夢の続き


『桜乃…桜乃』
「ん…」
『桜乃…』
 誰…?
 私の名前を呼んでる…
 夢現の中、不思議な声に呼ばれて桜乃がゆっくりと瞳を開くと、己の視界のすぐ先に銀の彩が揺れていた。
 しょぼしょぼする瞳を擦ってもう一度見ると、ぼんやりとした視界の中で一人の若者がこちらを笑って見つめている。
「…!!! ゆっ、幸村さんっ!?」
 認識した瞬間、大声が出ていた。
 何てことだ、彼は…間違いない、立海大附属中学の三年、幸村精市だ。
 自分とは学校は異なるものの、テニスが縁になって知り合った不思議な人で、たまに向こうの学校に見学に行くといつも他のレギュラー同様に優しく迎えてくれる。
 その人が何で今、ここに…
「え…!?」
 がばっと辺りを見回してみると、間違いなく自分の部屋…のベッドの上。
 仰向けに眠っていたところを、いつの間にか現れた彼に両腕を手で押さえ込まれ、迫られている状況だった。
 向こうはパジャマ…ではなく立海の制服を着ていたものの、その前は随分とはだけた状態で、男にしては白い肌が、艶めかしい鎖骨と一緒に覗いている。
「えっ、ちょ…何で!? どうして幸村さんが私のベッドに…っ!?」
 あたふたと慌てていると、向こうはそれには答える事もなく、ずいっと顔をこちらに寄せてくる。
「ちょ…」
 微笑みながら向かってくる相手に何らかの『目的』を感じとり、更に一層桜乃の狼狽は激しさを増した。
「え!? あの、あの…っ…ま、まだ心の準備がっ…!!」
 そりゃ確かに、気になってた人だけど…っ
 こんな人の恋人になれたらいいなって、夢みたいなことを考えたりもしてたけど…
 でも、でも幸村さんっていつも優しく笑ってるけど、何を考えてるのか分からなくて…私の事もどう思っているのかなんて想像出来なくて…なのに、こんないきなり迫ってくるなんて!
 う、嬉しいけど…でも私、キスなんて初めてだし…!
 まさか、これって…キス以上のコトまで…っ!?
「ゆきむらさ…っ」

 ジリリリリリリリッ!!

「………」
 けたたましいベルの音で、その日桜乃は二度目の覚醒を経験した。
 但し、一回目と異なるのは、今回こそ現実に目覚めたということである。
「あ……夢…?」
 その強烈な夢のお陰か、今日の寝覚めはいつもより意識がはっきりしている気がする。
 そしてそのはっきりした意識で改めて考えてみると、先程の夢が現実ではありえないという事実がよく分かった。
 そもそも相手と自分とでは住んでいる地域が違う。
 しかもまだお互いに中学生で実家住まいという立場からも、互いの部屋に忍んで行ける訳もない。
 相手の気持ちも知りもしないのに、夢の中の自分は流されつつもその気になっていた…これは心の奥の希望や欲望の仕業かもしれないけど。
(…まだ六時…)
 いつもその時間にセットしている目覚まし時計を枕元から取り上げ、桜乃はちきちき、とそのアラーム用の針を少しだけ遅めに設定し、再びONの状態にすると、自分はごそごそと布団の中へと潜り込んだ。
「も、もうちょっといいよね……続き続き…」
 夢の中だけの出来事だけど、もう少し先に起こることを知りたい…と言うよりも…もう少しだけ彼に自分を見ていてほしい、そして、彼が自分にしようとしていた事を知りたい…
 乙女の望みを抱きつつ、少女は布団の中で早く夢の世界に戻ろうと瞳を閉じていた…



 そんな刺激的な朝を迎えた竜崎桜乃のその日は、特に何事かが学校で起こる訳もなく、ごくごく平凡な時間をいつも通りに過ごしていた。
「…はぁ」
 放課後、とある歩道を歩いていた桜乃が溜息をつく。
 思い出しているのはその日の授業の内容ではなく、あの朝の中途で終わった夢のことだ。
(結局見れなかったなぁ…夢の続き…見たかったなぁ…)
 今、歩いているのはいつもの帰り道ではなく、神奈川にある立海の校舎に向かう為の道。
 元々今日は、向こうの男子テニス部に見学に行く事を予め連絡し、許可を貰っていた日だったのである。
(久しぶりに会えるって思ってたから、あんなおかしな夢見ちゃったのかな…その所為で、今日はずーっと学校でもぼーっとした感じだったし…身体も何か熱いし…ば、ばれないよね、夢の中の話だもん、黙ってたら誰にも分からない筈なんだから…)
 そんな事を思いながらてくてくと歩道を歩いていたら、とんとん、と誰かに後ろから軽く肩を叩かれた。
「っ!」
 夢の事を思い出していた所為もあって一瞬どきりとしたが、すぐに気を取り直して振り返ると…
「やぁ、竜崎さん」
「!!!!」
 正に青天の霹靂。
 ついさっきまで考えていた相手、その本人が微笑みながらこちらを見つめていた。
 幸村精市。
 夢と同じ…いや、流石に前はきっちりと詰めた制服姿だ。
「ゆ…ゆゆゆ幸村さんっ!?」
「偶然だね……あれ? そんなに驚かせちゃった?」
 驚くにしてもちょっと過剰な反応だな…と訝る若者は、いつもの様に端正且つ美麗だ。
 顔だけでなく身体も非常に均整が取れており、流石にテニスで鍛えているだけのことはある。
 道行く女性達を例外なく振り返らせる程に見目麗しい若者を前にして、桜乃は、逆にぐりっと首を横に向け、視線も敢えて合わせようとはしなかった。
 いきなりの事で驚いたのは確かだが、夢の所為もあり、罪悪感と恥ずかしさで目を合わせられなかったのだ。
 いつまでもこうしている訳にもいかないだろうが、いつもの様に振舞うにはもう少しだけ時間が必要だ。
「す、すみません! 考え事をしてましたから、つい…」
「そうなんだ、ぼーっとしてると危ないよ、ここって車の往来が割と激しいから………随分不自然な姿勢だね?」
 早速、首があらぬ方向に向けられている事を指摘された桜乃は、しどろもどろになりながらも弁解する。
 やはり夢の影響か、いつもより頭が回らない。
「こ、れはちょっと…ね、寝てる間に違えちゃったみたいで」
「ああ、たまにあるよね。大丈夫?」
「はい…ゆっくり戻したら平気ですから」
 怪しまれない様に過剰な程にゆっくりと首の位置を元に戻しながらも、桜乃の内心は激しく揺れていた。
(うわ…昨日の夢の所為でまともに視線を合わせられないよぅ…! だって幸村さん、やっぱり凄く格好いいんだもん。見ているだけで熱が出てきそう…)
 このまま無言を守ればまた変に疑われてしまう、と、桜乃は必死に新たな話題を考えた。
 そう言えば…
「あの…幸村さんはどうしてここに? 何かご用事が?」
「うん、今日はちょっと午後は病院にね。特に問題なかったから、ビタミン剤だけ貰って戻ってきたんだ。部活もいつも通り参加出来るよ」
「そうですか、良かった…」
 本当に良かった…自分も何とかいつものペースを取り戻しつつあるみたい。
 このまま普段と同じ様に振舞えば…
「あ…」
 ほっと内心で安堵していた桜乃の前で、不意に何かに気付いたらしい幸村が声を上げると、ずい、と桜乃の方へ一歩を踏み出した。


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