「あーどきどきしたぁ…さて、ちょっとセラーまでお散歩〜」
てこてこと妹がセラーへと向かっている一方で、食堂に残った兄は、中座した妹に少し憮然とした様子だった。
「全くアイツは…相変わらず落ち着きのねぇ奴だ」
「そうかぁ? いい子じゃん、自分の事は自分でやるって感じでさ」
向日は寧ろ、執事やメイドに不要の手間をかけさせまいとする桜乃には好意的な意見を述べた。
そして、続けて日吉もそれに賛同する台詞を口にする。
「こう言っては何ですが、普通のセレブとは違う意味での育ちの良さを感じますね…そこらの高貴な家柄の女子より遥かに親しみ易さを感じると言うか……セレブっぽくない」
ぎく…っ
「……」
「……」
跡部と忍足が、一瞬、何とも言えない表情になる…が、それはすぐに仮面の下に隠された。
まさか、彼女がこれまで間違った施設で育てられていました、と暴露する訳にもいかない。
「ま、まぁな…俺様と血を分けた妹だ。そこいらのフツーのセレブと比べてもらっても困る」
「セレブって時点でフツーじゃねーよ。けどそうだなぁ、庶民の俺でもあの子とはやたら気が合うし…何つーか、スーパーの特売品とかの話題とかも気安く話せそうな感じがするぜ」
ぎくぎく…っ!
宍戸の何気ない一言に、再び跡部と忍足の顔色が変わる。
「…宍戸、お前、間違っても桜乃にそんな話題振るんじゃねえぞ」
「へ…っ?」
「桜乃ちゃんは深窓のご令嬢やで? 幾らフレンドリーにしてくれる言うたかて、あんま余計な知識入れたら、後で跡部が恐いからなぁ」
「俺様の妹には一流のものしか教えたくないんだ…スポーツでも食い物でもな」
忍足が補足し、跡部が殺気さえ漂わせながら相手にそう念押ししたのは、周囲からしたらそういう下々の話題を妹に聞かせるな、という意味合いのものに見えたに違いない。
しかし、真実は違う!
(そんな話題振ったら、間違いなくピラニア並に食いついてくるに決まってんだろうがっ!!)
特売品は庶民の味方!
自分もよく知らない世界だが、骨の髄まで倹約生活を叩き込まれている桜乃にそういう話題を振ったが最後、アイツは一も二もなく飛びついてくるだろう…そしてそこから全てがばれる。
ばれることで跡部家のイメージがダウンすることなど跡部は毛頭考えていないし、そういう事は正直どうでもいいと思っている。
それでも彼が秘密保持にこだわるのは、何とか桜乃を一流の淑女としてデビューさせてやりたいからであり、その為に彼は日頃から心を砕いているのだ…良いお兄ちゃんである。
「そーだよ宍戸〜、あんまり貧乏性な事言ってると、桜乃ちゃんに軽蔑されるぞ〜?」
「たっ、例えだって例え! そんな事話しても、ノッてくるワケないのは分かってるって!」
(いーや、ノリノリだと思う!!)
芥川のナイスな突っ込みもあり、何とかその場は上手くまとめることが出来、跡部と忍足は心の中で本音を述べつつ、こっそりと息をついていた。
それから暫くその場は、レギュラー達による桜乃の印象座談会と化していたのだが…
ふと、帝王が気付いた。
彼女が去ってから、結構な時間が経過している事に…しかし、戻る様子がない。
「?…アイツ遅いな…一体何してやがん…」
全ての台詞が終える前に、聞き覚えのある女性の、涙が滲んだ悲鳴が聞こえてきた。
『いや――――――――――っ!! 景吾お兄様助けて、襲われる〜〜〜〜〜〜〜ッ!!』
ガタンッ!!
瞬間、立ち上がったのは跡部だけではなかった。
その数分前…
桜乃はセラーに軽く足を運んだ後、適当に回って再び食堂に戻ろうとしていた。
そんな彼女の耳に…
『リンゴーン…』
(あら? チャイム…)
まだ夜は遅くないけど、誰かしら…?
(景吾お兄様、別にお客様が来るってお話はしていなかったし…もし所用があったら、レギュラーの方々にも連絡している筈よね?)
幸い、玄関はここからすぐだ。
折角ここにいるのだし自分も出迎えよう…と桜乃はぱたぱたと食堂に向かう前に玄関へと立ち寄った。
やはり自分が邸の中で一番玄関に近い場所にいたらしい。
まだ執事もメイドも客人を迎えた様子はなく、扉がしっかりと閉ざされている。
「はぁい、どなた様ですか?」
お客様には常に笑顔で明るい声でご挨拶…人としての嗜みである。
しかし扉を開けた桜乃の視界に見えたのは、誰も居ない広い玄関口から庭にかけての風景だった。
(…あれ?)
おかしいな…空耳だったのかしら…?
でも確かにチャイムの音が聞こえたのに…と不思議に思っていると…
がし…っ
「っ!!」
自身の左足に異常な感覚を覚えた桜乃が、ぞわっと全身の産毛を逆立てる。
それは経験というよりも寧ろ、生理的恐怖…嫌悪感によるものだった。
生温かな柔らかな物体が、自分の足を包むように触れている。
「え…っ」
何、これ…
硬直しかけた意識を必死に奮い立たせて、桜乃はゆっくりと下へと顔を向ける。
そして、ただ前を見ているだけでは見えなかった新たな視界が現れた。
誰かが、倒れていた。
自宅の玄関先で。
男だ…うつ伏せていたが、体格と髪型から分かる。
そして彼の伸ばした手が、しっかりと自分の左足首を掴んでいた。
さっきの異様な感覚は…これだったのだ。
「え、え…っ!?」
何、これ…!?
どうしてウチの前に人が…!?
パニックに陥りながらも、桜乃は考えられる最悪のケースを思い浮かべた。
(も、もしかして、何かの犯罪に巻き込まれたとか!? 必死にここまで辿り着いて、助けを求めたり…)
そういう場合は、先ずは救助をしなければ!
彼女は取り敢えず感じた悪寒を必死に押さえ込んで、前に倒れている男性を助けるべく行動しようとしたのだ…が…
「あ…」
ふと、思い出した。
ここは普通の家ではない…跡部邸なのだ。
簡単に一般道から玄関口に来る事は出来ず、辿り着くまでには長い私有地の通路を歩くなりしてこなければいけない。
そんな場所までわざわざ、助けを求める人が来るだろうか…?
「……」
もしかしてこの人…巷で耳にする『危険な人種』…?
疑念が桜乃の動きを封じている間に、今まで倒れているだけだった男が初めてぴくんと肩を揺らした。
そして、桜乃の見ている前でゆっくり顔が上げられていく…と、桜乃の顔色は正比例する様に青ざめていった。
何故かというと、今日のこの日、桜乃は膝下まである長めの丈のワンピースを纏っていた。
男の顔は、その自分のほぼ真下…足元にある。
つまり、彼がある一定の角度まで首を曲げて上を見上げてしまうと…見えてしまうのだ。
「いっ…」
救助を必要としている人かもしれない、という気持ちが完全に消えてしまったワケではない。
しかし、自分が嫁入前の女子だという事実を忘れた訳でもない。
ぐちゃぐちゃになっていく頭の中で、桜乃は何とか自分を制御しようと必死になっていたのだが、遂に、もうあと数センチで見られてしまうというところで、彼女の思考回路は乙女としての自分を守る事を選択したのだった。
倒れている男性が変質者である、という証拠はなかったが、兎に角桜乃は思いついた言葉を声に乗せ、自身が出せる最大音量で叫んでいた。
「いや――――――――――っ!! 景吾お兄様助けて、襲われる〜〜〜〜〜〜〜ッ!!」
「へっ!?」
突然、今までは殆ど動かなかった見知らぬ男が素っ頓狂な声を上げ、何が起こっているのかと顔を上げようとしたが…
「あ〜〜〜〜ん!! 見ちゃダメ――――――ッ!!!」
げしっ!!
「どわぁ!!」
乙女の誇りを守るための一撃!
がばりとスカートの前の部分を必死に押さえながら、桜乃は自由な右足で、思い切り相手の顎を蹴り上げていた。
非力な女性の力だったが、それは少なくとも相手を仰け反らせ、掴んでいた左足を離すように仕向けるには十分だった。
そうしている間に、食堂から悲鳴を聞きつけた氷帝レギュラー達がどわーっ!と大急ぎで駆けつけてきた。
勿論、先陣切って走って来たのは実兄である跡部だ。
「桜乃!! どうしたーっ!?」
「お、お兄様…っ」
何とか最悪の危機は脱したものの受けたショックが大きかったのだろうか。
桜乃は逃げる事も出来ずにその場にへたりこんでいたが、駆け寄ってきた兄の姿を見て安堵した途端、わっと彼の胸に泣き伏してしまった。
「ふえええええん!! 景吾お兄様! 桜乃、もうお嫁に行けなくなってしまいました〜〜〜〜っ!!」
『なに――――――――――っ!!??』
氷帝メンバー達の怒りのボルテージが一気に最高潮にまで達する。
まさか、目の前のこの倒れている男が、この子にいかがわしいコトを…っ!!
「わ、私…幾ら自分の身を守る為とは言え、知らない人を蹴ってしまうなんて…こんなコトしちゃって、もうお嫁に行けない…」
どうしてお嫁に行けないのか真の理由を語る桜乃だったが、最早男達は『聞いちゃいねえ』状態。
すっかり相手を破廉恥漢だと認識してしまった様だ。
「……っ!!」
いつもなら、クールに高飛車に決め台詞を言うのが常の帝王だったが、この時ばかりは怒りで声も出せなかった。
台詞の代わりに、ぎらっと鋭い視線を男に向けながら、ぱちんっ!!と指を鳴らす。
しかし、言葉による指示がなくても、他メンバー達は全員分かっていると言わんばかりに、男へと一斉に飛びかかっていった。
「こんの破廉恥ヤロウ〜〜〜〜ッ!!」
「非力な女性になんて不届きなコトを! 覚悟して下さいっ!!」
『うわ〜〜〜〜〜!! ちょっと待たんかい!! 誤解や誤解〜〜〜〜っ!!』
「今更言い訳なんざ見苦しいっての! このまま簀巻きにして警察に突き出してやる! 樺地! ムシロ持ってこい、ムシロ――――――――ッ!!」
「ウス!!」
何となく聞き覚えのある方便の混じった悲鳴が聞こえたが、跡部はそれより桜乃の心配をするのに全神経を集中していた。
正直自分も相手の男に思い切り怒りの一撃を食らわせてやりたかったが、傷心の妹を放置する訳にもいかない。
「桜乃、もう大丈夫だ、俺様がついてる」
「ううっ…ごめんなさいお兄様…」
そんな騒動の中、ふと、少し離れた処から複数の男達の声が聞こえてきた。
『うわ! 何かおかしなコトになっとるで!?』
『わーっ! シャレにならんでありゃあ! 金ちゃん、ちょっと行って来て!!』
『おう!!』
(…ん?)
何処かで聞いた様な声…そして方言…?
跡部が妹から視線を外して騒動の方へとそれを移すと、そこに一匹の…いや、一人の少年が勢い良く走ってくると、物凄い身のこなしで氷帝メンバー達の攻撃の中へ敢えて飛び込み、手にしていたラケットも使って、彼らの攻撃を悉く防いでいた。
それは武芸などの型などとは全く違う…野性の動きそのものだった。
「もうやめーや兄ちゃんら! ユウジのびとるやん!?」
「う…!」
「お前は…っ」
その姿を見た向日と宍戸が、ぎょっとした様子で目を見開く。
ばさりと自然のままに流されている髪と、幼さの残る顔立ちに大きく勝気な瞳。
ヒョウ柄のシャツを纏った、小さくも強靭さと柔軟性を備えた肉体…
それは、今日の練習試合の時にも嫌と言う程に目にしていた。
四天宝寺の一年生ルーキー…遠山金太郎だ。
「何でお前がここにいるんだ!?」
宍戸が少しだけ動揺しながら相手に叫んだのとほぼ同時に、更に複数の人間がどわっとその場に集まって来た。
「わー、アカン! 完全にダウンしとるで!?」
「きゃーッ!! ユウジく〜〜〜んっ!!」
明るい色合いの髪をしたイケメンと、かなり濃い顔立ちをしたオネェ言葉の男達が、騒ぎながら最初に飛び込んできた遠山から気絶している男を受け取るのを見て、忍足と向日のダブルスペアが反応を示した。
「謙也! 女性を怯えさせるなんて、イタズラにしては度が過ぎるで!?」
忍足の方は、イケメン相手にきつい台詞を浴びせたのだが、向日の反応はいつもとは少々異なり、
「ひ…っ」
と引きつった声を口から零しながら、ざざっと数歩下がったのである。
何となく顔色も青くなっている…まるで今日、先程この邸に来たばかりの時の様に…
そうしている内に更にその場に人が増えていき、中でも特に髪の色素が薄く、左手には包帯を巻いた若者が、騒動を超えて跡部の方へと小走りに近づいていった。
「すまん、跡部! 堪忍や!!」
「てめぇ…白石」
「え…」
兄が知っている人…?と桜乃がきょとんと跡部とその若者を交互に見つめている間に、その白石と呼ばれた男は、申し訳なさそうに少女を見下ろしてきた。
「幾らお前のウチ言うたかて、まさか本物のメイドさんが出てくるなんて思っとらんかったんや…すまんな、ぎょうさん恐い思いさせて」
何も知らない向こうはおそらく心からの謝罪を述べたのだろう。
しかし彼の発言は、更に跡部の怒りの火種に油を注ぐ結果となってしまった。
「メイドじゃねぇ! 妹だっ!!」
「…へ?」
そう否定されても、すぐに跡部の発言の意味を理解する事は難しかったのか、相手の若者がぽかんとした表情を浮かべ、その間に徐々に桜乃が状況を把握する。
つまり最初に自分が会った、あの倒れていた男性はこの人達のお友達か何かで…倒れていたのも、フリだったの…?
一体この人達…?
「…あ、あのう、景吾お兄様? この方々は…?」
「!!」
跡部を兄と呼んだ少女に、更に向こうの若者は驚きを露にする。
聞き違いと思っていたが、まさか本当に、跡部の妹なのか…?
「……はぁ」
多少、疲れを滲ませたため息をついて跡部は肩を落とし…桜乃に向かって、白石を右掌を上に向ける形で示しながら紹介した。
「…白石蔵ノ介、関西の四天宝寺中学、男子テニス部の部長だ…そして、今日の練習試合の相手」
「!!」
この人達が…!と桜乃が驚いている間に、今度は白石に桜乃を紹介する。
「…こいつは跡部桜乃、俺様の実の妹だ。何企んでたかは知らねぇが、こいつを怯えさせるとは良い度胸じゃねぇか、ああん…?」
後でじっくり話は聞かせてもらうからな…と宣言した兄の声を聞きながら、桜乃は邸の中に迎え入れるまで、遠方から来た珍しい客人達を声もなくまじまじと見つめるだけだった。
続?
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