帝王の椅子


 さぁ、春が来ますよ…貴方の瞳を開いて、貴方の心の帳を開いて
 訪れた春の使者に、氷の帝王は目覚め、答えた
 ここは俺の土地…俺だけが統べる凍てつく世界
 愚かな者を拒絶し、生き抜ける強き者だけが在る事を許される…だからこそ不純なる者のない美しい世界
 誰であろうと、その律を破る事は許さない
 だが乙女よ
 もしお前が、俺の傍に留まるというのならば…
 俺の瞳はお前に開き、俺の心はお前だけに開こう…
 春の訪れなど…知ったことか


「こんにちは」
「おや、青学のお嬢ちゃんやないか」
「お久し振りです、忍足さん」
 その日、放課後の氷帝学園に、見慣れない制服姿の女子が訪れていた。
 小柄で、腰まであるおさげの女の子…中学生らしいが、まだまだあどけなさを残した顔立ちは、十分に可愛いと言える部類に入るだろう。
 彼女は、母校ではない学園にまだ馴染がない様子でおどおどと正門をくぐり、男子のテニスコートに来たところで、丁度、見知った顔に出会った。
 三年生であり、氷帝の男子テニス部内でも一番の曲者と称されている忍足侑士だ。
 しかし普段は女性に優しいフェミニストであり、物腰も至って柔らかな若者である彼は、その来訪者に気付くと、すぐに寄って声を掛けてくれた。
「ああ、ホンマ久し振りやなぁ。どうしたん? 今日は」
「おばあちゃんから、これを届けるように言われて来たんです。本当はおばあちゃんが来るべきでしたけど、指定された今日はどうしても外せない会議があって…あの、榊監督か跡部さんはいらっしゃいますか?」
「ああ……」
 持っていた茶封筒を見せながら微笑む少女の言葉に、忍足は視線を逸らしながら生返事を返した。
 成る程…だから今日な訳か…と一人心の中で納得する。
 実は…彼らの所属するテニス部部長である跡部景吾は、最近知り合ったこの女子、竜崎桜乃に執心している。
 元々彼女の身内が、ライバルである手塚が属する青学テニス部顧問であった為か、顔を合わせる機会はあった。
 顔を合わせるだけの話なら、それこそこの学園にいる全ての女子生徒に言える事であり、尚且つ彼女よりも回数も多い。
 しかし、跡部はそんな有象無象の集団より、一見地味で、大した取り得もない様に見えるこの子だけに興味を持ったのだ。
 切っ掛けは知らない…もしかしたら当事者の彼女ですら知らないかもしれない。
 桜乃が通うのは青学、だから当然、会える機会は限られる…からこそ、跡部はその機会を好機がある度に増やしていた。
 例えば今日の様に、青学の監督が動けない日を敢えて指定し、代理として孫の彼女がここに来る様に仕向ける事もある…そして更に今日の様に、榊監督が所用でいない日と重なれば、必然的に対応するのは跡部しかおらず、彼にとっては願ったり叶ったり。
(…けど相変わらずこのお嬢ちゃんは、アイツの企みに全然気付いてへんみたいやしな…気に入られとることもよう分かっとらんようやから、想像もしとらんのやろ…)
 この天然っぷりも、あの男から見たら面白いんかもしれん…普段から自分の気を惹こうと計算高く立ち回る女性達ばかりに囲まれとったらな、と思っている忍足の前で、桜乃はやや戸惑い気味に相手を見上げた。
「…あの、忍足さん? どうかしましたか?」
「! ああ、いやいや、何でもない…そうやな、榊監督は今日は出られへんから、跡部に直接言った方がええやろ」
「そうですか…ええと、じゃあ跡部さんはどちらに…」
「何か生徒会の臨時会議で遅れるっちゅう話は昼休みに聞いたけどな…もしかしたらそれで足止め食っとるのかもしれん。ちょっと、待っとってな」
 そう言いながら忍足が取り出したのは、別に何の変哲もない只のケータイだった…が、
「…学内では普通ケータイは…」
「それが通じんのが跡部や…まぁ流石に授業中は電源切っとるがなぁ」
「…さいですか」
 相変わらず、俺様な性格は健在らしい…が、最早それを咎められるでなく、認知されているところが何より彼らしい。
 カリスマ…というものなんだろうか、同じ学園にいない自分には今ひとつぴんとこないけど。
(まぁ、凄い人だって事は分かるけど…色々な意味で)
 テニスの腕はさることながら、その経歴も只者ではない。
 日本…いや、世界屈指の財閥の御曹司というところから、既に庶民の自分には想像も出来ない世界に住んでいる様なものだ、こちらの常識など通じない事も多々あるだろう。
 所謂、帝王学というものを幼少時より叩き込まれているという話だが、普段から見る己に対しての自信は、そういう経験に裏打ちされたものなのだろうか…?
(私と跡部さんの人生比べたら、お茶漬けとフランス料理フルコースぐらいの違いはあるかも…私はどっちも好きだけど…お茶漬けも工夫次第ではなかなか豪華な一品に…)
 よく分からない話に思考が流れている桜乃の前で、忍足は繋がった回線の向こうで跡部と話し始めた。
『何だ、忍足』
「跡部…青学のお嬢ちゃんが届け物に来とるで? 俺が代わりに受け取っとくか?」
『駄目だ、俺を通せ』
 さり気なく尋ねた質問だったが、それは速効で拒絶された。
 まぁ、大体予想出来た事ではあったが…
「…と言うても、お前まだ会議中やろ…それまでずっと待たせるんか? 可哀想に」
『生徒会長室で待たせておけ。会議が終わったら俺もそこに行く』
(まぁ、確かにあそこやったら人目も気にならんし、ソファーもあるしなぁ…)
 何より、他の者の目に触れさせずに独り占めしようという計画が透けて見えてます…と思いつつも、忍足は向こうの言葉に従った。
 このまま会話を続けたところで、向こうの機嫌が一気に下降していくのは目に見えているし、わざわざそんな事を自分からさせる事もないだろう。
「分かった、そこで待たせとくわ」
『俺が行くまで絶対に帰らない様に言っておけ』
 言うだけ言ってぶつっと回線を切った友人に、忍足は苦笑を零しつつも桜乃へと向き直って、軽く顎をしゃくった。
「すまんなぁ、お嬢ちゃん。やっぱ跡部の奴、今は抜けられん用事があるみたいや…ちょっと待っとってもらってもええか?」
「はぁ…それは別に構いませんけど。じゃあ、ここ辺りで見学でもさせてもらって…」
「いやいや、アイツのお達しがあるからな、そこで待ってもらうわ」
「…はい?」


 それから忍足に連れられて桜乃が来た場所は、氷帝学園の施設の最上階に位置する一室…生徒会長室だった。
 実は、彼女はここを訪れるのは初めてである。
 いや、この学園の生徒であっても、訪れる機会を持つ人間は少ないだろう。
 何しろあの跡部がこの学園にいる間、彼の私室になるような場所なのだ、そうおいそれと不特定多数の人間を入れる事などあり得ない。
 そんな場所に外部の人間が入るのは…確認はしていないが、もしかしたら桜乃が初めてかもしれなかった。
「ここって…生徒会長室…?」
 部屋の前に来て、掲げられている札を読んだ桜乃は、きょとんとしたまま忍足に確認した。
「そうやな、普段跡部はここで過ごす事が多いんや。生徒会の執務の件もあるし、それに教室におるより静かで快適やしな」
「い、いいんですか? 私、部外者ですけど…」
「跡部がいいって言うたんやから、別にええやろ。少なくとも、今のこの部屋の主はアイツなんやから…戻るまで絶対に帰るなっちゅうお達しや。守ってくれへんと、後で俺が酷い目に遭うわ、逃げんといてな」
「に、逃げなきゃいけないような何かがあるんですか?」
「まぁ、ノーコメントっちゅうコトで…下手なモンに触らん限りは、好きにしてくつろいでくれててええよ」
 言いながら、忍足は入り口のドアそ傍に取り付けられていた指紋認証とナンバーロックを器用に扱って掛けられていた鍵を解除した。
「? 忍足さんでも開くんですか?」
「ああ、俺だけやなくて、レギュラーの何人かも登録されとるさかいな…どうせ中にもカメラが設置されとるし、隠れて何か仕出かそうっちゅう輩はおらんけど」
「…でしょうね」
 仕出かした後のその人の人生を思うと、頷かずにはいられない…無論、桜乃本人も、何かを企むなど頭の端にも上らなかった。
 ただ、自分の学校の生徒会室も滅多に見たことがないので、単純にどんな部屋なのかという期待はあったが。
「入り」
「はい、お邪魔しま…」
 一歩踏み込んで、桜乃は中途で言葉を失った。
 なに、この広い部屋…!
 確かに…確かに生徒の頂点に立つ人が校内で活動する拠点になる部屋だもの、多少他の教室とは異なる事は予想出来る、でも…
(…ウチの生徒会室よりもずっと広い…あっちは複数人で使うのに)
 呆然としながらも何とか歩を進めた桜乃は、きょろっと部屋の中を見回した。
 この学園の変遷を辿るような資料が収納されている本棚と、来訪者を迎えるソファーとテーブルが入室してすぐの場所にあり、奥まった処にはまた別の本棚と、生徒会長の執務机と椅子と思しきものが備え付けられている。
 その執務机も見た感じ大きく、作業面積も十分に確保され、椅子に至っては何処かの社長が使用しているようなものだった。
 よく見ると、更にロッカーや冷蔵庫まで完備されているし…後は布団を持ち込んだら普通に生活出来そうだ…いや、流石に火の元はないか。
(うわ〜〜、跡部さん、こういう所でお仕事しているんだ…でも確かにこれぐらいの部屋のレベルでないと釣り合わなそうだし…)
 きょろきょろとせわしなく辺りを見回している少女の心中を思いつつ苦笑し、忍足は彼女に念を押した。
「ゆっくりしといてええよ。跡部ももうすぐ来るやろうし…俺はまたコートに戻らなあかんから行くけど、ええかな?」
「あ、はい。わざわざ有難うございました」
 礼を述べ、ぺこりと頭を下げた桜乃にもう一度笑うと、忍足はそのまま元来た廊下を辿ってコートへと戻っていった。
 自分一人になってしまうと、途端にしん、と空気が静まり返る。
 部屋は嵌めこまれた窓から注ぐ光で十分に明るいのだが、ここまで一気に無音になると、何となく心細くなってきて、手持ち無沙汰に桜乃はうろうろと部屋の中を歩き回った。
「あまり物に触ったらいけないよね…あ、でもやっぱり…」
 これは外せないでしょう!と彼女が狙いを定めて向かったのは、跡部がいつも使用していると思われた椅子だった。
 黒の革張りの椅子は背もたれの高さもかなりあるもので、無論、肘掛け付き。
「うふふ、ちょっとだけ〜」
 あの強気の帝王が普段どんな座り心地の椅子に座っているのか興味も露に、少女はすとんと腰を下ろしてみる…と、革とは言え、意外とふわっとした感触が返って来た。
「うわ、座り心地いいなぁ〜…あれ?」
 見ると、左の肘掛けに折り畳まれた紺色のストールが掛けられており、更に肘掛けの下の部分にレバーが確認出来た。
 ストールは見てすぐそれと分かるものだったので、取り敢えずはこのレバーは何だろうと手を掛けて引いてみると…
「…あ、リクライニングだぁ」
 レバーを引くと同時に、少しだけ体重を預けていた背もたれがカクンと後ろに反っていく。
 手で押しながら倒してみると、ほぼ水平な状態まで動き、そこで固定された。
「なーるほど、こうしたらちょっと仮眠とかもとれそう」
 傍のソファーで眠る手もあるが、身体によりフィットしており、柔らかい材質の革を使用している分、実は寝心地はこちらがいいのかも…
(じゃあ、そういう時にこれがあるのかな)
 続いて少女が手を伸ばしたのは、肘掛けに掛けられていたあのストール。
 何気なく手にとってみると、その異常なまでの触り心地の良さに桜乃は心底驚いた。
(なに、これっ…! 何ていう布なんだろう…カシミヤ? カシミヤって、こんなに気持ち良いんだっけ…)
 ふわ…と広げてみると、結構な大きさである。
 畳んで使えば、執務中の膝掛けになり、広げて使えば仮眠時の掛け物になるだろう。
「…」
 どうしよう…と悩みはしたが、遂に興味には逆らえず、桜乃はぽふんと背もたれに身を委ねて横たわり、その上にストールを掛けてみた。
(わぁ…気持ちいい…)
 うっとりするような寝心地に夢中になり、桜乃は口元近くまでストールを引き上げた。
 本当に、今まで触れたどんな布地にも勝る感触…こうしているだけで、身体の緊張の糸がぶっつりと切られてしまう様だ…
(もうすぐ跡部さん、来ちゃうんだよね…でも、もうちょっとだけ…もうちょっと…)
 そう思いつつも、既に桜乃の瞳はとろんとして、夢の世界に強制的に送還され、数秒後には緊張の糸は容易くぶっつりと切られてしまった。
「…すぅ」
 そして安らかな寝息をたてながら、小さな少女は無邪気に帝王の椅子を独占してしまったのである…



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