真のお嬢様


 跡部邸のとある朝…
 氷帝の生徒会長にして男子テニス部部長である跡部景吾は、その日もいつもの様に起床し、実に優雅な朝の一時を過ごしていた。
 両親が日頃から多忙である為、普段は食堂を自分一人で貸しきっている状態だったのだが、最近、そこに一人の新参者が増えていた。
 それは…
「おはよー、景吾お兄ちゃん! あのね、お願いが…」

「景吾『お兄様』と呼べと何度言ったら分かるんだ、桜乃―――――――っ!!!」

「きゃ――――っ!!」
 食堂に入りながら朝の挨拶をした一人のおさげの少女に、跡部は優雅とは程遠い怒声を浴びせていた。
 そう、新たな家族であるこの跡部桜乃という少女。
 跡部と同様に、幼少時から真のお嬢様になるべく他国の施設に入れられ、教育を受けていた二歳下の妹である…のだが。
 何の運命の悪戯か、再び彼女が跡部にまみえた時、彼女の性根はすっかり庶民の娘だった。
 中学生になるこの年に帰国して、今は兄の跡部と同じ屋根の下に暮らしているのだが、まるで何処かの王族並みの生活レベルの為、彼女は完全に浮いた状態。
 とは言え、自分にとっては非常に可愛い妹である桜乃に、跡部は日々、立派なお嬢様にするべく彼女に心を砕いているのだ…まぁ彼なりに。
「い・い・加・減、少しは上流ってモンを学んだらどうなんだ? ああん?」
「あううう〜〜〜〜」
 むにむにと両頬を摘ままれてこね回されるお仕置きも、最早二人の間では恒例になりつつあり、食堂に控えていたメイド達もこっそりと笑っている。
 お仕置きを受けた桜乃は、赤くなった頬に手を当てながら跡部に改めて挨拶した。
「お、お早うございますぅ、景吾お兄様…あの…一つお願いが…」
「よしよし、それでこそ跡部家の令嬢だ…で、何の願いだ?」
 まぁ、金で解決出来る事なら法を遵守する範囲内では対応可能だ、と兄心を見せた跡部だったのだが…
「…折込チラシで、近くのスーパーのティッシュペーパーが、底値でお一人様一点限りだから一緒に…」
「お前、今日は学校以外は外出禁止」
「え――――――っ!!」
 即座に氷の帝王の顔になり、冷酷な裁断を下した。
 まぁ、自分もスーパーに並ばされると思えば、跡部の気持ちも分からなくはない。
「もったいないよう〜〜〜!」
「やかましい! 何が悲しくて、俺様がティッシュ抱えてスーパーのレジに並ばんといかんのだっ!」
 考えるだに恐ろしい光景ではある。
「じゃあ私だけでも…」
「俺様の妹にそんな真似はさせん! 代わりにメイドに並ばせるから諦めろ!」
「あうう…」
 びしっと断言され、桜乃は仕方なくしおしおしお…と引き下がった。
「桜乃お嬢様、朝食の準備を始めても宜しいですか?」
「あ…お願いします…有難うございます」
 席につかせてもらい、桜乃はメイドにぺこんと一礼。
 メイド達は主人に従い、命令を聞くのが仕事である。
 下の者が仕事をした事に対して主人が礼を言う必要はないのだが、桜乃は絶対に相手に対する感謝の気持ちを表すことを忘れない、止めようともしない。
「……」
 それについては跡部は特に言う事はなかったが、代わりに一つの用件を相手に述べた。
「ところで、桜乃。お前はどんな服が好みだ」
「はい? 服…ですか?」
「そうだ、お前が帰って来てまだ間もないが、一応体型に合わせた服は各種揃えている。しかし、やはり本人が好きな服を着るのが一番だろう。好みのものがあれば、デザイナーを呼んですぐに仕立てさせる。既に目を付けているものがあるのなら、取り寄せるぞ」
 跡部の言う事は真実である。
 桜乃が跡部邸に戻ってきてから、両親の留守を預かる彼は妹の為にあらゆる店から様々な衣装を買い揃え、彼女の部屋のクローゼットの中へ収納させたのだが、それで責任を果たしたと感じた訳ではなかった。
『あの子も妙齢の女性…自分の服を選ぶのも大きな楽しみだろう』
 流石に気の利く男である。
 そんな帝王の気遣いに対し妹である桜乃は喜ぶよりも寧ろ困った表情を浮かべていた。
「服…ううん…別に今困っている訳ではありませんから、取り立てて欲しいとは」
「だが、何かあるだろう。こちらで揃えたものばかりでお前が自分から着たいといったものがないというのも気になる。何でもいいから言ってみろ」
「そう、ですか…? それじゃあ、ちょっと気になる仕立てのものがあるんですけど」
 遠慮がちな桜乃の言葉に、跡部はすぐに頷き、控えていたメイドに目配せした。
「分かった、ではその物をメイドに伝えろ。既製品でもオーダーメイドでも遠慮するな」
「は、はい」
 それから、妹はメイドにこれこれこういう服を…と何やら色やスタイルについての希望を出した。
「ええと、色は黒で…袖はぴっちりとした…頭には白の…」
 それをマメに記録し、全て聞き取り終わったメイドは早速退室していった。
 話を少し聞きかじっていた跡部は、オーダーメイドと判断して頷く。
 別に既製品を馬鹿にする訳ではないが、やはりこの家の娘ともなれば、そのぐらいの贅沢も覚えてもらわなければ…
「よし、出来る限り早く揃えさせるからな。楽しみにしていろ」
「はい! 有難うございます、お兄ち…お兄様」
 それから二人は暫く朝食を楽しんでいたが、そろそろ登校の時間となり、跡部が先に立ち上がった。
「桜乃、俺は朝練があるから先に行くぞ。お前は後で…」
「い、いいえ! 私もお兄様と一緒に行きます!」
 テニス部の活動の為に普段から早めの登校をしている兄に対し、桜乃も一緒に立ち上がる。
「? いいのか? まだゆっくり出来る時間もあるが…」
「でもいいです。あの、私も一緒に…いけませんか?」
「!」
 きゅ〜ん、と共に登校する事を希う可愛い妹の仕草に、図らずも帝王の心が激しく揺さぶられてしまう。
「し、仕方ねぇな。まぁお前がそう言うなら一緒に行くか」
「はい!」
 兄の許しを受けた桜乃は、とても嬉しそうに笑った。
(きゃ〜〜! お兄ちゃんと一緒に登校出来るなんて…二人一緒に行けばガソリン代も浮くし一石二鳥〜〜〜!!)
 妹の心の中の全てを知らずに済んだのは、跡部にとっても幸せだったのかもしれないが。
「あ、あまりヘラヘラするな、じゃあ準備をしたら下に降りろよ」
「はぁい」
 跡部の退室から少し遅れて桜乃もかたんと椅子から離れつつ…控えていたメイドにこそりと言った。
「あのう…余ったの、包んで下さいます?」
「自宅の朝食でテイクアウトは止めとけ」
 無論、それを耳聡く聞きつけた帝王が、許すわけもなかった……


 氷帝学園
『きゃ、見て、跡部様よ!』
『相変わらず素敵〜〜』
『ちょ、誰か隣にいるじゃない! 一緒に登校!?』
『あ、跡部様の妹君ですって、最近日本にお帰りになったって…』
 学園の敷地内に入り、徐行速度で移動する車内で、跡部と桜乃は他の登校中の生徒達から一斉に注目を受けていた。
 当初、桜乃は氷帝ではなく、兄とは別の学校に入学する案もあったのだが、それは跡部の大反対に遭い、あえなく頓挫への道を歩むことになった。
 色々とあった桜乃の人生であるが、教育だけはしっかりとしていた場所だったらしく、入園に際しての学力は全く問題なく、『流石、あの跡部景吾の妹君』と評された程。
 それが幸いしてか、彼女の普段の庶民思考は現時点では殆どの生徒には知られていない…そう、殆どの生徒には。
「いつ見ても立派ねぇ…流石、景吾お兄様の通う学校」
「お前も通う場所なんだがな」
 相変わらず呑気な妹に軽く溜息をつき、跡部は正面玄関に到着した車が静止したところで外に出ると、彼女をさり気なくエスコートする。
 これもまた、上流の男性の嗜みである。
「そら、着いたぜ」
「有難うございます。お兄様」
 その流れるような二人の動きは、確かに何処かの貴族を思わせる様な優雅さで、遠目で彼らを見ていた女生徒達を夢中にさせた。
 それからも、跡部は何かを桜乃に親しげに話し掛けながら、手を彼女の頬に添えている。
「まぁ、跡部様が妹君にあんなに優しそうに…!」
「やっぱりご家族は大事になさっているのね」
「冷たそうに見えて、あのさりげない優しさが堪らないわ〜〜」
 そんな女生徒達は、知るまいし、思いつきもしまい。
 あの二人が本当はどんな話をしていたかなど…
「い・い・な? 俺様がいない場所でも絶対に貧乏臭い真似はするんじゃねぇぞ? 三秒ルールなんてやりやがったら今日の夕食は抜きだからな!」
「ひゃ、ひゃい〜〜(はい〜〜)」
 ほっぺたをむにむにと抓られ念押しされながら、桜乃はあうあうと必死に何度も頷き、ようやく解放されたのだった。
 校舎内に消える桜乃の後姿を見つめながら、跡部は帝王らしからぬ深い溜息を一つつく。
「流石に同じ学校でも授業中までついてる訳にもいかねぇからな…ったく、気立てがいい分叱る方も難儀するぜ…」
 褒めているのかけなしているのかよく分からない評価である…まぁ複雑な兄心というやつだろう。
 そんな跡部を、女生徒達の向こうから同じく見守っている一つの集団があった。
「あ、跡部だー」
「妹君と登校の様ですね」
「ZZZ……」
 氷帝の男子テニス部レギュラーの面々だ。
 彼らもまた跡部同様、朝練参加の為に登校の途中であったのだが、そこで丁度彼と妹の桜乃のやり取りを遠巻きに見ていたのだ。
 向日と日吉が桜乃の姿を見ている一方で、その日吉に抱えられている芥川が相変わらず寝こけている。
「相変わらず、桜乃さんには甘いんですね、跡部さんも」
「まぁ十年近く生き別れていた妹だって言うからな…それも無理ねぇだろ」
 鳳が微笑ましく尊敬している部長についてそう評すると、隣の宍戸が自分が聞いていた桜乃についての情報を思い出しながら頷いた。
 そして、更にその隣にいた忍足は…何故か不気味なまでの沈黙を守りつつ、視線を横に逸らしたままだった。
「ん? どした? 侑士」
「い、いやぁ? 別に…何でもない」
「?」
 向日の奇異の視線を受けながら、忍足はあの運命の日を思い出していた…


 遡ること一月ほど…
「なぁ忍足、時間があるならちょっとウチに寄っていかねぇか? コートを改装したんで具合を確かめたいんだ、付き合ってくれ」
「ああ、工事終わったんか、ええよ。暇やし」
 部活が終わり、帰宅の途中で跡部からそんな誘いを受けた忍足は、特に何も考えずに頷いた。
「そうか、車で行くか?」
「んー…いや、歩きがええな。ようやくええ風が吹くようになったんやし」
「そうか、なら帰りの車は断っておく」
 跡部邸は非常に多くの設備を備えている豪邸であり、無論、跡部が嗜むテニス関連のものも非常に充実している。
 彼の特にお気に入りの施設であったテニスコートの出来は中でも秀逸で、プロ選手でもなかなかお目にかかれない程に豪華なのだ。
 その改装が終了したと聞き、忍足もまた、そういう場所での試合を楽しみにして、放課後に跡部と一緒に邸へと向かった。
「しかし俺だけで良かったんか? 他の奴らも呼んだらよかったのに」
「一応聞いたんだが、皆何かと用事があるそうでな」
 そんな雑談を交わしている内に、跡部が自身のスケジュール帳を取り出して明日の予定などを確認していると、不意にその唇が僅かに歪められた。
「? 何や? 何か面白いことでもあるんか?」
「いや…」
 スケジュール帳をしまい込みながら、跡部は忍足も初耳の事実を明かす。
「もうすぐ、俺様の妹が帰って来るんだ」
「!!??」
 びたっ!!
 それまで一緒に歩いていた忍足の脚が途端に止まり、ついでに全身も固まった。
「……」
「……」
 暫し二人ともが沈黙し…先に沈黙を破ったのは跡部だった。
「そんなに驚くことか?」
「驚くトコやろ!! 何や妹って!? お前、ひとりっ子やなかったんか!?」
 興奮して叫ぶ親友に、跡部はけろっとした顔で答えた。
「まぁ表向きはそう言ってあったんだが、家の方針でな。下手に情報開示するとどんな犯罪者に狙われるかも分からないということで、アイツが相応の年齢になるまでは存在を伏せておいて、生活も完全に外国で行わせる様にしていたんだ」
「ああ……跡部財閥のご令嬢やもんなぁ」
 まだ驚きはあったものの、跡部の説明で忍足はある程度は納得出来た。
 この跡部景吾という若者は財閥の御曹司…それはもう見事に現代版の王子様なのだ。
 その妹君となると、これまた財閥の令嬢…所謂お姫様である。
 こういう上流階級の子供は、誘拐犯などの悪人に目をつけられる可能性も非常に高いので、欧州などでは家から出さずに家庭教師を付けて教育を受けさせるという徹底した環境に置かれる事も少なくないのだという。
 流石にそうなると子供の社会性の確立が困難になるという理由で、跡部家でもそこまでは行っていないらしい。



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