氷帝二大イケメンVS超天然
「けほっ…」
或る日の放課後、氷帝学園の三年生である忍足侑士は、部活の為にテニスコートに向かう途中、度々咳を繰り返していた。
そう頻繁にではないのだが、それは朝から続いており、彼は煩わしげに喉元へと手を伸ばした。
「ああ、アカン…ちょっと昨日は気合入れ過ぎたわ」
昨日の部活終了後、他のメンバーと一緒にカラオケに行った際、ついつい勢いに乗って気に入りの曲を歌ったのがまずかったのか…
(うーん…ちょっとコブシ効かせ過ぎたかなぁ)
こらあかん…と思いつつ、再び咳が出そうになって右の拳を口元に持っていく。
「…けほ」
「お風邪ですか? 忍足さん」
「ん…」
不意に背後から呼びかけられた彼が振り返ると、この学園内では珍しい色合いの服を纏った人物が立っていた。
よく見ると、一人の少女…とても長いおさげで、珍しい色合いの服なのはこの学園のものとは異なる制服だったからだ。
「おや、青学のお嬢ちゃん」
「ご無沙汰してますー」
「いやいやこちらこそ」
深々とお辞儀をする少女に対し、忍足もまた深々とお辞儀…半分はノリでやっている。
「どうして今日はここに…って、言うだけ野暮やな、跡部か?」
会ってすぐにこうしてフレンドリーに話しているのは、当然、二人が既に見知った仲だからだ。
相手の少女は青学の一年の女子で、名を竜崎桜乃と言う。
氷帝学園男子テニス部と因縁浅からぬ青学の男子テニス部の顧問、竜崎スミレの孫に当たり、その縁あって、彼らは何かと試合会場や合宿などで顔を合わせる機会を得ていた。
さて、そこまでは氷帝のレギュラーであれば関係なく全員が同じ立場であるのだが、最近、一人の若者が、それ以上の縁をこの少女と結んでいる。
誰であろう、この氷帝学園の生徒会長であり、男子テニス部部長…テニスコートに於いては氷の帝王とも呼ばれている、跡部景吾その人だ。
彼もまた他のレギュラー同様に桜乃と知り合い、言葉を交わしていたのだが、何が男の気に入ったのか、最近の彼はこの少女をやけに気に掛けている。
見た目の態度はまるで変わらない、いつも飄々として、泰然として、時には傍若無人に振舞うまさにキングだが、桜乃を前にした最近の彼は少しだけ身に纏う空気が柔らかなものに変わっていた。
他の部員や級友達は知らないだろうが、氷帝一の曲者である忍足にはその変化が手に取るように分かっていた…そしてその変化が何によってもたらされたものなのかも薄々勘付いてはいる。
(最初は意外や思てたけど…まぁ、確かにこの子なら)
納得…は出来るかもしれない。
おさげという見た目で魅力が隠されているかもしれないが、彼女は大した原石だ。
よく見る美人であるが故の鼻っ柱の高さもまるでない、寧ろ、常に素直で柔和な性格である。
そして、それは決して彼女自身が取り繕ったものではない…素そのものなのだ。
跡部は財閥の子息で、常に上流階級の人間模様を見てきている、言わば社交界でのサラブレッドであり、それ故に、あの観察眼が磨かれてきた様なところがある。
しかも、一族が物凄い富豪であるが故、跡部本人には金に関しての卑しさがまるでなく、相手についてはひたすらにその人物そのものの価値を見抜こうとする。
その男がこの娘に目を留めたのも、そういう裏事情があってのものかもしれない。
親友の自分が気付いた時には、跡部は何かしら理由をつけては、桜乃を青学からこの氷帝へと足を運ぶように仕向けていた。
大体は、向こうのテニス部顧問の代わりに必要な書類などを届けさせたり…という理由が多いのだが、果たして今日は…?
「お祖母ちゃんが遠征に同伴してて来られないので、私が代わりに書類をー」
「お疲れさん」
ビンゴ…と言うか、やっぱりそうか……
(いい加減、そろそろ堂々と言うてもええのになぁ…会いたいから来いって)
流石にこう何度も会っているなら、相応の関係になっている筈だ、野暮な質問は出来ないから直接聞いたワケではないが。
何度も何度もこうして呼びつけられて、その言い訳がこれでは、この子もあまりいい気分はしないだろうに…こんなええ子なら俺が貰ってもええくらいや、と思っていた忍足に、桜乃がすうと掌を差し出した。
「ん?」
見ると、上に一本の未開封の飴が載っていた。
「のど飴どうぞ?」
「ああ、こらおおきに」
気になる喉に嬉しいプレゼントである。
(気が利くし、ホンマにええ子やなぁ…)
忍足は嬉しそうに笑ってそれを受け取ると、桜乃にちょいちょいと校舎の方を指差した。
「じゃあ、お礼にお嬢ちゃんを跡部の処に連れてったるわ、ついて来て」
「え、跡部さん、まだ校舎なんですか? てっきり部活でコートにいらっしゃるかと」
「ああ、今日はまだ生徒会長室にいるはずや、何や部活に出る前に仕事を幾つか片付ける言うとった」
忍足の自信を持った一言に、桜乃は却って気遣う様子で首を横に振った。
「じゃ、じゃあお邪魔したら申し訳ないですから、榊監督でも構いません。そのままコートに…」
「いやいやいやいや…!」
コートに向かおうとする桜乃を、忍足は慌てて引き留めた。
下手に桜乃の訪問を引き留めたのが自分だという事がばれたら、後の跡部が恐ろしい。
コートは人目につくが、生徒会長室は殆ど彼の私室状態であり、野暮な輩に邪魔される事もない、逢瀬を過ごすには絶好の場所。
これまでも、大体跡部は訪れた桜乃をあの部屋へと招き、短くも心満ちた一時を過ごしていた…と思われる。
彼女の跡部の邪魔をしたくないという健気な気持ちは尊いが、あまりにも欲がなさ過ぎる…恋人同士なのに。
そう思った瞬間、ずき…と忍足の胸が何故か痛んだ。
(あれ…)
何や、今の…
思いつつも、彼は咄嗟に、相手を引きとめた理由をそれらしく取り繕った。
「き、気ぃ遣ってくれるのは有難いんやけど、跡部のトコロに行ってくれんかな。アイツもお嬢ちゃんに会えた方が嬉しいやろ」
「?…よく分かりませんけど、それがいいなら」
(よく分からんて…俺の方がよく分からんわ)
恋人なのに、ちょっと遠慮し過ぎるんちゃうの…?
違和感を覚えながらも、忍足はそのまま少女を連れて生徒会長室へと向かって行った…
「跡部…あれ?」
「いらっしゃいませんね。行き違っちゃいましたか?」
二人が目的の部屋に到着して扉を開くと、しんとした無人の静寂が彼らを出迎えた。
相変わらず広い空間に、実にエレガンテな調度品が並んでいる…しかも無駄がないので成金趣味のものとも根本的に異なり、ここからも上流との差というものが伺える。
正直、何処かの社長のプライベートルームだと言っても通じるくらいだ。
そんな部屋の中に数歩踏み入り、忍足はくるんと首を巡らせてからすぐに笑って頷いた。
「…いや、じき戻って来るやろ、ほら」
「はい?」
彼が指差した先には、跡部のものと思しきテニスバッグと、一本のラケットが壁に立てかけられていた。
もしかして、バッグから出して素振りでもしていた時間があったのだろうか…?
何れにしろ、それを見た時点で、桜乃も忍足の言葉を百パーセント信用した。
あのテニス狂とも言える若者が、自分のラケットを忘れて部活に向かう筈がない。
「じゃあ、少し待っていましょう」
「そうやな…」
「…忍足さんは、部活はいいんですか?」
「ああ、お嬢ちゃんが口裏合わせてくれたら問題ない…」
そう言った数秒後…はっと我に返った忍足は心の底から己を罵倒する。
(アホか俺っ!! 俺がここに残るてことは『自分らの逢瀬を邪魔します』みたいな意地悪みたいなモノやんか! ここは速効で引くんが男の気遣いってモンやのに!!)
アカン、これで完全に嫌われたで!と内心慄いていた忍足だったのだが…
「いいですよー、じゃあ内緒にしましょうね」
「……」
実にあっさりと何の躊躇いも無く、桜乃はにこりと笑って相手の提案を受け入れた。
「…は?」
「ここまで案内して下さいましたから、忍足さん。跡部さんが来るまでゆっくりしましょう」
「……」
何の嫌味もない良い笑顔でそんな事を言う少女を、曲者さえも唖然として見つめる。
おかしいんやないか? 流石に。
同じ学校の生徒同士ならまだしも、そうそう会えん立場の二人なら、そいつらだけで過ごしたいって思うもんやろ?
なのに、この子は別に嘘や建前でこっちを歓迎している様子でもないし、跡部に恋人らしい嫉妬や執着心を抱いとるようにも見えん。
(まさか…恋人やないんか?)
あれだけ跡部が長いこと執着しとって、何度も一緒におる時間作っとって…俄かには信じられんけど…けど…
(…)
ざわ…と心がざわめき、逸る様な感覚に忍足が口元に手を当てた。
(あかん…何考えとるんや、俺は…だって、コイツは跡部の……)
「…忍足さん? どうかしましたか?」
いきなり無言になった相手に、桜乃が振り返って微笑む。
彼女の笑顔がいつもより眩しいと感じた瞬間、その刺激に衝き動かされた様に忍足は相手に尋ねていた。
「なぁ、お嬢ちゃん…その、なぁ」
「はい?」
「……最近、跡部とはどうなん?」
「? どうって…?」
「あー、いやその…だから、恋人として、上手くやっとるんかなーって」
結局、あからさまな言葉で尋ねる形になってしまったが、回りくどい言い方で的の外れた答えを返されるよりはいいかもしれない。
そう思いながら相手の返事を待った男だったが…
「……恋人?」
「そう」
「…ええと、誰がですか?」
「お嬢ちゃん」
「誰の?」
「誰の…って、そりゃ跡部に決まっとるやろ。自分、ちょっとボケ過ぎやで」
いつの間にか、質問者と回答者が真逆になってしまっている。
どうなっとんのや…と思っていると、その忍足の前で桜乃は一瞬ほけっとした表情を浮かべたかと思うと、一気にかぁーっとゆでだこにも負けない程に真っ赤になっていった。
「そそそ、そんなっ…! 私と跡部さんはそんな関係じゃありませんよ!?」
(やっぱり!?)
自分で予想を立てていながら、忍足はそれでも相手の言葉をそのまま信じる事は出来なかった。
「え…だって自分、あんなに跡部と一緒におるやん」
「だってそれは、氷帝に不慣れな私を気遣って下さっているからです。一人で知らない場所に放置されたら心細いだろうって、このお部屋に…」
(ちゃう! それはあいつがお前さんを独り占めしたいからや!)
心の中で激しいツッコミを入れる忍足を他所に、桜乃は如何に自分達が恋人という間柄とは無縁であるかを力説する。
「私がここに来るのも、あくまでお祖母ちゃんの代理ですし!」
(そう仕向けとるのは跡部やねんけどな)
「さ、榊先生はお忙しいし、跡部さんはテニス部の代表ですから、会うのは当然ですしっ!」
(監督より部長の方がよっぽど忙しいねんけどな〜…跡部がそう言い訳しとるんやろな〜)
「それに跡部さんは生徒会長だし、部長だし、人気者だし、モテるし、格好良いし、優しいし…っ!!」
「自分、跡部に金でも借りたいんか…?」
まぁこの子になら相当の金額でも大盤振る舞いしそうやけど…と思いつつ、遂に忍足は声に出して突っ込んでしまう。
「そそそ、そういう訳ではっ!!」
必死にそれを否定しながら、桜乃はきっぱりと宣言した。
「とにかく! あんな凄い人が私みたいな凡人、相手にされる筈がありませんっ!!」
(ああ…普段の派手さが思いっきり墓穴になっとるで…跡部)
でも、それは自分の責任や…と忍足は心で忠告する。
傍の道端に咲いとる可憐な花なら手も伸ばし易い…しかし、高嶺の花だと、却って諦めたくなるもんやしなぁ…まぁ、この子は跡部の事を凄く慕っとるんやろうけど…憧れの気持ちの方が強いんやろな。
それもまた一つの『好き』という気持ちではあるんやけど、本人が気付いとらんならしょうがないか…
「あーあー、分かっとるて…そんな子やないもんな、お嬢ちゃん」
両手をぱたぱたと振り回して必死に否定する小柄の娘を眺め下ろしながら、忍足は笑った。
笑いながら…曲者としての思考が頭の中で物凄い速さで巡るのを自覚する。
そうか、この子、まだ跡部とはそんな仲にもなってなかったんか…アイツに先越されたて、ちょっと悔しく思てたりもしたんやけど…
恋人達の間に割り込む様な野暮な真似はせんつもりやったけど、そういう気遣いは無用っちゅうことか…
それとももしかして、跡部の方が本当に彼女を友人の一人としてしか看做してないのだろうか。
恋人ではなく、気軽に話し合える女友達…確かに今のあいつにそういう存在はいない。
それなら、俺でも…まだ、資格は残されとるってことやろ…?
「……」
氷帝一の曲者は沈黙した。
そしてその静かな世界の中で、彼は考える…ひたすらに考える。
この子の心を惑わせる事はしたくなかったけど、まだ惑う程にも進展していないのなら、攻めてもええよな…
「…忍足さん? どうしたんですか? 何だか今日はいつもと少し違いますね」
「なぁ、お嬢ちゃん」
気遣ってくれる相手の視線を真っ直ぐに見返しながら、忍足は少しだけ口元に笑みを浮かべつつ尋ねた。
「跡部とそういう関係やないんなら…俺なんてどうや?」
「え?」
「お嬢ちゃん、可愛いし…めっちゃ俺の好みやねんけどな」
「!」
え…と少し戸惑いの混じった、驚きの表情で桜乃が男を見つめる。
忍足は、こう言っては何だが、氷帝の中でもかなりの美男であるし、女性に対しても優しいフェミニスト。
しかし優しくはあるが、女性にだらしないという訳でもなく、そこは普通の男子よりも寧ろきっちりと区別している堅気の男である。
だからこそ、彼は氷帝内外の女性に人気が高いのだ。
そんな彼から、ここまで積極的なアプローチを受けたなら、普通の女子であればそれだけで卒倒モノの幸せなのだが、果たして桜乃は…
「ふふっ…忍足さんったら、お上手なんですから」
「ん…?」
「跡部さんも忍足さんも、流石、氷帝で女性に人気者なだけありますね。女性への心遣いもとてもスマートで、貴族みたいです」
(……やっぱり)
心遣いて言うか…本気ではあったんやけど、まだ早いか。
相手はまるで本気と受け取らずに、お世辞として忍足の言葉を受け止めたが、それは彼にとっては予想の範囲内であった。
(…かなり呑気な子みたいやからな……ここは長期戦覚悟でいこか)
確かに、彼女と自分は今まで接点らしいものは殆ど無かった。
桜乃がここを訪れた時に跡部の処に案内する役目は殆ど自分が担っていたが、それでも短い道程の間、軽く雑談を交わす程度だったのだ。
そんな友人、知人レベルの人間が、いきなり真面目に交際を迫ったとしても、それはほぼ間違いなく引かれる上に最悪避けられかねない。
女心というものは柔らかな宝石だ。
美しい輝きに目を眩ませて扱いを誤れば、取り返しのつかない傷をつけてしまうことになる。
だから優しく…時には強引でも細心の注意を払いながら、ゆっくりと己の手の中に握ればいい。
(まぁ、一筋縄ではいかんやろうけどなぁ…この子も、そして…)
「何してやがるんだ? 忍足」
思っていた忍足の背後から、冷えた声が聞こえてきた。
振り向かなくても分かる…気配は察知していた。
そこに、氷の帝王が来ていることを。
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