「景吾様には、お伝えしておきます」
「? 有難うございました」
 執事の言葉に疑問を持ちながらも、桜乃は礼を述べるに留まり、再びホールへと戻る。
 見た目は派手になったものの、それで性格まで変わる訳でもなく、彼女は相変わらず内気なままこっそりと人影に隠れてしまった。
(跡部さんに伝えるって…着替えたってことをかな…)
 そこまで徹底しているなんて、凄いというかやり過ぎと言うか…
 変なところで感心している間に、ホールの中央ではもうダンスが始まっていた。
 見たこともない顔ばかりなのは、別の学校の生徒なら仕方がない。
 向こうは、知己も多いだろうからダンスにも誘い易いのだろうけど…どうやら青学で誘われたのは女子では自分だけの様だし…
(うーん、やっぱりちょっと場違いかも……)
 折角綺麗なドレスを貸してもらったのに…と、桜乃はしょぼんと肩を落としつつ、ホールで美しいターンを見せる女生徒達を眺めた。
 色とりどりの花が、ホールに咲いている。
 とても楽しそうに踊る彼女たちを、桜乃は溜息をつきながら見つめた。
(いいなー…ああいう人達が『お嬢様』っていう人達なんだろうなぁ……私もああいう風になりたいなぁ…)
 はぁ…と息を吐き出す少女は、今の自分がどれだけ麗しい姿をしているのか、まるで分かっていない様子だった。
 先日、越前にパートナーを断られてしまったことが彼女の心に微かな翳りを生み、それが更に彼女を壁際へと追いやっているのだ。
 そんな娘が、一度、磨き上げられた床へと視線を落とし、それから再び顔を上げた時、目の前に誰かが立っていた。
 白が基調の、糊が利いたタキシード。
 自分の着ているドレスの様に、紋様の刺繍が縫い込まれているのが分かる。
 その見事な仕立てに目を奪われ、桜乃が相手の顔に視線を遣るのが遅れてしまった間に、向こうから声が掛けられた。
「壁の花か?」
「…っ」
「…折角の装いなのにな」
 は、と顔を上げると、見覚えのある勝気な笑顔が自分を見下ろしていた。
 今日のパーティーを主催した人物…跡部景吾だ。
「跡部、さん…」
 うわぁ…王子様みたい…
 こんな素敵なホストに迎えてもらえたら、きっとどんなゲストも満足して帰るだろうな…と、ぼーっとして見蕩れていると、相手の若者はやれやれといった表情で言った。
「探したぜ。先生達に挨拶を済ませてようやく自由になったと思ったら、今度は肝心のお前がいねぇ…こんな事なら、俺が迎えに行くまで控え室に引きとめておけば良かったな」
「え…?」
 何の話…?と思っていると、桜乃の前に相手の手が差し出された。
「…来い」
「?」
「踊るぜ」
「え!?」
 えええええ!?
 内心、驚愕の声を上げながら、桜乃はその装いに似合わずぱたぱたと手を振り回した。
「い、いえいえそんな! 私なんかが跡部さんと一緒に踊るのはあまりに筋が違うと言うか立場が違うと言うか! 私はこっそり草葉の陰から見守っていますからどうぞごゆっくり〜…!」
「お前、やけに今日は卑屈だな」
 最後の台詞はどう考えても使いどころが違うんだが…と思いつつ跡部は冷静に指摘したが、桜乃の前から動こうとはしない。
「……どうした?」
「……」
 何があった、と尋ねる相手に、桜乃は語ることも出来ずに無言を守る。
 それでも、相手の台詞に身体は反応し、遠くで先輩達と並んで立っている越前に視線を送ってしまった。
 人は心の不意を突かれた時、問われたものに関わる何かに注意を向ける習性がある。
 相手がただの中学生なら見逃したサインだっただろう。
 しかし『眼力』を持つ跡部であった時点で、桜乃の負けは確定していた。
「…はん、成る程な…大体読めた」
「はい…?」
「つまり…お前は今日のパートナーに越前を誘ったが見事に断られ、断られついでに自信も失って、この際『壁の花』に徹しようと思ってここに来たワケだ」
「!!」
 否定する箇所が一つもない…
 全ての急所を遠慮なく突かれ、桜乃は全身を硬直させながら相手をまじまじと見つめた。
「カッ……カメラ仕掛けてませんか…っ?」
 図星か…相変わらず単純すぎて読みやすい奴だ…
「この程度読むのにそんな物要るか、俺の『眼力』を舐めるな」
 呆れた様にそう吐き捨てた後、跡部は少し考えて付け加えた。
「…特にお前に関してはな」
「え…?」
「いいから行くぞ。いつまで俺をバカみたいに突っ立たせておくつもりだ、お前」
「ええ…?」
 ほら、と促すように再び差し出された手に、桜乃は何も考えずについ自分のそれをひょいっと乗せてしまう。
 まるで子犬が『お手』と言われた様な感覚に近いものだったが、それでも周囲からは二人に讃美の視線が注がれていた。
『誰かしら…あの子。氷帝の生徒じゃないの?』
『見たことないな…会長の知り合い?』
 ざわざわと周囲がざわめく中で、桜乃が我に返った時には、彼女は跡部にリードされながらホールの中央へと連れ出されてしまっていた。
(えええ〜〜〜〜〜っ!?)


(うわああぁぁぁ…! 何だかとんでもないコトになってるぅ〜〜!!)
 心の中が混乱してどうしようもなくなっているのに、身体はしっかりとダンスのリズムを刻めているのは特訓の成果なのだろうか。
 とにかく、ホール中央に連れ出されてから、桜乃はずっと跡部の相手をしてその場で踊り続けていた。
 煌くシャンデリアにライトアップされた舞台。
 乙女ならば夢見る世界かもしれないが、桜乃にとっては夢見る余裕もない場所だ。
 多くの生徒達に注目されながら踊るなど、ここに来て跡部に手を取られ、連れ出されるまでは想像もしていなかった。
 ずっと静かに目立たずに、最後までそれを通そうと思っていたのに…
 踊りを放棄する訳にはいかないので、桜乃は何とか隅へ隅へと跡部を誘導しようと動くのだが、向こうはそんな相手の思惑など見抜いているとばかりに、ここぞという時に絶妙なターンで再び中央へと戻してしまう。
 何度目かの少女の企みがやはり失敗に終わった時、跡部が面白そうに唇を歪めながら桜乃へと顔を寄せて囁いた。
「みんなが、お前を見ている…俺と踊るお前を」
「…っ」
 羞恥に頬を染める桜乃の表情を、跡部は見逃さないとばかりに真っ直ぐに射抜いてくる。
 こちらが視線を逸らすことで何とか遣り過ごそうとしていた桜乃だったが、あまりに熱の篭ったそれだった為、遂に根を上げて相手に懇願した。
「あのっ…恥ずかしいですから……あまり、見ないで…」
 恥らう瞳は潤み、睫毛は震え、その頬は薔薇色に染まっている。
「…」
 いつもなら即座に皮肉の一言を返すところを、跡部はこの時ばかりは沈黙を守った。
 しかしやはり、相手から視線を逸らす事はなく、じっと桜乃を見つめている。
「お願いです…跡部さん…」
 更に願う少女に、跡部は優雅に相手をリードしながら答えた。
「何故恥じる必要がある…お前は俺と踊っている女だぜ…?」
「え…?」
「俺が最初に手を取り、俺が最初に相手に選んだ女だ…そいつが何で勝手に恥らう必要がある。おかしいだろうが」
「…でも…」
 いつもの様に自身満々に答える男に対し、逆に桜乃は自分がどんどん小さくなっていく様に感じた。
 違う…私は貴方がそんな評価をしていいような女じゃない…
 だって、私、あの人に…リョーマ君にも…パートナー、断られて…
 そんな彼女の心を早くも見透かしたのか、それまで楽しげだった跡部の瞳が急に鋭さを増したかと思うと、彼は桜乃の腰を抱いていた手に力を込めた。
「お前まさか、アイツに断られたから自分の価値が落ちただなんて思ってねぇだろうな…ああん?」
「っ…!」
「もしそうなら、俺は本気でお前のツラをひっぱたくぜ…寝惚けんのもたいがいにしろ」
「あ…跡部、さん…?」
 気弱な自分をからかっていた男は姿を消し、代わりに帝王としての彼が顕れる。
 気高く、雄雄しく、誰にも媚びない至高の光を内に秘めた、冷酷な帝王…
 その冷たい表情とは裏腹に、瞳には燃えるような感情が宿っていた。
「アイツがお前を選ばなかったんじゃない…選べなかったのさ、下手な目利きの所為で、お前という極上の原石を見抜けなかった…よかったじゃねぇか、そんな鈍らな眼しか持たない奴と早々に縁が切れて」
 勝ち誇った様に、帝王は少女の腰を抱いたまま、優雅に踊ってみせる。
 全ての観客に、二人の姿を見せ付ける様に。
 桜乃を選ばず彼女の手を離したあの少年にも、それがどれだけ惜しむべき事だったのかを思い知らせる様に。
「前を見な、桜乃…お前を選ばなかった奴らを、真っ直ぐに。恥じる事無く媚びる事無く、真っ直ぐに見据えていろ。奴らはいずれ思い知るのさ…どれだけ自分達の目が節穴だったかって事をな…だが、気付いたところでもう遅い」
 くるん…と二人が大きく円を描く。
 曲は佳境に差し掛かり、流れるような動きで二人は息を完全に合わせ、映画のワンシーンの様に滑らかに踊る。
「お前という原石を磨き上げるのは、俺だけだ…他の誰かに譲る気はねえ」
「!」
「俺のものになれ、桜乃」
 柔らかに張られた布の上ですら舞えるように、彼らの足取りは軽く…
 誰にも気付かれることもなく、美しい調べの中で、跡部は桜乃を求めた。
 あくまでも誇り高く、帝王としての己のままで。
「あ、跡部さん…」
「まさか、冗談で済ませるつもりはねぇよな…? この俺にここまで言わせておいて」
 ここまで俺の心を奪っておいて…
「言えよ…俺だけが聞いてやる…」
 曲は終盤に差し掛かり、もうヴァイオリンの音色が小さくなってきている。
 いつもなら、恥ずかしさに耐えられず下を向いていた桜乃が、今は跡部だけを見つめていた。
 不思議だった。
 まるで魔法に掛けられたみたいに、彼から目が離せない。
 跡部の視線が桜乃のそれを捕え、絡め取り、支配しているのか…しかし決して不快な束縛ではなかった。
「私…私は…」
 まだ、全てを受け入れることは出来ない…すぐに自信なんか持てない…
 でも、ここまで私を求めてくれたことが、凄く嬉しい…
 本当に私でいいのなら…貴方が、私を求めてくれるなら…私はそれを胸に、少しずつ、変われるのかもしれない…
 曲が消えようとしている。
 二人で踊っていた足はいつの間にか止まり、他の組の男女達と同様に、曲の余韻の中で見詰め合っていたが、その中で桜乃は彼の男を瞳の中に捕えたままに誓っていた。
「なります……貴方の、ものに…」


 十分にダンスを満喫した後は、桜乃は跡部と共に、バルコニーで一緒の時間を過ごしてした。
「ホストなのに、いいんですか? ずっとここにいて」
「義務は果たした…お開きまでは好きにさせてもらうさ」
 間違いなく、注目度からいって今日の主役は跡部と桜乃なのだろうが、二人は周囲の興味の視線を他所に、彼らだけで語らっている。
 ホールからは様々な人の視線が向けられてきた。
 あの一年生の視線もその中にあったのだが、それと桜乃の視線が交わることはもうなかった。
 彼女の視線は、跡部が完全に支配してしまっていたからだ。
「……」
「俺を受け入れたってのに、相変わらずな奴だな」
「え?」
 自分から少し離れた場所で、遠慮がちに佇んでいた少女に呆れた声で言うと、跡部は相手の腕を掴んで自分へと引き寄せる。
「わ…っ」
「俺と一緒にいる時は、このぐらい傍にいろ…手が届かない場所だと何かと不便だろうが」
「な、何かって…何が不便なんです…?」
 恐々尋ねる少女に、跡部がにやりと意地悪な笑みを浮かべて、思わせ振りに顔を寄せた。
「知りたいのか? あん…?」
「あ、あああの、跡部さん…!?」
 うろたえる桜乃に、すかさず若者がぴしりと指を指す。
「もう一つ」
「?」
「二人の時には跡部じゃねぇ…景吾って呼びな」
「……け、景吾…さん?」
「今ひとつ固いな…まぁいい。いずれ慣れるだろうからな」
 今はそれでもいい、と譲歩してくれた帝王だったが、桜乃はそう言われてもあっさりと受け入れることが出来ない様子で、明らかに戸惑っている。
「で、でも…跡部さんは年上だし、名前を呼ぶなんて恐れ多いと言うかその…」
「……ここに来て、まだテメェの立場を分かってねぇのかお前は。ったく、恐れ入るぜ、そのマイペースっぷりには」
「はい…?」
 桜乃が聞き返した時、跡部は彼女の方へと再び顔を寄せ…
「!?」
 今度はそれを止める事無く、彼女の唇を奪っていた。
「ん…っ!」
 思わず退こうとした桜乃の頭は既に相手に抑えられ、身動きが取れない。
 だから、唇を離すことも出来ない。
「…っ!」
 ぶるっと桜乃の身体が震える。
 凄い…キスって、こんなに凄いものなの…?
 まるで、自分の身体が一瞬で蒸発してしまいそうな程…熱い…
 氷の帝王って呼ばれている人なのに…こんなキスが出来るなんて…
「あ…」
 ようやく唇を解放されても、桜乃は一人で立つことも出来ず、ぐたりとそのまま跡部に身を委ねてしまう。
 向こうは一瞬驚いた様子だったが、すぐに唇を歪めて、そのまま抱き締めてくれた。
「……少しは理解したか? お前が俺の女だって事実を…」
 だから名前で呼べ、と改めて言う男に、桜乃は暫く声も返せなかったが、何とか一言だけを紡ぎ出す。
「…景吾…さん…」
「ああ…そうだ」
 それでいい、と頷きながらも、跡部はまたすぐに苗字呼びに戻りかねない相手に対し、先手を打った。
「もしまた跡部、なんて色気のない呼び方したら…そこが何処であっても、キスをかましてやるからな」
「え…!?」
 ぎょっとする恋人に、跡部は勝ち誇った笑顔で断言した。
「俺はスパルタだからな…お前が俺に相応しい女になるまで、みっちり躾けてやるから覚悟しておけよ?」
「!!!」
 真っ赤になった桜乃を愛しげに見つめながら、跡部はこれから何度、お仕置きと言う名目で彼女にキスが出来るかと、密かな企みを胸に抱いて笑っていた……






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