お笑い旅団VS帝王軍団


 その日、跡部景吾の妹である桜乃は、朝から忙しなく自宅である跡部邸で動き回っていた。
「でーきたっ!」
 そんな上機嫌な声が聞こえてきたのは、厨房の一角から。
 自分同様に動き回る数多くの名シェフ達の邪魔にならないように、彼らから少し離れたところで、桜乃は自身で仕上げた幾品かの料理を大皿に移し終わったところで歓声を上げていた。
「素晴らしいお手並みでございます、桜乃お嬢様」
「えへへ〜」
 傍で彼女が怪我をしないようにと付き従っていた執事が、満面の笑みでそう彼女を労う。
 これはお世辞ではない。
 最初から桜乃が料理に取り組む姿を彼はじっと見ていたが、確かにそう評せる程に、桜乃の料理の行程は非常に手早く、リズミカルなものだった。
 材料の質が落ちる前に手早く下ごしらえを済ませ、間を空けずに調理に取り掛かり、その合間を縫って、使った道具は洗って元の場所へと片付けてゆく。
 言うは容易いことだが、余程手馴れていないと、この様な芸当は到底不可能である。
 いや、それだけではなく、実はこの少女は料理だけではなく、一般的な家事については全てに於いて得意としていた。
 桜乃は世間一般の常識で言えば財閥の令嬢…所謂、お嬢様である。
 では、どうして財閥の令嬢がこれほどまでに家事に秀でているのか。
 勿論、女子の嗜みとしてある程度の家事を学ぶコトも世の令嬢ではよくある事だが、それはやはり嗜み程度。
 彼女達にとって更に重要なのは、お花や乗馬、ダンスなどのより高貴な芸を高めることであり、一般的な家事よりはそちらの方に重きを置かれるのだ。
 加えて、跡部家レベルの世界的な大富豪の令嬢ともなれば、手が荒れる水仕事をさせるなどもってのほかなのだろうが、実はそれには理由がある。
 氷帝学園の生徒会長にしてテニス部部長である跡部景吾を兄に持つ彼女は、中学生になる時点で他国の修道院から再びこの国に呼び戻され、兄と数多くのメイド、執事達と共に暮らし始めている。
 実はその他国の修道院は、本来桜乃が通う予定の場所ではなかったのだ。
 元々は、兄である跡部景吾と同等にハイレベルな家柄の子が集う、男子禁制の学び舎に入る筈だったのだが、何がどうしたのかささやかな手違いで、桜乃は何も知らされないままにごく普通の修道院に入院させられてしまった。
 この修道院が掲げていたのが『質素倹約』。
 修道院とは言え独身を貫かなければならないといった規約は特になく、入った娘達には良き妻、良き母になる為の教育がきっちり、みっちりと施されていた。
 言ってしまうと、『セレブ? 何それ』を地でいく、慎ましくも清らかな世界。
 まごう事無きセレブの卵であった筈の桜乃も、修道院に入院した時には僅か四歳。
 自分がお金持ちの娘であることを認識する前にそんな世界に一人放り込まれてしまったのだ。
 それから桜乃はその場所で十年近くも、セレブではなく、ただの女性としての躾を受けて育っていった。
 二歳年上の兄がイギリスで帝王学を学んでいた一方、妹は雑巾の縫い方から教わっていたのである。
 憐れと言えばそうかもしれない。
 彼女がそんな数奇な人生を送っていると周囲が知ったのがほんの数ヶ月前。
 いよいよ中学校に進学させるに当たり、見事な淑女に成長したであろう彼女を日本に呼び戻し、社交界にデビューさせようと両親が思っていた矢先に、娘の本当の居場所が判明したのである。
 元々予定していた預け先が、親であっても部外者との面接を禁じる程に徹底していた管理体制であった事も、気付くのが遅れる一要因となってしまった。
 もし面会などが許される場所であれば、もう少し、もっと早く事実を知る事が出来ただろうが、気付いたところでもう遅かった。
 大慌てで呼び戻した跡部家の令嬢は、セレブどころか立派な庶民としての精神を叩き込まれていたのである。
 せめてもの救いは、躾についてはきっちりと施されていたことと、本人の性格が至って温和であったこともあって、金銭感覚は完全な庶民ではあったものの、特にひねくれることもなく真っ直ぐな子に育ってくれていたことだろう。
 そんな彼女の境遇を知り、両親以上に驚いたのが、実は兄である跡部景吾だった。
 予定より早く帰国した妹との久し振りの再会を喜んだのも束の間、てっきり自分と同レベルの学び舎で何不自由なく育っていると思っていた可愛い妹が、そんな不幸な身の上にあったと知り、彼はかつてない程に激怒した。
 普段から家族に対しては敬愛の念を忘れていない彼が、両親を怒りに任せて呼びつけるといった行動を取ったのは後にも先にもこれが最初で最後となるだろう。
 しかし、どんなに怒ったところで時計の針を戻す事は叶わない。
 怒りが治まった後、跡部は一つの誓いを胸に刻んだのだった。
『これからは、俺様が直々に桜乃を最高の淑女(レディー)として教育し直す! これまでコイツが背負ってきた苦労の分、俺様がコイツを幸せにしてやるんだ!!』
 元々引き離される前から、跡部は自分と血を分けたこの妹の事を誰よりも大事にしていた。
 ずっと一緒に一つ屋根の下で暮らすのだと思っていたのに、幼少時に引き離された時には、六歳にしてグレる危機を迎えた事がある程だ。
 それから約十年近く、彼は妹と再会出来る日をひたすらに心待ちにしていたのだったが、そういう不幸が妹の身の上に降りかかった事を知り、彼女の帰国後は更に溺愛振りに拍車が掛かってしまっていた。
 桜乃は桜乃で、小さい時から自分にだけは優しかった兄には非常に懐いており、修道院に入れられた時にも『いつかまたお兄ちゃんに会える!』と心の拠り所にしてきたのだ。
 帰国後もそれは全く変わっていない…と言うよりも、彼ら兄妹の両親は共に多忙の身を極めており、邸どころかこの日本に戻って来る機会もそうそう持てずにいる為、桜乃の最も身近で頼りになる身内は跡部景吾しかおらず、自然と兄との接触は増えるばかりなのであった。
 しかし、そんな仲良しの兄は、今日は朝から邸にはいない。
 どうやら少し遠方へ、羽を伸ばしがてらの練習試合に行っているらしいのだ。
 自分も都合がついていたら是非同行したかったのだが、生憎その前からクラスの女子の友人達と会う約束をしていた為、やむなく見送ったのである。
 その友人達とも無事に楽しい一時を過ごし終わった桜乃は、もうすぐ帰って来る兄と彼と同じテニス部レギュラー達の為に、自分の手料理も何品か準備しておこうと張り切っていたのだった。
「景吾お兄様、まだかなぁ…」
「そうですな、専用のリムジンバスからの連絡では、もうそろそろお着きになるでしょう」
 待ちかねている桜乃の言葉に、執事が優しく返していた丁度そこに、厨房に設置されていたインターホンからメイドらしき女性の声が聞こえてきた。
『景吾坊ちゃまが、ご学友の方々とお戻りになりました』
 何故、厨房にまでインターホンが設置されているのかと言うと、家人が戻って来てから食卓に就くまでの時間を見計らい、最高のタイミングで食事を提供することが出来る様にする為である。
 一気にシェフ達の動きが慌しくなった傍ら、桜乃は兄達の帰宅を事実を聞かされてすぐに玄関へと向かった。
 広くて覚えるのに難儀していた家の中の間取り図も、もう殆どは頭の中に入っている。
 迷うこともなく少女はぱたぱたと玄関へと走り寄って、兄が向こうにいるであろう扉を喜び勇んで開いた。
「お帰りなさい、景吾お兄様、皆様…!」
 きっとその向こうには、いつもと変わらない悠然とした兄と友人達がいるのだろうと信じて疑わなかった桜乃だったのだが…

『……………』

「…え?」
 今日、この時ばかりは、予想は桜乃を大きく裏切っていた。
 確かに自分の目の前に立っているのは、リムジンから降りて玄関に到着した跡部たち氷帝レギュラーの面々である。
 特に人員の変更も無く、いつもの面子だ。
 しかし、普段の彼らとは余りにも…余りにも印象が違いすぎる!
「お、お兄様がた…?」
 再び呼びかける桜乃の声が困惑に満ちていても仕方がない…実際彼女自身、大いに困惑していたからだ。
 目の前の跡部を始めとするレギュラーの面々が…痛々しいほどの疲労のオーラに包まれていた。
 いつもバイタリティーに溢れている若者達が、今はぐったりとした表情のまま、立っているのもやっとという感じ。
 他レギュラーだけなら、それでもまぁここまで動揺はせずに済んだだろう。
 しかし自分の兄である跡部すら、『ただいま』の挨拶も言えない程に疲労し、目にもいつもの輝きがない。
 少なくとも彼のこんな姿を見るのは初めてだった桜乃は、思わず頭の中で今日の練習場所までの距離を考えてしまった。
(い、移動による疲れ…じゃないよね、やっぱり……あれ? 場所って海外だったっけ…?)
 まさかそんな…と思って、桜乃は改めて彼らの先頭に立っていた跡部に呼びかけた。
「景吾お兄様、どうなさいました? 何だか、とてもお疲れの様に見えますけど…皆様も」
「桜乃…ああ、いや、何でもない」
 疲労の所為で、目の前に妹がいる事にも気がつかなかったらしい跡部は、ようやく彼女に焦点を合わせた瞳を向けると、ぽん、と彼女の頭を軽く叩きながら『ただいま』と挨拶する。
 第三者には決して口にしない挨拶だ。
 それからタイミングは遅れたものの、いつもの様に他のメンバー達と一緒に玄関を抜けていく兄に、桜乃はどうしてそんなに疲れているのか疑問に思って尋ねてみた。
「何だかお顔の色が悪いです。もしかして今日の練習試合、上手くいかなかったの?」
「ハッ、バカを言え。相手が誰だろうと俺様達が遅れを取るわけねぇだろうが」
 良かった、何となくいつもの調子に戻ってきたみたい…それに試合にも無事に勝ったらしいけど…でも…
「…………」
 ちら、と跡部の背後に続くレギュラー達を見遣ると、やはりいつもより首の角度が十五度ぐらい下向いている気がする…
 それに、元気にはしゃぐこともなく無言で入ってくるメンバーの姿は、いつもの彼らのそれとは余りにも程遠い。
 やはり、何かがあったのは間違いないだろう…
「……今日の試合は、何処の学校の方々とでしたっけ?」
「ん? 四天宝寺や…関西のな、一応強豪校ってなっとるけど」
 桜乃の呟きに答えたのは兄ではなく、レギュラーの中でも最も跡部と実力が近いと言われている忍足侑士。
 桜乃の隠された過去の経歴を知る数少ない部外者でもある。
 相手に答えてもらったところで、桜乃はん?と軽い違和感に気付き、すぐにそれが何であるかにも気がついた。
「忍足様は、いつもと同じみたいですね。よく分かりませんけど、大丈夫だったんですか?」
「んー、まあな…アレは慣れとらんと、カルチャーショックがキツイんや…跡部らみたいに、真面目な奴らは特になぁ」
「え?」
 そんな二人の会話が聞こえたのか、ふと、跡部の小さな呟きが聞こえた。
「………恐ろしい」
「え!?」
 桜乃が思わず耳を疑う。
 「恐ろしい」!?
 いつも『自分最強』な兄である跡部がそんな気弱な台詞を口にするとは…本当に、何があったというのか…!!
 どう尋ねようと悩んでいる間に、彼は続けてこうも言った。
「…………人間は、あそこまでバカになれるのか…」
「ほえ?」
 何となく、「恐ろしい」の意味合いが違う様な気がする…
 兄の言葉を聞いてもちんぷんかんぷんな桜乃は、どうやら仔細を知っていると思われる忍足に改めて質問した。
「ええと…結局、試合で何があったんですか? 皆様がお疲れになっている原因は、それなんでしょう?」
 そんな少女に、忍足はにっこりと笑って返事を返した…あくまでも柔らかで優しい笑顔のままで。
「ん、確かにそうなんやけどな、お嬢ちゃんが知る必要はないで?」
 しかし続きの言葉を継げた時、忍足の柔らかな笑顔の影で、暗く淀んだ何かが見えたのを桜乃は敏感に感じ取っていた。
「それに、身内の恥をお見せするワケにはいかんからなぁ…」
(何があったの〜〜〜〜〜っ!?)


 結局、桜乃は玄関で彼らの疲労の理由の詳細を知る事は出来ないままに、彼らを食堂へと案内し、そのまま夕食へとなだれこんでいた。
 いつも食事の時間帯に試合から帰宅する時には、メンバーに希望の食事をふるまってやるのが跡部の習慣となっているのだ。
 それは家であったりファミレスであったり豪華な専門料理店であったりと、場所は多岐に渡るが、桜乃が帰国してからは何となく跡部邸に集まる機会が多くなっている様な気がする…勿論、氷の帝王様のご意向で。
 しかし跡部以外のレギュラー達も、桜乃の事はよく可愛がっており仲良くしているので、それについては別に文句はないらしい。
「いや〜、相変わらずんーまいな、跡部ン家の食事って!」
「当たり前だろうが、一流のシェフに作らせている品々だ。俺様を満足させるモノが美味くないはずねぇだろう」
「確かに、それに材料もかなり新鮮でないとここまでの味は出ないでしょうね、ねぇ宍戸さん」
「俺にそういう話題は振るなって長太郎。俺は庶民だから、いつもこんないいモノ食ってるワケじゃないぞ」
 人間は食事を摂らないと生きていけない生き物である、当然だが。
 故に食事とは人間にとって非常に重要で尊いアイテムでもあり、その偉大さは、今日のこの食卓上でも明らかなものとなっていた。
 ぐったりとしていた氷帝のメンバー達が、食事を始めて徐々に体力を回復していくと共に、何故か傷ついていたらしい精神も修復を始めたのである。
 どうなることかと心配していた桜乃も、会話が弾んできた彼らの様子を眺めていて、ほっと息をついた。
(良かった、皆様、元に戻られたみたい…けど、本当に何があったのかしら…)
 そんな疑問を再び胸に抱えていたところで、桜乃にさり気なく近づいてきた執事が、こっそりと桜乃に囁いた。
 流石に長年執事を務めているだけあり、立ち居振る舞いは実に自然で、他人が見ても桜乃のリクエストに耳を傾けている様にしか見えない。
『宜しいのですか? 桜乃お嬢様…折角お作りになったお料理は…』
『うん…あんなに疲れている皆様に、気を遣わせたくないもの。それに、私より専門のシェフの方々が作った方がより美味しいに決まっているし…今は出さないで、保存しておきましょう』
 本当は全員に振舞う筈の桜乃の手作り料理だったのだが、彼らの帰宅時の様子を受けて、彼女はそれらについては一切内緒にしておこうと決めたのだった。
 もし自分がそれを告知し、振舞えば、彼らは食べてくれると思う…多分、残すことなく食べて『美味しかった』と言ってくれるだろう。
 勿論、自分にとっても自信作だったし、不味い物を出すつもりもなかった。
 しかし、疲労が著しい時に無茶食いなどさせたくないし、余計な気を遣わせて更に疲れさせるというのは、ホストとして行うべきではない、いや、行ってはならない。
 育ちは庶民ではあるが、そういう心配りは出来る娘は、褒めてもらえることよりも彼らの身体の健康を優先的に考えたのだった。
『…左様でございますか』
 桜乃の思惑を察しているのか、執事もそれ以上言う事もなく、微笑んだままに引き下がる。
『後で有効利用の方法を考えましょう。皆さんにお弁当にしてお渡しするのもいいかも…』
 そう言いかけたところで、執事と語らっている妹に目を留めた跡部が彼女に声を掛けた。
「桜乃、どうした?」
「あ! い、いいえ、景吾お兄様…ちょっと、欲しいジュースがあるか聞きたくて…」
「ジュース? ウチにないとは、そんなに珍しい銘柄の物か?」
「ええと、南国系のフルーツをブレンドしたものなんですけど…お願いしていたんですけど届いているか分からなくて」
 正直に言ってしまえば、嘘である。
 桜乃はそんな物珍しいモノは例え知ったとしても、取り寄せようなどという考えは頭に浮かばない…そう、過去からの贅沢を禁じられていた教育の所為で。
 しかし、このままでは執事との会話の中身を疑われてしまうと思い、桜乃は咄嗟にそう誤魔化したのだ。
 だがこのまま会話を続けては、いずれぼろが出る事も予想出来る。
 元々自分は嘘をつくのが苦手であり…『眼力』を持つ兄に、それがばれない筈もないのだから。
「ふぅん…そんな物が」
「あ、私、ちょっとセラー(保管庫)に行って来ます」
 跡部が興味を更に示す前に、先手を打つ形で桜乃が立ち上がった。
 セラーに行って適当に時間を潰し、まだ来ていなかったと言えば、この場は誤魔化せるだろう。
 後になってジュースについて問われたら、もう飲んだとか、品切れだったとでも言ったら全ては丸く収まる…と思う。
「こら、桜乃、食事中に無闇に席を立つものじゃ…」
「すぐに戻りますから!」
 予想通りの兄のたしなめだったが、桜乃は断りながら食堂を後にし、無事に一時避難に成功した。



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