帝王の恋患い(前編)


「…………」
「…………」
「…………」
 その日、氷帝の生徒会長室には、静かな静かな沈黙の世界が広がっていた。
 在室しているのは、現在はまだこの部屋の主でもある跡部景吾と、彼の親友であり、同じテニス部仲間でもある忍足…そして、跡部に心酔している樺地だ。
 樺地は常日頃から極端に無口であり、何かを言いつけられたりしない限りは口を開かない。
 だから、ここで無口なのは全くおかしくない。
 忍足も、樺地程ではなくてもむやみやたらと口を開いて騒ぐ様な人となりでもないので、まぁ、誰も話さない場所では沈黙を守ることが多い。
 しかし。
 彼らの目の前にいる跡部景吾という男については、今沈黙を守っているのは、性格や趣向によるものではない、断じて。
 では何故か。
 答えは至極簡単明瞭。
 彼本人が、窓の外を眺めたまま、ぼんやりと意識を飛ばしてしまっているからだ。
 心ここに在らず状態なのは、その焦点の定まっていない瞳を見れば一目瞭然だ。
 普通の人間であれば、暖かくなってきた春の陽気に誘われ、つい忘我の境地に至っているのだと想像するに難くない…そう普通の人間であれば。
 しかし、この男…跡部景吾にとっては…
(…ホンマに重症やな〜〜〜)
 有り得ない光景に、忍足が呆れた様な視線を相手に向けるが、向こうはそんな視線に気付く事もなく、相変わらずぼーっと景色を遠く眺めているばかり…
 いや、実際は眺めるという行動にすら至っているのかも不明だ。
 兎に角、こんな無防備な姿をこの男が第三者に晒しているのは、かつてない未曾有の大事件。
 何しろこの若者は富豪の一人息子であり、幼少時より徹底的に礼儀、教養、マナー、帝王学、その他諸々の知識を叩き込まれている超エリート。
 そんな彼が知らない筈はなく、教えられていない筈もないのだ。
 自分ほどの立場の人間は、他人に隙を見せる事すら命取りになりうるという不文律を。
 事実、忍足がこの学園に来て跡部と出会ってから今まで、彼が自身を見失っていたり、呆けたり、油断している姿など見た事がなかった…つい最近まで。
 ただの一度だけだったなら、驚きはするがそれだけで済んでいただろう。
 しかしここ数日ずっとこんな調子だと、流石に相手の不調を疑いたくもなる。
 そして、その不調の原因を、忍足自身よく分かっていた。
「……」
 沈黙を相変わらず守ったまま忍足が樺地に目をやると、向こうは本当に困った様子で跡部の事をじっと見つめている。
 きっと、彼も跡部の初めて見る姿が心配なのだろう。
 かと言って、明らかに精神を病んでいるとかそういう訳でもないから病院にも連れて行く訳にはいかない、その証拠に…

 ばんっ!!

「っ!」
 びくっと跡部が突然の音に肩を揺らし正気に戻る。
「…何だ忍足、いきなり」
「何だはないやろ…」
 ぼけーっとしとってからに、という言葉は飲み込んで、忍足はテーブルをしたたかに叩いた己の掌をそのままに相手を見据えた。
「まだまだ桜は綺麗な時期やけどなぁ…ちょーっと見蕩れすぎやん? 自分。客がここに来とるのに、そっちは無視かいな」
「客? 誰が?」
「ほー…自分の気持ちはよう分かったわ」
「テラスのコーヒー代をケチってここに飲みに来ている様なヤツを客としてもてなせと…」
「あーあー、はいはい」
 ほら見ろ、我に返ったらいつもの辛辣で俺様な男に元通り。
 精神を病んでいる奴がこんな見事な切り返しなど出来る訳がない。
「けどなぁ跡部。自分もう少ししゃきっとせんとあかんで…俺らやからええものの、他の奴らに抜けとるトコロ見られたら、どんな噂が広まるかも分からんからなぁ」
「バカ言え。俺様の何処が抜けてるんだ」
(今度ぼけっとしとったら、ビデオに取って鑑賞会でも開いたろか…)
 この男にとってはこの上ない羞恥プレイになることは間違いない…しかし多分、友情も消えるだろうが。
「…跡部、言わせてもらうけどなぁ、いつまでも女のケツ追いかけるのはお前らしくないで。その女性がどんな美人やったのかは知らんけど、もういい加減忘れえ」
「…………」
 それまで憎まれ口を叩いていた帝王は、その話題を出された途端にぴたりとそれ以上の発言をやめる。
 そして、再びその視線は外の、見事な桜並木に向けられた。
 薄桃色の花弁が、風が吹く度に音もなく散ってゆく…
 その美しい景色の中で、若者の脳裏にはそれらに勝るとも劣らない可憐な女性の姿がまざまざと思い描かれていた。
「……会ってないから言える」
「あ?」
「…お前は彼女に会っていないから、そんな事が言えるんだ…」
 あの日、邸に入った自分が見た、或る部屋に眠っていた一人の女性。
 何故か、彼女は自分の家のメイド達と同じ服を纏っていた。
 くたりとした身体を起こして見上げてきた姿は、まさしく可憐な花そのもの。
 汚れを知らず、ただ無垢に、純粋に、自分を見つめて微笑んでくれた。
『あとべ…さん?』
『けいご、さま……』
 こちらの望むままに名を呼んで、その細く白い腕で抱き締めてきた少女…
 名を訊こうと思った瞬間、何故かそれから自分は意識を失い…気がついた時にはあの娘の姿は忽然と掻き消えてしまっていた。
 メイドだったのか…それともメイドの服を纏った誰かだったのか……
 会いたい!
 会いたい、あの娘に!
 何を語るとも、何を尋ねるとも知れぬまま、それでも心は叫んでいた。
 己の叫びに衝き動かされ、どんなに探しても探しても、あの娘の居所はようとして知れず…あれから彼女が自分に会いに来ることもなく……
 会えない程に想いは募り、心をただただ埋めてゆく。
 今では、眠れば少女と共に語らう夢を見て、醒めれば彼女の白昼夢がちらついて…
「あーもう、何度も聞いたわ、その女の話は…お前をそこまで夢中にさせるんやから、そりゃあべっぴんさんやろうけどな」
 この眼力を持つ帝王の心をここまで鷲づかみにしてしまえる女性など、この世にいるのか…?
 その時の相手の状況を省みた忍足は、どうしても捨てきれない一つの可能性を改めて提示した。
「なぁ…自分やっぱり酔っ払っとったんちゃうか? あん時はシャンパンも飲んどったし、そもそも自分もいきなり気絶したんやろ? 酩酊してありえんモン見とったんじゃ…」
「いた!」
 全てを言うのを待たずに、跡部は力強く断言した。
「間違いなく彼女は存在していた…! 夢じゃない、夢であってたまるか!!」
 頑なに妄想である可能性を否定する親友に、忍足は最早返す言葉もなく沈黙した。
(あー……何てゆうたかなぁ、こういうの……ああ、そうや)

 恋は盲目

(まぁこいつのノリならこのハッスル振りもありえへん話やないわなぁ…かのロミオはんとジュリエットはんも、出会って二日目に結婚、五日目には手に手を取ってあの世に逝ってはんのやから…若いいうても、もー少し我慢は効かんのやろか…)
 命は大事にしましょうね…と思考が徐々にずれた方向へと向かっていこうとしたところで、忍足はいかんいかんと方向修正。
(しかしなぁ…今は他人の面前では普通に振舞っとるけど、このままいったらいつかはボロが出るで…成就とはいかんまでも、何とか相手の女ぐらいは見つけ出さんとあかんな。最悪振られる事になっても、そっちの方が気持ち的にもケリはつくやろ…)
 それにしたところでどうするか…跡部の話だと、邸のメイドは一人残らず彼自身が確認して目的の人間はいないと断言しているし、その日に特に跡部家に訪ねて来た要人や仕事上の関係者も皆無だった…それは自分もあの場所に同席していたし間違いはないだろう。
 他に、当日の事情を知る人物…氷帝のメンバー達にもそれとなく女性の存在について探ってみたが、全員返答は『跡部が一目惚れする程の美人なんかいなかった』で一致している。
「……ん」
 ふと、忍足は再度当日の事について思い出した。
 待て、そう言えばあの時は氷帝のテニス部レギュラーだけではなく、もう一校、いたな。
 そうだ、そもそもあいつらが来ていたから、自分達も呼ばれる羽目になって…まぁ、楽しい一時は過ごせはしたが。
 あいつらは、何か知りはしないだろうか…?
 一度電話で尋ねはしたが、向こうの部長は知らぬ存ぜぬの一本調子だった。
 別に疑う訳ではない、自分達も彼らも同じ場所にいたのだから。
(まぁ、知らんやろうな…あの日は殆ど一緒におったけど、そんな女性の影なんか匂いもせんかったわ。あのおさげの子は可愛えけど、跡部とはもうとっくの昔に知己やし、今更一目惚れだなんてあり得んし…)
 今、心に浮上させた人物こそが『正解』だったにも関わらず、氷帝一の曲者もその真実には掠ることもなくそのままスルーした。
 しかし、あの学校の関係者にも、再度ダメもとで話を聞いてみてもいいかと判断した忍足は、早速その日の放課後に足を向けたのであった。



「君が一人で来るなんて、珍しいね。氷帝の部活はいいのかい」
「ああ、お構いなく…どうせ行っても後輩たちの指導や。鳳達は宍戸が面倒みてくれとるわ」
「成る程ね」
 忍足が訪れたのは言うまでもなく、あの日氷帝のメンバー達と共に花見を楽しんだ立海メンバーの許だった。
 彼らももう間もなく自分と同じく高校へと進学する者達が殆どなのだが、今も足繁くこのテニス部に通っているところは流石と言うべきか。
 青学と同じ関東圏のテニス強豪校氷帝…その中でも抜き出ている才能を持った曲者が来るなど、滅多にない。
 興味があるのは元部長の幸村だけではないらしく、他のレギュラーだった一同もずらりと部屋に顔を揃えて各自の椅子に座っていた。
「忍足さん、お茶です」
「おおきに」
「わざわざ立海までいらっしゃるなんて、お疲れ様です」
 部室の椅子に座り、テーブルの上にお茶を出された忍足は、それを運んで来てくれたマネージャーである竜崎桜乃に目をやった。
 いつもと同じおさげスタイルの少女は、にこにこと朗らかな笑みを浮かべて自分を歓迎してくれた。
 スタイルもいいし、素朴な優しさに溢れ、会って話すだけで心が何となく癒される…
 絶世の美人という訳ではないが…心美人という点では満点だろう。
「まぁ正直、無粋な話はちゃっちゃと終わらせて、お嬢ちゃんとゆっくりと愛の語らいをしたいんやけどなぁ…」
「間に合ってるよ」
 即答したのは桜乃本人ではなく、幸村だった。
「?」
 何の話か分かっていない桜乃に、早速忍足を警戒した丸井が椅子に座ったままの状態でべったりとくっつき、身体を拘束している。
 やるもんか!という意志がこれでもかと見えまくり、忍足はあーあーと手を振った。
「冗談やて冗談…まぁ確かにお嬢ちゃんへの愛情は相変わらずてんこもりみたいやなぁ」
 丸井に限らず、今の自分の台詞一つで、明らかに部室内の空気が変わった…
 花見の時にも十分に実感していたことだが、このメンバー達は例外なくマネージャーである桜乃を気に入り、それはそれは大事にしている。
 目に入れても痛くない程に可愛がっている様は常勝立海の名を背負っていた…そして今後も背負うであろう男達の毅然とした姿からはとても想像出来ない。
 元々は青学の生徒だった彼女がここ立海に転校を果たし、男達と接する機会が増えてからは更にその愛情の暴走っぷりは拍車が掛かってしまったらしいが…まぁ本人達が幸せで、その愛情があくまでも兄貴分としての愛情で留まっているのならば、他人がとやかく口を挟む事ではないだろう。
(こいつらの中から本当の恋人が出るのが一番自然体なんやろうけど…そうしたら今度はこいつらの中で仁義なき戦いが始まるっちゅうわけやな…立海もご愁傷様やなぁ)
「で、話とは何だ?」
 先ほどの桜乃へのナンパな言葉が尾を引いてしまっているのか、少々機嫌を損ねてしまったらしい真田弦一郎が腕組みをしながらぎろりと忍足を睨みつける。
「ああ、そうやった……自分ら、覚えとるか? あの花見の日の事」
 氷帝の客人が出した花見という単語に、桜乃も反応を示して声をした。
「ああ、あの時の…氷帝の皆さんともご一緒した日の事ですね? その節は色々と…」
 ぺこっと礼をした桜乃の傍ら、立海メンバー全員の表情が微かに強張った。
 まさかとは思うが……
 そんな若者達の表情は、今は桜乃に注目していやいやとお辞儀を返している忍足には見られずには済んだ。
「あの時は凄く楽しかったですねぇ…でも私は凄くご迷惑もお掛けしてしまったらしくて」
「いや、アルコールに弱いんは仕方ないやろ…別に粗相もせんかったしな、お嬢ちゃんは」
「本当ですか? もう全く記憶がないんですよ、その時の事は…うーん…」
「切原」
 桜乃の話の途中で、幸村が次期部長でもある後輩に声を掛け、相手に続けて命じた。
「ここはいいから一度外の様子を見回ってきて…そうだな、竜崎さんも同行してくれるかい? マネージャーとして彼の補佐、宜しくね」
「はい!」
「…んじゃ、行ってくるッス」
 幸村の真意を見抜いたらしい後輩は、すぐに席を立って少女を連れ、部室から退出していった。
「? 何や、いきなりやなぁ…」
「長くなるかは分からないけど、ずっと部長がここにいるっていうのも不自然だし。彼一人しかいないのならともかく、話は俺達でも聞けると思うよ。で、何?」
 確かに、二人がいなくなっても、この威圧感溢れる男達七人が揃って耳を貸してくれるのなら話は十分に通じるだろう…何となく向こうが臨戦態勢に入っている気がしないでもないが。
「ん、まぁ…幸村には前に電話でも話したんやけど、あの花見の日になぁ…跡部がめっちゃべっぴんさんを見掛けて、それ以来かんっぜんに気が抜けてしもうとるんや」

 やっぱり…

 内心で全員がそう呟いた。
 あの日の桜乃が酔っ払ってのトラブルは自分達の記憶にも新しい。
 実は、跡部が出会ったという想い人は…先ほどここから席を外した竜崎桜乃本人だ。
 だからこそ彼女に下手な話を聞かせる訳にはいかず、幸村は切原と同行という形で彼女を部屋から退席させた。



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