ひれふせ


 その日、氷帝の生徒会長にして、男子テニス部部長である跡部景吾は、因縁の好敵手である手塚のいる青学へと足を運んでいた。

「あ〜〜、なんか頭がぼーっとするなぁ…」
 そして同日、青学の一年生である桜乃は、非常に体調が思わしくなかった。
 元々、幼い頃から病弱な少女は、現在は人並みの生活を送れるようになったとは言え、同学年の女子と比べてみたらやはり、風邪を引いたり身体を壊す頻度はいまだに多い。
 彼女自身もその自覚はあるのだが、その虚弱な身体に甘えるよりも、少しでも強くなろうとすることを選んだ少女は、その不調を誰にも語る事はなく、悟らせようともせず、いつもと変わらず放課後にコートへと向かっていた。
「…あ、今日は皆さん、どんな練習なのかな…」
 道の途中、桜乃は男子テニス部が使用するコートの脇を通り過ぎ、いつもの習慣で彼らの様子を立ち止まって伺った。
 目の前にある流れ弾防止用のフェンスにかしゃんと指を絡め、ひた、と額を当てると、伝わる冷気が心地よい。
 もしかしたら、熱もあるのだろうか…
 実は、桜乃の体調はこの時点で既にかなり悪いものだったのだが、下手に不調に慣れていたことと暢気だったせいで、本人は気づいていなかった。
(ああ…ひやってして気持ちいいなぁ…おかしいなぁ、今日はそんなに暑くないのに…)
 かなり重症…
 そんな桜乃が立っているコート脇の道の向こうから、珍しい客人が歩いてきていた。
 氷帝学園の生徒会長にして男子テニス部部長の跡部景吾…と、彼の親友である忍足侑士である。
「あん? あの女は…」
 遠目から彼女の姿を確認した跡部がそう言った後で、忍足も桜乃を見て軽く頷いた。
「いつも青学を応援しとるお嬢ちゃんやな。確か、竜崎先生の身内やったけど」
「…ふん」
 跡部も、全く覚えていない様子ではなかったが、何故か不機嫌も露に桜乃を見つめながら鼻を鳴らす。
「? どないしたんや跡部。何か気に入らんことでも?」
「あの女は気に入らねぇ…いつもいつも青学のことを必死に応援しやがって。王者の氷帝の方にはこれっぽっちも見向きもしねぇからな」
「…跡部サン、自分の学校の方を応援するんは当然のコトですが」
「そうだとしても気に入らねぇ…青学であっても、俺に黄色い声上げる女は幾らでもいるぜ?」
「そういう女、自分むちゃくちゃ嫌っとるやないか。ナニ勝手言うとるんや」
 そんな忍足の声は最早無視で、跡部は歩を進めて桜乃の近くまで来ると、更に方向転換して相手の傍へと更に近づいた。
「…?」
 相変わらず意識が朦朧としていた桜乃だったが、近づいてくる足音で誰かの接近には気づいたらしく、そちらへと顔を向ける。
「……」
「相変わらず青学を応援してんのか? 律儀なヤツだな、どうせ氷帝には敵わねぇってのに」
「跡部!?」
 女の子にあまりきつい言い方はなしやろ、と非難の声を上げた忍足だったが、相手は構うこともなく桜乃を凝視していた。
 しかし桜乃は何も言わず、ただじっとこちらを見つめてくるばかり。
 自分の言葉に何も反応せず、無言でいるばかりの桜乃の態度に、跡部は何故か無性に苛ついた。
 どうしてこいつは…青学ばかりでこっちを見ようともしない。
 青学の方ばかりをひたむきに応援して…何故こちらにその瞳を僅かでも向けようとしない。
 ……無性に、腹が立つ。
「…おい、お前」
 ふと、その苛だちから、いつもの彼らしくない悪戯心が沸き上がり、跡部は皮肉の笑みを浮かべつつとんでもないコトを口にした。
「俺にひれ伏してみな…どうせザコの青学を応援している限り、お前もまた俺にひれ伏すコトになるんだからな」
「跡部っ! ナニ言うとるんや!?」
 勿論、本気ではない。
 ただ、その言葉を聞いておどおどと戸惑い、困る少女の姿が見たかっただけだ。
 こちらの無理難題に、この子がどんな反応を示すのか…只、それだけだった。
「…?」
 しかし実際は、その発言を聞いていた桜乃は、最早それを意味ある言葉として認識する事すら出来なかった。
(あれ…何か言われてる…? あ、やっぱりおかしい……頭が朦朧として…)
 かしゃん…と桜乃の指がフェンスのネットから離れる。
(宙に…浮いてるみたい……あれれ?)
 そして、少女の身体はネットから離れた指にそのまま引きずられる様に、ぱったりと跡部の目前で倒れてしまった。
 まさに…ひれ伏すかの如く。
「え…?」
 流石の帝王も、こういうイレギュラーな反応は予想していなかったらしく、一瞬呆然とする。
 まさか…本当にひれ伏した?
 自分で言っておいて何だが、てっきり文句の一つも言うか、睨みつけるぐらいの反抗はしてくると思っていたのに…
「お、おい?」
 あまりにも素直過ぎるんじゃ…と倒れた桜乃を見つめた男だったが、それから三秒、少女の身体が微動だにしない事を受け、ようやくその異常性を感じ取った。
「ちょ…お前…」
 いい加減起きろ、と桜乃の身体を抱き起こして上向かせてみると、彼女の顔は明らかに上気し、ろくに動いていなかった筈なのに汗が浮かんでいた。
「!」
 眉間には微かに皺が寄せられ、苦悶の表情を浮かべている少女の素顔を間近で見た瞬間、跡部は見えない槍で己の胸を貫かれた様な錯覚すら感じてしまったが、今はそれどころではない。
「おいっ! しっかりしろっ!!!」
 がばりとその小さな身体を前に抱え上げ、いつになく焦った様子で辺りを見回した帝王は、男子テニス部の部室を視界に捉えると、一目散にそちらに向かって駆けだしていった。
 同行している忍足のことなど、完全に忘れ去ってしまった様子で。
「……おんやぁ?」
 その忘れ去られてしまった仲間は、それに怒るよりも寧ろ、相手の行動について首を傾げて考え込んでいた。
「この行動パターンはもしかして…」



「すまなかったね跡部、ウチの孫が世話をかけたよ」
「…いえ」
 部室にいた桜乃の祖母である竜崎スミレに簡単な経緯を説明しながら、少女の身体を室内のベンチに横たえていた。
「ああ、風邪だね…全く、また一人で我慢して無茶したんだろう、困った子だよ全く」
「病院へ連れていくなら手筈を…」
「いやいい…この子にとっては珍しい事じゃないんだよ。小さい頃から虚弱体質でね。少しここで寝かせてからアタシが車で連れていこう」
「……」
 珍しいことではない…のか。
 知らなかった。
(応援席では、あんなに声張り上げてるってのに)
 また、いらいらする。
 しかし今回はそのいらいらは、氷帝や自分を見てくれないという事ではなく、己の身を省みない相手の行動に対して…そして、桜乃について何も知らない自分自身に対してだった。
「…ん」
 そんな跡部の前で、気がついた桜乃の瞳がゆっくりと開かれ、小さい呻き声が聞こえてきた。
「桜乃、大丈夫かい?」
「…おばあちゃん?」
「倒れたお前を、跡部がここまで運んでくれたんだよ。ちゃんとお礼を言いなさい」
「あとべ…さん?」
 はふ、と息を吐き出しながら、まだ少し辛そうな様子の桜乃が、こちらを見下ろしてくる若者に気がついた。
(あ…跡部さんだ……さっきも見た様な気がするけど…あれ、何か言われてたかな? 思い出せない…)
 覚えていたら、結果は幾分異なるものになっていただろうが、幸か不幸か、彼女の記憶には跡部の命令は一切残ってはいなかった。
 そうか…ここまで運んでくれたんだ…いい人だなぁ……
「…跡部さん、ありがとうございました。迷惑かけて、ごめんなさい」
「!!」
 病気のせいとは言え、上気した頬、潤んだ瞳、か細い声は普段より遙かに少女の色気を際だたせ、それらを心からの感謝と一緒にまともに受けてしまった跡部は、言葉に詰まってしまった。
「…っ!」
 何だ、この女はっ!!
 こっちを無視してても、目を向けても、俺様をここまで振り回しやがる…!!
 本当に…何で、青学なんかにこいつが…
「ふ、ん…応援より先に、自分の身体を大事にしろ」
 照れ隠しともとれるつれない態度だったが、祖母は相手の言葉に同調する。
「跡部の言うとおりだよ、少しは反省するんだよ」
「あう…ごめんなさい」
 素直に謝罪の言葉を口にする桜乃の姿を見届け、跡部はスミレに暇を告げた。
「後は任せます。俺は手塚と打ち合わせがありますから」
「ああ、いいよ。本当に有り難う」
 そして、部室から出ていった跡部に、一緒についていた忍足が、暫く後に声をかけた。
「跡部…」
「あん?」
「自分、あん子のコト……いや、何でもない」
 これ以上下手なコト言うたら、間違いなくヒドい目に遭わされる。
 まぁ、別に確認せんでも、俺の見立てでは九十パーセントは「そう」やろうからな。
(しかし、ツンデレ気質とはまたベタな…)
 まぁ、他人に悪戯に心の隙を見せられない帝王なら、それも致し方ないことか…


 数日後
 氷帝学園 生徒会長室内に於いて…
『先日は、本当に有り難うございました、跡部さん。運んで頂いたばかりか、綺麗なお花まで届けて下さって…』
「…いや」
 部屋にいた跡部の許に、あの少女から全快の報告を兼ねたお礼の電話が入っていた。
 勿論、跡部本人がそれを受けており、その脇では例によって遊びに来ていた親友の忍足が、近くにいた樺地が淹れてくれた紅茶をずずーっと啜っていた。
 そんな男がしっかりと聞き耳を立てている向こうで、帝王はいつもの様に不遜な態度だったが、何となく表情には微かに安堵の色が滲んでいる様にも見える。
「別に大したコトじゃねぇ…居合わせた以上、ほっとく訳にもいかねぇだろ」
『でも…あんなに綺麗な薔薇を沢山…凄く嬉しかったです』
「べ、別に喜ばせようと思ったんじゃねぇぞ、病人への礼儀だからな」

 ぶはっ!!

 思わず紅茶を吹き出し、忍足はいかんいかんとハンカチを口元に当てた。
(で、伝説のツンデレ言葉をまさか現実に聞こうとは…!)
 しかもこの男の口から!!
(こりゃ九十パーセントどころやない…百パーセント間違いナシのゾッコンラブやなぁ)
 ゾッコンだったからこそ、あの娘が他に視線を向けているのが我慢ならなかったのだろう。
 けど、跡部本人すらそれには気付いておらず、向こうの少女もまた然り。
 今回のコトで少しだけ…本当に少しだけ二人の視線は交わったが、まだそれだけだ。
 帝王が遠からず少女への想いに気がついた時、二人は果たしてどうなるのか…?
(跡部も大概、俺様気質やからなぁ…お嬢ちゃんの苦労が今から偲ばれるで、ホンマ)
 帝王が愛にひれ伏すとき、そこでは何が起きるのか…
 何が起きるにせよ、自分もきっと色々と巻き込まれて苦労するんだろうな…と、既に諦めの境地に達している、友人思いの曲者だった。






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