「さて、部活にも一通りの指示を出してきたし、これで一段落つくだろう…ちょっとばかり時間をかけすぎちまったか…」
ちらっと腕時計を眺め遣りながら、跡部はすたすたと早足で学校の廊下を進んでいた。
背後には、彼を常に守るようにかしずく樺地がいつもの様に追随している。
「お陰であのおさげも待たせちまったな、茶菓子の一つも先に出しておけばよかったか」
『おさげ』とぞんざいには呼んでいるが、彼が彼女の事をかなり気に掛けている事は樺地も既に知っている。
もし、本当に相手が気に掛ける必要も無い人物なら、この男が最初から生徒会長室という自分の砦に容易く入室を許す訳もなければ、茶菓子などというアイテムも出てこない。
部長として指示を出している間も、周りは気付かなかっただろうが、気が逸っているのが明らかだった…これは常日頃見ている人間でなければ分からないだろうが。
「さて・・と」
目的の部屋に到着し、跡部は自身の指紋とナンバー入力でロックを解除し、ドアを開けた。
「竜崎? 書類を持って来てくれたそうだ…」
そう言葉を紡ぎながら部屋の中に踏み込んだ跡部は、中の様子を見た途端、口を閉ざした。
「……」
しんとした部屋の中、若者の言葉に応じる者はいない。
唯一答えられる筈の女性は、今、帝王の訪室にも気付かず、安らかな眠りの中にあったからだ。
しかも、部屋の主であるその帝王の椅子の上で。
様子を伺ってすぐに状況を察した跡部は、ちら、と樺地に『音をたてるな』という言葉を込めた視線をやってから入室する。
元々部屋の床には絨毯が敷かれていたので、然程気になる足音はたたない。
それを幸いに、彼はずんずんと椅子へと近づき、すぐ傍に寄ったところで、上から眠り姫の寝顔を覗き込んだ。
本当に…何の悩みもない、安らかな寝顔だ。
「…何やってんだコイツは…」
確かに待て、とは言ったが、ここまでくつろいでいろとは言ってない、と呆れた様子で跡部が呟いた、すると、
「……んん」
その声が聞こえたのかはたまた偶然か、不意に眠っている桜乃が小さな声を漏らしてもぞりと動いた。
「!?」
そのまま目が覚めるかと思いきや…
「…すぅ…」
再び、眠りの深淵へと落ちてゆく…
「…いい度胸だぜ…ここまで堂々とやられちゃ、起こすのも馬鹿馬鹿しいな」
『馬鹿馬鹿しい』のではなく、『可哀想』なのが本音だというのは、樺地も分かってはいたが、何も言わない。
「樺地、外で見張ってろ。誰が来ても中には入れるな」
「ウス」
いつものように樺地が跡部に従い、彼の言う通りに部屋の外でガードを始めた後、跡部は桜乃が持ってきたらしい書類の入った封筒をテーブルの上に見つけると、それを取って自分はソファーへと座った。
本来の部屋の主がソファーへと座り、椅子を部外者に譲る。
普段の跡部であれば、相手が誰であろうと容赦なく叩き起こし、己の椅子から蹴りどかしていただろう。
しかし、奇妙な来訪者はそんな手痛い歓迎を受けることもなく、今も安らかに眠り続けている。
「…すぅ…すぅ…」
「…フン」
鼻を鳴らして眠り姫を見遣る氷の帝王だったが、その目はとても優しかった…
「…っくちゅん!」
眠りから覚めた切っ掛けは、小さなくしゃみだった。
時期的に、冷房でよく冷やされた部屋が原因か、それとも鼻腔に何かの塵が入ったのが原因かは分からない…が、その本人でも予想出来なかったアクシンデントで、桜乃は唐突に現実へと引き戻された。
「うにゃ…ん…?」
瞳を開いたら、見慣れない景色…静かな空気…いや、微かに音が聞こえる…
(あ、あれ…? ここ、何処だっけ…私どうして…)
きょときょと…と辺りを見回していると、
「起きたか?」
とこちらに向けて投げかけられる声…この声には聞き覚えが…
「……あれ…跡部…さん?」
「…何て顔してやがる。まさか、記憶までぶっ飛んだとは言わねぇだろうな」
起き上がった先に見えたのは、ソファーに座り、執務をしていた跡部の姿。
そう言えば、自分はそもそも氷帝に書類を届けに来たのであって…生徒会長室に案内された後に…彼の、椅子、に……
「……」
思い出していくのに従い、ざーっと桜乃の顔から血の気が引いていった。
もしかして…いや、もしかしなくても分かってしまった。
自分がどれだけ失礼な事を仕出かしてしまったかということを。
あろうことか、彼の本来の居場所である筈の椅子を彼から奪い、惰眠を貪り、彼を来客用のソファーへと追いやってしまったのだ!
たかだか書類を届ける程度の役目しかなかった自分が!
「すすすすすすすすみませんっ!!!!」
(酢?)
何の話だ、と跡部が考えている間に、桜乃は椅子から飛び降りて、ソファーへと一度は向かった…のだが、再びそこで方向転換。
「……」
帝王が見ている前で、彼女はあわあわと椅子のリクライニングを戻し、せっせとストールを折り畳む。
慌てていても、そういうところはきっちりしないと気が済まない性格らしい。
(なかなか可愛い性格だな)
不思議な感心をしている間に、相手の少女は再びこちらへと小走りに駆けてきて、ぺこぺこと頭を何度も下げた。
「ごめんなさいごめんなさい! あの、私、書類届けに来ただけなのに、跡部さんの椅子に勝手に座ってしまって…! しかも、眠ってしまうなんて…本当にすみませんっ!」
「いや、下手に待たせずに済んだからな…そら、仕上げておいた。これを竜崎先生に返しておけ、榊先生には俺が伝えておく」
見ると、ソファー前のテーブルには、他の生徒会のものと思われる書類がわっさりと束になって積まれている。
起きてすぐに聞こえてきたあの音は、跡部がこれらを弄っていたそれだったのだ。
届けた書類をもう返されてしまい、桜乃は改めて自分がここに長居をしてしまっていたのだと思い知った。
「は、はい…有難うございました…」
「…誰かさんの所為で、慣れない場所で執務をしたから結構疲れた。俺も少し寝る」
ぐっさ〜!
明らかにそれは自分の所為である。
「すすす、すみません…ご迷惑かけました、失礼します…」
「待て」
退席しようとした桜乃を呼び止めた跡部は、にやっと意味深な笑みを浮かべてちょいちょいと相手を人差し指で招くジェスチャーをした。
「お前の所為で疲れたんだ。罰として枕になれ」
「はい!?」
「ここに座って、俺に膝を貸せ…それで許してやる」
「う……」
最初に無礼を働いたのは確かに自分だし、断る立場にないことも十分に分かってはいるのだが…
「…えと、あ、あっちの椅子じゃなくていいんですか? 凄く寝心地良かったですけど」
「あれじゃお前が膝貸せないだろうが」
「……そですね」
そこまで堂々と胸張って言われると、最早反論の余地もない。
膝を貸すことで償いになるのなら、と桜乃は了承したが、その前に彼女は再びぱたぱたと例の椅子へと足を運び、その肘掛けに掛けたストールを取り上げ、跡部の許へと戻った。
「? 何だ?」
「あ…お休みになるならこれを掛けた方がいいかと思って…お風邪引いたらいけませんから」
「…律儀な奴だな」
感心しているのか呆れているのかよく分からない口ぶりだったが、特にそれを拒否することもなく、跡部は相手の好意を受け入れた。
「ええと…それじゃ、ど、どうぞ…?」
ソファーの左隅にちょこんと座り、膝を示した桜乃に、跡部は軽く頷いて躊躇いもなく横になると、自身の頭を相手のそこへ乗せた。
そして、桜乃がストールを開いてそっと若者へと掛けてやると、微かな吐息が彼の口から漏れた。
「…これ、物凄く肌触りが良いですよね…カシミヤ、ですか?…あの椅子も流石に高級だし」
「ん? いや…確か、ヴィキューナ」
(ヴィキューナ?)
「まぁ、そんな事はどうでもいい…椅子も欲しけりゃくれてやってもいいぜ? 代わりにお前がずっとここにいるならな」
「け、けけけけ、結構ですっ! おっ、置き場所ありませんからっ」
「…くくっ」
相手の狼狽振りに、跡部はくぐもった笑みを零した。
置き場所がない…か、なら、ここにいることは別に嫌じゃないってことか?
「あの…跡部、さん…?」
さわ…っ
「っ!!」
制服のスカートから覗く少女の滑らかな脚を撫でて彼女を黙らせると、跡部は満足そうに微笑み、瞳を伏せる。
「寝かせろ…勿体無い」
「は、はぁ…?」
何の事かよく分からないけど、と思いつつも、桜乃は以降は素直に口を閉ざし、跡部の枕になった。
あまり視線を向けると相手が気にするかもしれないと思いつつ、部屋のあちこちに目を向けるが…やはり最後はどうしてもこの帝王へと注目してしまう。
元々、ずば抜けて度胸のある男だ、自分の視線など涼風の様に受け流してしまっているのかもしれない。
(…瞳を閉じていると、何だかいつもと印象が違うなぁ、跡部さん…男の人なのに何となく色気があると言うか…お母さん似なのかな? 睫も長いし、十分にハンサムだし…おまけに財力も凄いし文武両道…ううう、神様、不公平です〜〜)
ぎゅ…
「!?」
無意味に一人落ち込んでいるところに、不意に自身の右手が握られる。
見ると、眠っている跡部が無意識の内に桜乃の右手に触れ、反射的にそれを握り締めてしまったらしい。
(うわ…っ)
当然、桜乃は驚き、思わず右手を揺らしてしまったが、相手が彼女のそれを手放す様子は無い。
(…大きい…それに、あったかいんだ…あんなに鋭い目をしているのに)
遠目から…いや、近くで見ても寧ろ痩せている様に見えた男だが、こうして触れてみるとそれが錯覚なのだと思い知る。
痩せている訳ではなく、過酷なトレーニングを耐えて必要な筋肉のみを身につけた肉体を持つ男性なのだと。
(ち…ちょっとどきどきするな…寝てるって、分かっているけど…)
でも、こんなにきつく握られると、どうやっても意識しちゃうよ…跡部さん。
それからも結局、再び瞳を開くまで、跡部が桜乃を解放することはなかった…
「今日は本当に色々とすみませんでした…ご迷惑をお掛けしたばかりか、家まで送ってもらっちゃって」
「気にするな、書類を届けてもらったのは事実だ」
送ってもらう車内で、桜乃は隣にいる跡部に謝罪とお礼を述べていたが、相手はもう元の氷の帝王としての姿に戻っていた。
外国製の高級車…車種に疎い桜乃には全く分からなかったが、異常に静かで揺れなくて広くて、逆に庶民の自分は聊か落ち着かない…
無論、跡部が運転している訳ではなく、運転手に委ねて自分たちは後部座席に座っているのだが、前方の席とはカーテンで仕切られており、互いの様子は伺えない。
きっと、御両親の仕事関係の来賓にも使うものなのだろうが、跡部の一言でそういう車があっさり動くというのがまた驚きだ。
「…何をそわそわしている、忘れ物か?」
「い、いえいえ、そういう訳ではないんですが…ちょっと、滅多に無い経験なので」
「何が?」
「いえ…こういう広い車で、運転手さんが付いてるって凄いなぁって思って…あ、この座席も座り心地いいですね〜」
ふかふかですよ〜とぽふぽふと何度も座席に腰を落としながら笑う桜乃に、跡部は毒気を抜かれて視線を窓の外へと逸らしてしまった。
「…慣らすのに時間が掛かりそうだな」
いずれ、俺の傍にいることになる女として…
「はい?」
「いや、何でもない」
「はぁ」
まぁ、この無邪気な笑顔を見るとそれでもいいと思えてしまうのだから、俺ももうかなりイカれているのかもしれない。
「…じっくり教育してやればいいだけの話だしな」
「…何だか納得しにくい話に聞こえるのは気のせいですか?」
「気のせいだ」
「……」
言い切られてしまうと、これ以上の質問も出来なくなってしまう。
その件についてはそれ以上深く語られることもなく、そうしている内に車は桜乃の家の前に到着した。
「そら、着いたぜ」
「はい」
跡部が先に降り、続いて桜乃に手を差し伸べエスコートする。
流石にその立ち居振る舞いは慣れたもので、そんな扱いを受けたことのない桜乃の方が明らかに動揺していた。
「あ、ありがとうございます」
「…」
はにかみながら礼を述べる桜乃の微笑を見つめながら、暫く跡部が無言で佇んでいたが、不意にその手を伸ばし、少女の頬に触れる。
「…っ?」
ぴくん、と微かに身体を揺らせたものの、じっとそこに留まりながら、桜乃は跡部を見上げた。
ほんの僅かな時間
二人の男女が見つめ合った時間
彼らの中では彼ら以外の全ては無きものに等しかった。
桜乃も跡部も何も語らなかったが、交し合う視線には彼らにしか分からない言葉を確かに紡いでいる様にも見えた。
その僅かな時間を破るように、跡部の顔が桜乃のそれに少しだけ寄せられた…が、彼はすぐに再び離れ、続いて頬に触れていた手も離す。
『この女はまだ…俺の心を知らない』
まるで…春の乙女の唇を渇望しながらも、時至らぬと突き放す、誇り高き氷の王の様に。
「…また来い」
それだけを言い…『さよなら』の言葉もなく、跡部は車の中へと戻っていった。
そして去ってゆく車を、桜乃は暫くその場から動かず見守っていた…
後日談
「あれ? これって…」
桜乃の許に、差出人が跡部の、小ぶりの小包が届けられていた。
開いてみると一枚のストール…ワインレッドのそれが入っている、そして一枚のメッセージカード。
そこには、気に入っていた様だからプレゼントしてやる、という主旨の跡部の言葉が綴られていた。
「あんまり感動しちゃってたから、贈ってくれたのかな…け、けど、カシミヤ並に高いんだろうな、これ…」
貰ったのは素直に嬉しいけど、と思いつつ、桜乃は純粋な好奇心で自宅のPCに向かい、検索をかけてみた。
「ええと…確か、ヴィキューナって言ってたっけ…」
そして並ぶ、その語句についての説明文やら取扱店やらの情報…
「えーと、世界で最も高級な獣毛で、カシミヤよりも柔らかく…へぇ…同じキャメル科のアルパカが糸一キロで五千円だとすると、ヴィキューナは一キロウン十万円…え…?」
何だか凄く嫌な予感がする…と思いつつも、好奇心には勝てず桜乃はいよいよヴィキューナのストールのページへと辿りつく。
『ストール:当商品は非常に稀少の為、現在は品切れとなっております。値段…』
五十万円也
「!!!!!!!!!!!」
その後、桜乃はショックで暫く寝込んでしまった……
了
前へ
Field編トップへ
サイトトップヘ