騙す以前に


「あ、こんにちは、柳生さん」
「おや、こんにちは、竜崎さん。今日も見学ですか、熱心ですね」
 春休みの午前中、青学の竜崎桜乃は立海の男子テニスコートを訪れ、そこで出会った若者と挨拶を交わしていた。
 紳士という異名を持つ柳生比呂士…現在は中学を卒業し、高校に入学する日を待つ身である。
 本来はここにいる必要の無い立場であるが、かと言って家で漫然と時間を潰すのは主義ではなく、やはりテニスに関わっていたいという気持ちが強い為か、他の元レギュラーと同様に、ここに来ては後輩の指導を行っていた。
「柳生さんこそ、毎日お疲れ様です。正直、お休みはゴルフに行かれると思っていましたけど…」
「ええまぁ…それもいいのですが、やはり他のレギュラーが来ていると気になるものでしてね」
「気になる?」
「ゴルフはスコアは他人と競うものですが、競技そのものは自身との戦いです。対してテニスは明確な相手がいて、そこで技量を競う競技ですからね……まぁ、単純に言うと、ゴルフよりテニスの方が相手の上達が気になるものでして」
「成る程…確かに、皆さんは大事な仲間でもあるし、手強い宿敵でもありますものね」
「そういう事です」
 納得納得〜と何度も頷いていた桜乃が、あれ?と何かに気付いて柳生の顔を下から遠慮がちに覗き込んだ。
「あのう…私の気のせいならすみません。何だかお顔の色が優れないみたいですけど…」
「ああ…大丈夫。少々寝不足なだけですよ」
 相手の鋭い指摘に、微かに苦味の混じった笑みを浮かべながら彼は眼鏡に手をやった。
「寝不足?」
 普通の学生ならともかくとして、この人に限って自己管理を怠るようなことがあるのだろうか?
「…意外ですね」
「はは…中学校内での進級ならともかく、新しい環境に移る訳ですからね。やはり多少気持ちが興奮してしまって、参考書などを読んでいるとつい時間を忘れてしまって」
「ふわぁ・・」
 聞いてみたら、やはりこの人らしい…そこで参考書に手を伸ばす辺りが。
(でも、やっぱり眠れないのはいけないよね…気が張り詰めてるのかな…)
 それなら、少しでもリラックスした方が…何とか出来ないかなぁ…
「あ、あのう……柳生さん」
「はい?」
「…えーとですね…実は私、二年生になれるか危ないトコロだったんですよー、赤点取っちゃって」
 てへ、と笑ってそう言った少女に、柳生は一秒未満で視線を送り…
「ああ、そう言えば今日はエイプリルフールでしたね」
と、あっさりとそれが冗談であることを看破してしまう。
「……」
 本当は、向こうが『えっ!?』と驚いたところで、ウソだと言って和ませるつもりだったのに…
(…うう、早速失敗しちゃったよう…)
 しかしこれは柳生だから失敗したのではなく、そもそもこの子が赤点を取るなど、現実的にありえないのだ。
 もっとそれらしいウソをつくべきだと気付いていないらしい桜乃が、陰でぐっすんと悲しみ、そこにきてようやく柳生も相手の思惑をうっすらと感じ取った。
「あ、その……お気持ちだけ有難く受け取っておきますから、そう気を落とさず」
「気まで遣わせてしまってすみません……」
 こんなことなら最初から何もしない方がまだましだったかもしれない…
 しょぼーんと肩を落として、水でも飲みに行こうとしたのか部室の方へと向かった桜乃を、柳生はちらちらと気にしながら見送っていた。
 そのまま暫くしたらまた戻って来るだろうと思っていた彼の耳に…
『きゃあ!』
「!?」
 微かに聞こえた悲鳴は、先ほどまでここにいた子のものであり、柳生はそれと判断した時点で急いでそちらへと足を向けていた。
「竜崎さん…!?」
 そして、コートからは死角になっていた、植え込みが並んだ向こう側に出たところで、桜乃がぺたんとその場に足を崩した状態で蹲っているのを見つけた。
 一見してすぐに転んだらしいという事が分かり、柳生は大事ではないコトに安心したが、勿論相手を気遣う気持ちは変わらず彼は足を止めずにそのまま彼女に近づく。
 近づいたところで、柳生は桜乃の目にじわ、と涙が浮かんでいるのを見つけた。
 自分が転んだのであれば泣くなど有り得ない…が、か弱い女性であれば、打ち所が悪ければその痛覚に耐えかねることもあるだろう。
「! 竜崎さん、大丈夫ですか?」
「あ…っ、その、これは別に…!」
 涙を見られてしまった桜乃は、慌ててその場を誤魔化そうと言い訳を展開した。
「ええええと、その、玉ねぎ刻んでたら目に染みて〜〜!」
(ウチの校内の道端に玉ねぎが植えられているとはついぞ聞いたことがありませんが)
 そこは心の中のみで留め、紳士は苦笑しながらひょいと桜乃を前に軽々と抱き上げてしまった。
 見るとやはり膝を擦りむいてしまったらしく、痛々しい赤の色が滲んでいる。
「や、柳生さん!?」
「暴れないで、このまま部室に行きましょう。救急箱がありますから」
 軽い足取りで、確かに自分が男性であり鍛えられた身体を持つ事を証明した若者は、お姫様だっこをして桜乃を部室内に運び、そこの椅子に座らせた。
「…貴女は、人を騙す以前に、誤魔化すところから始めないといけないようですね」
「あうう…すみません」
 ごそ…と救急箱を所定の位置から取り出し、抱えた時に、柳生は背を向けたまま小さく付け加えた。
「けれど、そういう貴女だからこそ、私は…」
 私は、貴女が愛しくて仕方がないのです……
「はい?」
「いいえ、何でもありません。さぁ、治療をしましょう」
 その場を誤魔化し、柳生は相手の傷口を水で流した後、手早く消毒液を浸した綿球を押し当てて治療を行った。
「……」
 ふと桜乃の顔を見ると、相手は多少傷口が染みるのか、それをぐっと我慢している様子で目をきつく閉じている。
「…」
 そんな相手の姿に、柳生はふ、と微笑みながら治療を終えたところで立ち上がる。
「…?」
 その時、目を閉じていた桜乃の額に、ふっと何かが触れた。
 温かで柔らかな何かが、触れたかと思うと離れていく。
 何だったのかは、瞳を閉じていた所為で分からなかったが、微かに吐息を感じた様な…
「…え?」
「さぁ、終わりましたよ。これなら跡も残らないでしょう、良かったですね」
 戸惑う少女に対し、柳生はもうその時には物品を箱の中に戻し、背を向けてそれを所定の位置に戻すところだった。
「あのう…や、柳生さん?」
「ん? どうしました?」
「あの…今、額、に…」
「額? 転んだ時にそちらも打ちましたか?」
 もう一度救急箱が必要になるかと身体を向けた若者に、桜乃はすぐに前言撤回した。
「い、いえっ、何でもありません!」
「…そうですか、我慢して傷を隠したりしてはいけませんよ」
「はい…」
 そのまま、追求を諦めた様子の少女に、背を向けて改めて物品をしまっていた柳生は、陰で微かに微笑を浮かべていた。
(やはり、欺瞞を見抜く目の成長は望めそうにもありませんね…)
 尤も、そういう相手だと知っているからこその己の欺きだったのだが。
 しかし、紳士たるべきと常に己を律している自分であったのに、さっきの少女の姿にこんなにも心を揺らしてしまうとは…
(…エイプリルフールですからね…)
 今日一日だけに許されたささやかな嘘……どうか、この小さな秘密を胸に留めることを許して下さい。
 真実は自分しか知らない…そして誰にそれが知られることもない。
 だから、いつか貴女に、嘘偽りのない想いを告げるその日までは、どうか…






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