮かぶ様だな、と思いつつ、真田はそこでその話題を切った…が、何か所用を思い出したのか、柳がすく、と立ち上がった。
「すまないが少しばかり席を外す。すぐに戻る」
「ああ」
 そして彼がいなくなってから間もなく、入れ替わるように今度はその妹が二人のお茶を盆に乗せて入室してきた。
「失礼します、お茶を…」
「有難う」
 兄である柳がいたら多少話も弾むのだろうが、今まで女子と深く語らった事がない純情な若者は、何を話したらいいのか分からず、つい先程親友と話していた話題を振ってみた。
「あー…その…お前は、蓮二に言われて洋服を着ているそうだな」
「あ、はい…別に私はどちらでもいいんですけど、物珍しさに寄って来られたら色々と面倒だからってお兄ちゃんが」
 それはおそらく、物珍しさという理由ではない…
「…そうか、大切な妹君だからな…しかし、そこまで干渉されると恋人を作るのも一苦労だな」
「え…」
 言ってから、初めて真田は自分が下世話な事を言ってしまった事に気付いて、大いに慌てた。
「あ、い、いやその…っ」
 しまった! 何という事を言ってしまったのだ自分は!
 親友の妹君だからと言って、そんな話題を振るとは…どうしたというのだ、自分はっ!
 どう言葉を継げばいいのか分からない真田に、しかし桜乃は相手の狼狽になど気付かず、にこりと微笑んだ。
「いいえ? そんな事はありませんよ。蓮二お兄ちゃんはちゃんと私の意志も尊重してくれて、恋人も作っていいって…」
「え…?」
 そうなのか? あの妹至上主義の柳が、そんな事を言うとは…

 桜乃の入学式当日回想…
「蓮二お兄ちゃん、用事ってなぁに?」
 その日の夜、桜乃は兄の部屋に呼ばれ、正座をする彼の前に同じ様に座って相手の言葉に耳を傾けていた。
「うむ、お前もいよいよ今日から中学生となる。確実に大人への道を歩み始めたお前には、これからも節度と責任を弁えてもらえる事を期待している…ついては、今後は俺も、お前の私生活の細かい処までは口を挟まず、自立心に任せよう。望むのなら、恋人を作ることも良かろう」
「えっ、でもそんな…」
 まだ中学一年生になったばかりなのに、恋人だなんて…と頬を染める妹に、柳は一転、珍しくその双眸を開いて、低い声で笑いながら付け加えた。
「…俺が心から信じている自慢の妹が、一体どんな立派な彼氏を連れて来てくれるのか…今から非常に楽しみだ…」
「…………ハイ」

 そして現実に戻り…
「蓮二お兄ちゃんが期待していると思うと、なかなか恋人を作るのも難しくて…お兄ちゃんより凄い男の人なんてそうそういないでしょうし、考えている内にもういいやって思っちゃうんですよー」
(蓮二――――――――っ!!)
 それは謀略だな!? 謀略なんだなっ!?
 柳の真意をすぐに見抜いた真田は心の中で思わず叫んだが、それは心の中のみに留められた。
 あの策士、許可という形で見事に彼女を見えない防壁で包んだのか。
「お兄ちゃんがああ言ってくれましたけど…私にはやっぱりまだそういう話は早いみたいです」
「そっ……そうか…まぁ、巡る縁を待てば良かろう」
「そうですね」
 無邪気な笑顔でそう桜乃が頷いたところで、そこに柳が戻って来た。
「待たせた…ああ、桜乃」
「お兄ちゃん、お茶ですよ」
「有難う」
 先程までの会話の内容を聞かれずに済んだ事に、真田は心から安堵した。
「じゃあ、私は居間に戻ります。真田先輩、ごゆっくりとどうぞ」
「あ、ああ、有難う」
 そして、桜乃は兄の部屋から退室し、静かに襖を閉めた。
「……始めるか?」
「う、む…そうだな」
 柳の促しで、二人は本来の目的である将棋を、ゆっくりと静かに指し始めた。
(…しかし、先程のコト…あの娘に言うべきなのだろうか、いや、しかしそれは兄妹間の問題であって…)
 指し始めたものの、真田の心は桜乃の事で一杯になり、とても集中出来そうにない。
 結局、その日も真田が柳に勝つ事は一度も無かった……






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