我がものとなれ


 或る日、桜乃の許に一通の招待状が届けられた…

「ダンスパーティー?」
「ああ、跡部が自分の学校の生徒を集めて、自分の家でやるらしい。相変わらず、派手好きな男だねぇ」
 その夜、招待状を受け取った桜乃は、どういう事なのか分からずに祖母に尋ねていた。
 招待状に記載されていたのは、これから約一週間後の休日。
 夕刻の時分に、跡部の家に来るようにという簡素な文字が綴られていた。
 流石に招待状なので、いつもの俺様口調によるものではなく、あくまで丁寧な文面だったのだが、あの若者から届けられたとなると拒否することは認められないだろう。
 しかし、桜乃に分からなかったのは、そんな招待状がどうして自分にまで届けられたか、という事だった。
 差出人は、跡部景吾。
 跡部財閥の御曹司であり、青学の男子テニス部のライバル校である氷帝学園の生徒会長。
 生まれついての帝王、社交界のサラブレッド…とにかく彼という存在には常に『上流』という文字が付いて回る。
 確かに跡部とは見知った仲である。
 祖母の代理としてこれまでも氷帝に何度も足を運び、書類などを届け、その度にあの若者と会って会話も交わしている。
 自分が向こうに不慣れなこともあってか、彼はこれまでも自分にはよくしてくれていたし、自分もつい彼の優しさに甘えてしまう時もあった。
 しかし、それはあくまでも代理で行った時の話であり、自分自身は直接彼との繋がりはないのだ。
 そもそも、学校からして違うのに、どうして自分にまで招待状が…?
「…何かの間違いかなぁ」
「よくご覧、しっかりお前の名前が記されているじゃないか。あの男がそんなヘマをやらかすもんかね」
 早速ボケている孫に、祖母である竜崎スミレは呆れた口調で注意した。
 夕食の後、居間でくつろいでいた彼女の元に来た桜乃は、おどおどとした様子でスミレに向かって招待状を見せてきたのだが、実はスミレはその招待状を見るのは初めてではなかった。
「名目上は氷帝の生徒達を集めてのものだが、特別にウチのテニス部の奴らも招待されているようだよ。手塚達も受け取っている様だし、学校でも同じ物を見せてもらったよ」
「え…そうなの?」
 知らなかった…てっきり氷帝の人達だけの集まりかと…
 きょとんとする孫の前で、スミレは新聞に目を通しながらお茶を啜る。
「テニス部に関わりがあったからお前も招待されたんだろう。確かに、色々と手伝ってもらっているし、関係者と思われていてもおかしくはないさ。折角の機会だ、行っておいで」
「え…で、でも…私ドレスなんか持ってないし、ダンスだって踊ったことないし…」
 孫の弁明など予想の範疇だとばかりに、スミレはあっさりとそれに答えた。
「ドレスなら跡部が用意してくれるそうだよ。ダンスに関しては、ウチの学校の〇▽先生が社交ダンスを習っていてお手の物らしい。ウチの部員どもにもダンスなんて洒落たものが出来る甲斐性がある奴はいないから、暫く放課後を使って特訓してもらう。そこにお前も混ぜてもらったらいいだろう」
「あう…」
 断る理由がことごとく打ち壊されていき、桜乃は言葉に詰まってしまった。
 確かに、向こうは純粋な好意で誘って下さったのだろうし、それに対し理由なく欠席するというのは失礼にあたる。
 ここまで準備が出来ているのなら、やはり参加するのが筋なのだろうが…
(ち、ちょっと…て言うか、かなり恥ずかしいんだけど…人前でドレス着るなんて。それにダンスって…やっぱり男性と踊るのよね…)
 そうなると、必然的に手が触れたりするってことで…
「〜〜〜〜〜…」
 これまで男子と手を握ったこともない桜乃は、祖母との会話の後、自室に戻るまでの間に、自分の想像で顔を紅潮させてしまう。
(い、一般人には馴染みのない事ですよう、跡部さん〜〜)
 氷帝の生徒は慣れているのかもしれないけど、少なくとも庶民の私には全てが初めての経験なんです…と、心の中で訴えたところで、桜乃ははた、とある事に気付いた。
「…あ、そっか、フォークダンスみたいに順番に踊るワケじゃないから…こういうのって、パートナーがいるのよね…?」
 運動会のマイムマイムとはワケが違うんだし…
 貧困な発想力をフル稼働させて、桜乃は煌びやかなシャンデリアの下で踊る紳士淑女たちを想像する。
 その中に混じって踊る自分の手を取ってくれるのは…誰だろう?
(跡部さんなら、相手が誰でもそつなくこなしそう…って言うより、あの人しか目立たなくなるわね……まぁ、他校の自分はお呼びじゃないだろうし…)
 帝王の隣を狙う女性達の熾烈な争いは、それはそれで見ものかも…と、完全に人事と考えていた桜乃は、やはり、というか無難な結論に落ち着いた。
(…やっぱり、リョーマ君かな…)
 自分がテニスをする切っ掛けにもなった、生意気な一年ルーキー。
 部員が誘われたということであれば、当然、レギュラーの彼も招待はされている筈だし…
(べ、別に、恋人とかそういうのじゃないけど……受けて、くれないかな)
 恋人じゃないけど…憧れている人だから。
 彼と一緒に踊れるなら、ダンスパーティーも楽しい思い出になるかもしれない…


「あの…リョーマ、君…?」
「ん…?」
 祖母が教えてくれたダンスの特訓に早速参加していた桜乃は、他の青学の部員達が四苦八苦しながらダンスのリズムを覚えている合間に、さり気なく同級生の若者の方へと近づき、こそりと声を掛けた。
 いつもの様に、向こうは猫の様な大きな瞳をして、話し掛けた時には先輩方の様子を眺めていた。
「なに?」
「…た、大変だよね…急にダンスパーティーって言われたけど…覚えられそう?」
「……覚えないわけにいかないでしょ」
「…そか…そう、だよね」
「……」
 相変わらず、無口と言うか、取り付く島のない様子の少年に、桜乃は早速出鼻を挫かれる。
(ああ…何だかまたいつものパターン…私が優柔不断なのもいけないんだけど…)
 いつもこうだ。
 話したいことがあるのに、それを上手く伝えることが出来なくて…私はいつもこうして戸惑ってばかりいる。
 変わりたいのに。
 この人みたいに、自信を持って生きたいのに…いつも自分でその一歩を止めてしまう。
 でも、今日は、いつもよりもう少しだけ自分を奮い立たせて…!
「あのっ…リョーマ君」
「? 今度はなに?」
「私も…一生懸命、覚えるよ、ダンス……だから、ね…その…」
「…?」
「よかったら、パーティーの時に…パートナーになって、くれないか、な…?」
「パートナー?」
 桜乃が必死に搾り出した言葉は、相手には何気ない頼みのそれとして届けられ、彼は言葉を繰り返しながら少女を見た。
 相手は、緊張の極みにあるのか、顔を微かに赤くして俯いている。
 そんな少女の胸が、激しい動悸に耐えている事を知ってか知らずか、越前リョーマは暫く沈黙を守る形で考えていた。
 そして、出した答えは…
「…悪いけど」
 遠慮という衣を纏った、拒絶の言葉だった。
「!」
 緊張で興奮し、熱かった顔の熱がすっと引いていくのが分かる。
 それと同時に、パニックに陥りそうな程に混乱していた自分の思考が、一瞬の静止の後、信じられない程に冷静に回りだした。
「…え?」
 それでもまだ相手の言葉が信じられなくて、信じたくなくて、桜乃は思わず聞き返していた。
 今のは、私の聞き間違い?…それとも…本当に…
 聞き返された若者は、視線を先の先輩達に戻しながら、今度も同じ主旨の言葉を継いだ。
「決まった相手を連れると、後で何か色々と言われそうじゃん…そういうの面倒だし、誤解を受けるような事は、やりたくないんだよね」
「……」
 確かに言い分としては理解出来る台詞だったが、冷静になっていた桜乃にとって、それは決死の告白を拒絶されたのと同義語だった。
(誤解、受けたくないんだ……『私』とは…)
 噂になんかなりたくないんだ…『私』とは…
 私なんかが傍にいても…リョーマ君の迷惑にしかならないんだ…
(……そうだよね)
 何、思いあがっていたんだろう、私…義理で招待されただけで…一緒の舞台に立てるなんて…
 桜乃は、落ち込みながらも自分をそう戒めた。
 ずっと、これまでの人生でもそうしてきた。
 思い通りにならないのは、自分の力が何処か至らなかったのだ、と。
 そうやって、自分を納得させてきた。
 越前がそこまで桜乃を否定した訳ではないかもしれない。
 ただ、年頃の少年らしく、そういう面で積極的になれなかっただけなのかもしれない。
 しかし、拒絶の言葉を受けたばかりの桜乃が自分の思考を保つには、己を貶めるいつものやり方に縋るしかなかったのだ。
「…竜崎?」
 もしかして気分を害したのか…と、越前がそこでようやく相手に注目すると…
「…うん、分かった」
 にこりと…何事も無かった様に微笑む桜乃が、自分を見ていた。
「ごめんね、無茶言って……確かに、そうだよね」
 その笑顔で、越前は完全に騙される。
 いや、よく見ておけば気付いたかもしれないが、彼は無意識の内にそれを放棄していた。
 面倒ごとは、好きじゃない…このままで済むことなら、このままで済ませよう。
 竜崎も納得してくれたみたいだし…と、彼はその話題について自己完結し、話を切り上げると、先輩達の方へ歩いて行った。
 丁度、彼らの番が終わり、自分の順番が回ってきたのだ。
「……」
 少年が、借りている教室の中央に行ってしまう姿を見送りながら、桜乃は全身の力が抜けていくのを感じていた。
(ああ…何だか、どうでも良くなっちゃったな……)
 一緒に踊れる事を少しでも期待していたから…それだけで心は浮き立っていたのに…
 ここまであからさまに拒絶されたら、寧ろさっぱりしちゃった感じ。
 悲しいとさえ思わない…まだ実感が沸かないだけかもしれないけど。
(ダンスパーティー…か…きっと壁の花で終わるんだろうなぁ…)
 ダンスは覚えても、一緒に踊る殿方がいないなら、舞台に上がるなんて無理だもの……


 某日、跡部邸…
 学園内の全ての生徒が楽に入る事が出来るほどのダンスホールは、鮮やかな色彩を彩るシャンデリアに照らされ、一時の夢の世界を創り出している。
 過去にここに呼ばれた生徒も、今回初めて参加した生徒も、皆一様にその施設の豪華さに感嘆しては溜息を漏らしている。
 氷帝は跡部程ではないものの、世間でも社会的地位が高い家の子息や令嬢が多いのか、参加している彼らの殆どは自前の衣装を身につけて来ているらしい。
 社交ダンスも学校の授業に組み込まれているというのだから、普通の中学とはやはり一線を画していると言ってもいいだろう。
 訪れた桜乃は、改めて相手の家柄の違いとそのスケールの大きさに驚くばかりであったが、きょろっとホールの内装を見回しているところに声を掛けられた。
「竜崎桜乃様」
「あ…はい?」
 振り返ると、跡部邸の執事と思しき老人が、恭しくこちらに一礼をしている。
「景吾様より伺っております。ドレスの準備をしておりますので、どうぞこちらへ」
「は、はい…」
 そうだった…ドレス、貸してくれるってお話だった…
(…うう、大して踊ることもないのに、クリーニング代が…)
 とは言え、まさか『クリーニング代が勿体無いから、着れません』なんて言う訳にもいかず、桜乃は大人しく執事に付いて別室へと通された。
 そこにはメイド達が控えており、桜乃は早速準備されていたドレスを纏ってゆく。
 肌触りのいいシルク仕立ての白のドレスは、目にうるさい派手な装飾はないシンプルな形の代わりに、光が当たると施されている刺繍がさり気なく浮かび上がるという、さり気ないお洒落心が隠されている一品だった。
 見た目からも非常に高価だろうという事は予想出来たが、こういうモノをあっさりと他人に貸し与えることが出来るのが跡部家だ。
(…ドレスを借りるゲストなんて、そんなにいるとも思えないけど…まぁ、ホストの立場なら万全の体制を整えるのもマナーなのかな…)
 おさげもこの時は解禁し、美しく流れる黒髪を遊ばせつつポイントポイントで結い上げ、髪飾りで飾り立てる。
 普段の地味な姿とは一変し、桜乃は一時だけの魔法を掛けられた花の様だった。



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