「あ、跡部さん」
 振り返り、忍足よりも遅く相手の存在に気付いた桜乃が、いつもと変わらずに屈託なく笑って挨拶すると、部屋の扉の傍に立っていた帝王は、少女の目を見て軽く頷いた。
「ああ、竜崎…来たのか」
「お祖母ちゃんからのお届けものです」
「そうか、ご苦労だったな」
 とことこと自分の傍に歩いて来る少女に労いの言葉をかけながら、相手の差し出した封筒を受け取ると、彼はいつもの様に傍に控えている樺地に顎をしゃくりながら命じた。
「樺地、コーヒーを煎れてこい。喉が渇いた」
「ウス」
「あ、私も手伝います、樺地さん」
 早速桜乃が挙手し、それから跡部に確認する。
「いい、ですよね?」
「…好きにしろ。お前が毒盛る様な度胸がない事ぐらいはお見通しだからな」
「もっと平和な学生生活を送りましょうよう…」
 誰がそんな事するんですかぁ…と、くすんと小さく嘆きながら、桜乃は樺地と連れ立って、部屋近くに備え付けられている給湯室へと向かって行った。
 そして、その場に忍足と跡部が残り、この状況を作るように仕向けた帝王が、氷の様な瞳を相手へと向ける。
「…で、何してたんだ、忍足…あの子に」
「…ちょっとばかり探りを入れとっただけや」
「探り?」
「お嬢ちゃんに、ええ人がおるかどうか」
「……」
 忍足の言葉が自分の考えていたものとそう違いが無かったのか、跡部は特にうろたえる事も無く、感情を露にする事もなかった。
 向こうが静かに聞き入っているのを幸いに、忍足は続けた。
 跡部も本当は聞きたい筈だ、当たり障りの無い言葉など、慰めにも気休めにもならない…それどころか、この男にとっては癪に触るだけだろう。
「…お嬢ちゃんはええ子やな…優しいし、気が利くし、可愛えし、脚もあんなに綺麗で細くて、俺、めっちゃ好みやわ」
「何が言いたい」
「あの子、恋人がおらんのなら、俺の恋人にしよか思て」
 その堂々とした宣言も、曲者の策略か…
 その時初めて氷の帝王の瞳に微かな感情の色が宿り、彼はその色を隠すように目を閉じて忍足に忠告した。
「やめておけ」
「何で?」
「わざわざ失恋する事もないだろう」
「まだ決まったワケやない」
「決まっている」
 忍足に跡部は即答して、ふ、と瞳を開き、断言した。
「アイツは俺の女になるからだ」
「でも恋人はおらんて…」
「まだこれからの話だ」
 すぱすぱと忍足の追及を言葉で次々と切り捨ててゆく跡部は、確かにそうしようという意志は明らかだ。
 と、言う事は、彼女をただの知人として看做していたという可能性も無くなる…やはり、この男も彼女を狙っているというのは間違いない、それなら何故…?
「しかしそれにしてものんびりしとるんやなぁ、跡部、お前ともあろう男が…狙った獲物をそういつまでも放っとく様な男やったか?」
 欲しいものなら無理やりにでも手に入れる男が、どうしたワケや…と訊いた時、跡部の表情が揺らいだ。
「……」
 何も語らず、僅かに唇を噛み締める様な…そんな苦しげな表情を浮かべて、帝王が窓の外へと視線を逸らす。
 そんな親友の仕草を見て、忍足がは、と瞳を見開く。
 まさか…このいつも自信に満ち溢れている、俺様気質の男が…
 強気に攻められん程に、相手を想っとるってこと、か…?
 無理強いで、相手に嫌われる事を、避けられる事を、怖れてしまう程に…!?
「跡部…お前がまだあの子を自分のものにしとらんのは…」
「…別にがっつく必要もねぇだろ。この俺様が」
 そうは言うが、忍足には、相手の本心が垣間見えた気がした。
 欲しくて欲しくて仕方がない、思い切り抱き締めて愛したいのに、だからこそ触れる事すら躊躇ってしまう、怖れてしまう。
 誇り高く、常に頂点だけを見ている帝王には、それが恐れである事すら気付いていないのかもしれないが……それだけ、想いが強いということ。
「……本気、なんやな」
「……」
 それには無言で返した跡部は、窓の外へと流していた視線を再び忍足へと向ける。
 そこに嫉妬や敵意という醜い感情は存在しない。
「…忍足、お前の感情はお前のものだ、俺にそれを止める権利はねぇ。アイツを狙いたいなら好きにしな、但し…」
「…但し?」
 一度言葉を切った跡部は、続けて不思議な台詞を述べた。
「……後で吠え面かくなよ」
「は?」
「…お前も超天然の恐ろしさを知るがいい」
「え?」
 どういう事…と聞く前に、そこに出払っていた桜乃と樺地が全員分のコーヒーを煎れて戻って来た。
 取り敢えず、二人だけの秘密の話はここで終了…
「ただいまです」
「ああ、戻ったか」
 彼らが何を話していたかなど、まるで知りもせずに桜乃はにこにこと笑いながら、彼らにコーヒーを運び、手渡す。
「どうぞ」
「ありがとな、お嬢ちゃん」
「どういたしまして」
 にこ、と一際深い笑みを浮かべて答えてくれた少女に忍足も微笑を返し…ああ、と軽く頷いた後に彼女に尋ねた。
「ところでなぁ、お嬢ちゃん。さっき跡部と話しとったんやけど…俺達ってお嬢ちゃんからはどんなイメージがあるんやろ?」
「イメージ?」
 跡部の許可というものではないが、それを受けた以上は堂々と勝負!
 そうなると、丁度良く当人がいるのだから、リサーチをしないと…と忍足は更なる探りを入れ始めた。
「そう、恐そうとか、近寄り易いとか、色々あるやん? 俺達って、お嬢ちゃんには一番最初に浮かぶイメージではどんなや?」
「…う〜ん」
 桜乃は相手の言葉を純粋に受け止め、む〜っと天井を眺めながら考えた。
 そして、先ずは忍足に向いて一言。
「…忍足さんは、私の知る男性の中で、『一番女性に優しい方』ですね」
(わー、ビミョーッ!)
 それって、相手に優しくしてもそれが当然だと受け止められてしまう、報われないパターンやないの?
 しかも天然なら尚更気付かせるのにも苦労しそうやし…と忍足が早速悩んでいる間に、今度は彼女は跡部に振り向いた。
「跡部さんは、私の知る男性の中で、断然『一番高みに上がっている方』ですね。もう、到底手が届かないくらいの高みに」
「……」
(うっわぁ! 更にビッミョ〜〜〜〜〜ッ!!)
 自分の時より遥かに大声で忍足が心の中で叫ぶ一方で、跡部はそれこそ微妙な表情で腕を組み、沈黙を守っていた。
 嬉しい評価であり、妥当な見識でもあるのだが…この寂しさは一体何だろう…
 自分としては対等な位置に立って手に触れてほしいのに、物凄く尊敬して評価してくれているが故に、高みを見上げられているだけの状態になってしまっている。
 性格上、その高みから降りることなど出来ない、帝王であるが故のジレンマ…
「…で、樺地さんは…」
 残っているのは、いつも寡黙な樺地である。
 向こうは相変わらず何を考えているのか分からない表情だが、特に桜乃の思考を止める事も無く、寡黙に徹している。
「跡部さんの指示を、どんなものでもいつも完璧にこなしていらっしゃって、凄いです。『一番、頼りになる人』かな」

(何だこの敗北感…!!)

 何か、三人の中では一番評価が良さそうなんですけど!?
 理不尽だ!と思っている彼らの空気を察したのか、樺地が僅かに居心地悪そうな様子を示したが、相変わらず何も言わない。
「…樺地、先にコートに行って準備しておけ」
「ウス」
 いつもよりやや沈んだ声の調子だったが、跡部の言いつけに忠実に従い、樺地はそこから出て行った。
 そして跡部は、口を開いたそのついでだと言わんばかりに、今度は桜乃へと振り返る。
「…高みにいる奴は最初からそこでふんぞり返っていたワケじゃねぇ。そこに居る事が出来るということは、そいつがそれだけの努力をしてきたからだ。お前は俺を高みにいると言うが、本人に登る気がないならそいつは一生そのままだ。相手を評価するのもいいが、お前も少しは近づく努力をしろ、そうしたら…」
 そこで言葉を切った帝王は、すぅと軽く息を吸って、ゆっくりと相手に諭す様に言った。
「俺はいつでもお前の手を取る気でいるんだぜ…?」
(おっ…!)
 しまった、先を越されたか!と忍足が一瞬、動揺する。
 もしかして、自分というライバルが出てきたから、一気に勝負を仕掛けてきたのか!?
 しかし今更相手の発言を引き戻す事も出来ず、忍足は無言でその成り行きを見つめる。
「え…」
 一瞬、ぽ…と頬を染めた桜乃は言葉を失い…それから顔を少し俯けて頷いた。
「そうですね、私も頑張らないと…人を褒めているだけじゃ、自分は成長出来ませんから。あの、私も出来るだけ頑張ります、もっともっと高みに行ける様に、跡部さんのいる場所に追い付ける様に努力しますから…」
「!」
 微かに跡部の瞳が開かれ、その身体が揺れる。
 もしかして…この子、ようやく…?
 期待を込めて見つめる中、桜乃は照れた笑みを浮かべて跡部を真っ直ぐに見上げる。
「その時には…跡部さん…」
「あ…ああ?」
 遂に願いが叶うのか…!?
「もっと高いところから、私を見守っていて下さいね!」

「………」

 その高みから、一気に奈落の底まで突き落とされた気分だ……
「……」
「あ、あれ? 跡部さん…?」
 窓枠に手を付き、外へと身体を向けながら深い溜息をついてしまった若き帝王に、娘が驚いて声を掛けたが、その相手をもう一人の若者が引きとめた。
「あーいやいや、お嬢ちゃんの心意気に感動しているだけやから!」
「そ、そうですか? 跡部さんの努力に比べたら、私なんて…」
「人の評価は素直に受けとき。それと、自分、もうちょっと自信持ってもええと思うで?」
「はい…?」
「可愛いんやから、もっと自信持って…えーと、たまには遠慮せんで甘えてもええと思うんや…特に俺とか跡部には」
「はぁ…」
(…て、何で俺が敵に塩送る様な真似しとんのや…)
 ありえへん、と思いつつ、忍足はそこは堪えてあくまでフェミニストらしく振舞う。
「…竜崎、お前も先にコートに降りろ。少しぐらいは見学していけ」
「はい、跡部さん。じゃあ、お言葉に甘えて…」
 微笑み、彼に言われるままに少女が出て行ってから暫く…他の人目が無くなったところで、男二人はほぼ同時に溜息をついた。
「…まぁ万事が万事、ああいう調子だ」
「確かに恐るべきボケっ娘やな…」
 帝王の苦悩を察した曲者は、それから少しだけからかう様な笑みを浮かべつつ相手に訊いた。
「しかしそれなら尚更、俺が入ったら大混戦やなぁ…なのにそんなに余裕かましとって、万一あの娘が俺に取られてもうたら、自分、俺と友人続けられんのか?」
「あ? 何言ってんだ、お前」
 忍足の宣戦布告に、逆に帝王は訊き返す。
「俺が勝ってお前を労う事は決まってるのに、何でそんな事心配しなきゃいけねぇんだ?」
(ああ、こういうヤツやったなぁ)
 心配して損したわ、と思っていると、更に跡部は続けた。
「もし万一…あり得ない話だが、俺が負けたとあっても、それは勝負の話だ。俺の実力が至らなかっただけの事で、それと友情とは別物だろうが。それに今更、そんな事で崩れるほど安っぽい友情なんざ持った覚えはねぇな」
「!…成る程なぁ」
 そう来ますか…流石に器のデカさは認めてやらんとなぁ…
 思いつつ、忍足は少しだけ自嘲の笑みを漏らした。
(けど…ちょっとこの恋…俺には最初から不利かも)
 さっきのあの時…跡部があの娘に手を差し伸べる言葉を述べた時…あの子は頬を染めて俯いていた。
 あれは、単純に恥ずかしかっただけでなく…どう見ても恋する乙女のそれやったと思うんやけど…?
 弱気になってしまいそうなところを、男は早々に気を取り直す。
 弱気はいけない…女性に対しては優しくしても、恋敵にまでそれを通す必要は無い。
(いや、まだまだこれからや…俺が本気になったら、この差ぐらいなら取り返せるやろ)
 こいつとの友情はまた別のもの…そう思えたら、俄然、本気になってきた。
 まぁ、取り敢えず…
「…お互い、頑張ろうな」
「そうだな……ったく、俺達ぐらいだと思うぞ、恋敵同士でエール送りあうってのは」
 もしかして、真の敵はこの恋敵ではなく、あの超絶天然娘なのでは…と思えてしまう、微妙な心境の二人だった……






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