彼女は…竜崎桜乃は本人でもあまり意識していない、そして知らない秘密を幾つか有している。
先ず、髪を解いた姿がおさげのそれとは激変し、女子力が千パーセント程上乗せされること。
そして何よりアルコールが入った時、彼女は途端に色気を増した上、目の前の人間に例外なく色仕掛け攻撃並みに甘えるのだ。
しかも性質が悪いことに、彼女本人はそれについて一切の記憶を残さない。
その性質に立海メンバーが気付いたのもつい最近の事で、当然彼らはそんな少女の一面を世に出すまいと常にガードを怠らなかった。
怠った訳ではないのだが、あの花見の日、ほんの僅かな隙を抜けて桜乃は気付かない内にアルコールを口に入れ、そのまま倒れてしまったのだ。
勿論立海メンバーはそれを放置する筈もなく、丁度跡部邸の敷地内にいたという事で、桜乃と同じく同性のメイド達に彼女の世話を任せた。
それそのものは正しい判断だった…筈だ。
ところが、邸内に運ばれ、汚れた服からメイド服に着替えていた桜乃を、同時間に邸に入った跡部が見てしまい…目が覚めた桜乃の「甘え」攻撃をまともに喰らってしまった。
服から正体がばれなかったのは不幸中の幸い。
名を聞きだそうとしていた跡部本人も、幸村の背後からの不意打ちにより完全に失神させられ、何とかその場は事なきを得たのだ。
目覚めた桜乃は、やはり記憶は完全に欠落してしまっており、自分が帝王を陥落させてしまった事など微塵も知らない。
いや、知られる訳にはいかない!
もし桜乃が真実を知ったら…嘘をつくことが出来ない彼女本人から跡部に、簡単にそれが伝わってしまうのは容易に想像出来る。
そして跡部に真実が知られたら、彼は間違いなく彼女を己の手中に収めるべく、あの手この手で仕掛けてくるだろう。
(面倒臭い!!)
家柄も資質も全く申し分のないサラブレッドだということは十分に熟知してはいるものの、あのノリの若者に可愛い妹分を任せるというのは、到底納得出来ない。
まぁ、完全無欠で性格も申し分のない理想の男であっても、素直に妹分を委ねる気になれないのが兄心というやつだろう。
兎に角、最悪の事態が生じても自分達は桜乃を全力で守る心積もりではあるが、避けられるトラブルは避けたいというのが当然の一致した見解だった。
「君からこの間連絡を受けて、概要は知ってはいるけど……美人って言われてもね、あそこのメイドさん達は全員、その部類には入るんじゃないの?」
さり気なくそう尋ねた幸村だったが、忍足は予想の範疇の質問に首を横に振った。
「俺もそう思たんやけどな…跡部本人も雇っとるメイド全員集めて顔を確認したんやけど、全員外れやったらしいわ…あいつに言わせたら、レベルと言うか世界が違うらしい」
「大袈裟だね」
まぁ彼女が可愛いのは認めるけど…と心の中でノロケながら、幸村がさらりと切り返すと、忍足は至極真面目に目的の女性について語った。
「そらもう、見た目はホンマに透き通るような肌、それでいて頬は朝露を受けて輝く薔薇の様で髪は射干玉(ぬばたま)の黒の大和撫子。声は鈴振るように美しく、その微笑一つで国さえも揺らぐ程に美しく、君の姿を一目見ただけでフォーリンラブのアイウォンチュー…」
ぶ―――っ!!
「おわあ!!」
「し、失敬!」
全員が曲者のさぶイボ攻撃に身体を震わせる中、人一倍免疫が薄かった真田は思わず含んでいた番茶を吹き出してしまった。
「ゴ、ゴメン、弦一郎にはちょっと理解出来ない世界だったから…」
慌てて親友の幸村が詫びたが、そこに他のメンバーも遠慮なく突っ込んだ。
「俺らでも理解不能じゃよ…ちゅうかしたくもないわ」
「何だよい、その精神汚染丸出しのバカっぽいポエムは」
「本当に跡部君がそう言ったのなら、立海(ウチ)に来るより先に病院に連れて行って下さい。父から紹介してもらいましょうか?」
そんな彼らに元凶である忍足はけろっとして答えた。
「いや、後半は主に俺の適当な装飾やねんけどな」
「そうか、お前が患者か」
まだ鳥肌の立っている己の腕を擦りながら柳が冷徹に言い切り、対する忍足は本心の分かりかねる拗ね顔で応じた。
「いややなぁ、ショックやわ〜」
「こっちの喰らったショックはまるっと無視かよ」
いい性格だな、とジャッカルが非難したところで、忍足は話を元に戻す。
「ま、それはともかくとしてなぁ…とにかく跡部でも目を留めるべっぴんさんなのは間違いないんや」
「こんだけ探してもいないんなら酔っ払ってたんだろい、きっと」
「俺も散々そう言うたんやけど…アイツなぁ、『あの自分を抱き締めてくれた彼女の手の感触は絶対に夢じゃない』て言い張って聞かんのや」
いらっ…
(…ん?)
何だ、この空気の不可解な変容は…
忍足がその時初めてその場の違和感に気付いたが、彼がそれについて思考を巡らすよりも早く、柳が的確な指摘を行った。
「これまでの話は全てに於いて矛盾しているな…何処にいたかも分からない、存在すら危うい女性を何の証拠もなく居ると断言したところで、どうやって探すというのだ。万一、跡部が言う様にその娘が存在したとしよう…しかしそれなら何故、跡部を抱き締めていながら、彼女は彼に会いに来ないのだ」
「……それを言われるとツライわ…」
はぁ…と溜息を吐いて、忍足は柳の指摘が尤もな事だと認める。
そのぐらい自分も分かってはいるのだが、あの親友があそこまで思い詰めている様を間近で見てしまうと、見ない振りも出来ず、信じてやりたくもなる。
一目で良いから会わせてやりたいと思う。
「ふーん……で?」
殊勝な親友の言葉を聞いた幸村は、およそ感動とは無縁の口調で確認した。
「その親友が一目惚れした相手ならさぞや美人で目の保養が出来るだろうという事を見越して、あわよくば自分も狙っちゃおうかなーと思っているのが君の本心なんだね」
「嫌やなぁ、そんなん本気で思っとっても『はいそうです』なんて答える筈がないやろ〜」
「否定しろよ」
ずびしっとジャッカルが突っ込んだがそれはあえなく無視され、忍足は改めて全員に確認した。
「やっぱり思い当たる節はないかなぁ…あの日にあそこに出入りしとったのは、ホンマにうちらぐらいのものなんやけどなぁ…」
ともすればそこで一気に真実が判明してしまいそうな窮地を、立海メンバー達は持ち前の度胸と鉄壁のポーカーフェイスで乗り切った。
「…知らないなぁ」
「私達も殆どあの桜の下からは動いていませんでしたからね…それは貴方もよくご存知の筈でしょう」
「まぁな…はぁ、やっぱ不発か」
これ以上突っ込んでも何も出てこないなら、長居をしても仕方ない…と判断し、忍足は席を立ちかけたところで、ふと全員を見回した。
「…それにしても、自分らも随分と落ち着いとるんやなぁ」
「ん?」
何の話だ、と真田が眉をひそめると、相手も同じく眉をひそめて彼らを見遣る。
「あの跡部が執心しとる謎の女性やで? フツーの健全な男子なら、ちょっとは興味持たへんかな」
勿論、立海メンバーが落ち着いているのは、既に謎の女性の正体を知っているからなのだが、相手にそれを暴露する訳にもいかず、何も答えないメンバーの代わりに幸村が断言した。
「……そんな見ず知らずの女性より、ウチの妹分の世話で手一杯だしね」
色々な意味で捉える事が出来る発言であり、それでいて嘘は言っていない。
見事な切り返しで、最後までノロケを聞かされた曲者は、ああさいですかと嘆息し、今度こそ席を立って部室を後にした。
そして、彼が部屋から消えて数秒後…
「……微妙に危ないトコロじゃったのう」
ひそりと囁いた詐欺師の言葉に、全員が視線を交わしながら頷いた。
何とかバレずに済んだか…良かった。
「にしても、相当イッてんな跡部のヤツも…」
「まぁ、間近であの攻撃を受けたら、帝王とは言えひとたまりもないでしょう」
ジャッカルと柳生が冷静にそう言っている脇では、柳がふむと腕を組んで何事かを思案している。
「…跡部はああ見えて一途な面もある。あそこまでテニスに打ち込めているのもその性格に拠る処も大きい。思慕の念が強烈であればある程に忘れる事は困難かもしれんな…」
「忘れてくれよ〜い…」
絶対渡さないとばかりに、丸井が机にのべーっと上体を伸ばした姿で嘆いている。
「今のところ竜崎は跡部に関しては完全に他校のリーダーとしての認識しかない様だからな。そう懸念する必要はないと思うが…」
「まぁね…ここは寡黙を以って、向こうが諦めてくれるのを待つしかないよ…」
「しかしのう…最低最悪、あちらさんに竜崎の秘密がバレたらどうする気なんじゃ? 幸村」
仁王の台詞に、幸村は静かに答えた。
「俺達はこれまでも竜崎さんの事を思って世話をしてきた…これからもそのつもりでいるよ、勿論」
そして、ぐっと拳を握って、声のトーンを一気に下げる。
「だから一声、神の声が『殺れ』と言ってくれさえしたら…」
「待て待て待て待て待て待て―――――――――っ!!」
何を考えているのか聞きたくない、知りたくないとばかりに真田が怒声を上げてそれ以上の発言を止め、他のメンバーも青い顔で部長だった若者を引きとめた。
「いや、何とかそこは穏便に…」
「お、大人しく嵐が過ぎ去るのを待とう! な!? な!? 暫くは写経でもしながら!」
物騒な会話が相変わらず部室の中で繰り広げられているのを知らないまま、そこを出た忍足は折角来たのだし、とのんびりとコート周辺を回ってから帰路につくことにした。
そんな彼の視線が、先に部室を出ていた切原と桜乃に止まる。
向こうは他の部員達の面倒を真面目に見ているらしく、時に笑顔が混じりながらも表情は真剣そのものだ。
(感心やなぁ…まぁあの子のお祖母ちゃんからしてやり手やからな…選手の才能はソレ程じゃなくても将来はええ後継者になれるかもなぁ…)
そんな事を考えていた忍足の姿に桜乃が気付き、帰るのだという事を察してこちらに駆けてくる。
「忍足さん、お帰りなんですか?」
「ああ、もう用は済んださかいな…邪魔したなぁ、お嬢ちゃん」
「いえ、久し振りにお会いできて嬉しかったです」
「こりゃあ、ええお土産をもろたわ」
こんなええ子に嬉しいと言われるのは本望や…と思いつつ、忍足がなで、と相手の頭を撫でると、彼女は照れ臭そうに頬を染めながらも嬉しそうにこちらを見上げてきた。
「…」
何となく、変な感じがする…彼女の笑顔を見た瞬間から…
(お、おかしいなぁ…眼鏡は掛けとるし…確かに女の子から見られるんは恥ずかしいねんけど、ここまで…?)
見慣れとるおさげの子やのに…と思いながら、彼は相手の頭から手を離した。
「……そう言えば、お嬢ちゃんも花見に来とったんやもんなぁ」
「はい…?」
「……………いや」
再度、彼女が跡部の探す女性ではないかと考えてみたのだが…だとしても以前から彼らが知り合いであった事などから理屈が合わない。
それに…
「…お嬢ちゃん、あの花見の日に跡部に抱きついたりせんかった?」
「ええ!?」
端的な質問を投げかけ、桜乃が心底意外だと驚いた表情を見て、そこに誤魔化しや嘘がない事を曲者は瞬時に読み取った。
違う…彼女じゃないのか……やっぱり。
本人が自分の秘密を知らない事が最大のカモフラージュとなり、桜乃は無意識の内に忍足の観察眼を擦り抜けていた。
「そんなスゴイ事をする人がいるんですかっ!?」
「いやまぁ…おったらしいんよ…メイド服着てなぁ」
「道ならぬ恋というヤツですか? 私、応援しますよっ!」
「いやぁ…メイドやったんかどうかも…」
「???」
よく分からない相手の説明に、う〜?と桜乃が首を傾げる。
「…何でもない、混乱させてすまんかったな」
「いえ…」
そして、忍足が去っていった後で、ようやくその場に切原が走ってきた。
本当はもっと最初からついていてやりたかったのだが、丁度後輩たちの指導の途中だったので、抜けるタイミングを逸してしまったのだった。
まさか、ばれてやしないだろうな…例の秘密…!
「あ、あれ…忍足さん、もう帰ったの?」
「はい」
「…な、何か話してたみたいだけど…何?」
「…どなたかが跡部さんに禁断の恋をしてしまっているのだとか」
「はい!?」
「…・女心としては、全力で応援して差し上げたいですねぇ」
「ど、どういうコト?」
よく話が読めない相手に桜乃が簡単に説明すると、相手も概要は理解し、結論として彼女にも相手にも跡部の想い人の正体は知られていないと知った。
(…それが自分でした、なんて知ったら間違いなく卒倒すんだろなコイツ…まぁバレてないならいいけどさ)
そして彼は少女を連れて、一段落した部室の先輩達と合流を果たした後、何事もなかったかの様に最後まで部活動に参加したのである。
その一方、忍足は再び都内に戻るべく道を歩いていたのだが、不意にポケットの中の携帯が鳴り出した。
「…ん?」
誰からやろ…もしかして岳人の奴かもしれんなぁ、今日は結局何の言い訳もせんと部活に顔出さんかったから…
どう謝ろうかと思いながら携帯のボタンを押して、はい、と受話器の向こうに呼びかけた男は、それから数秒、向こうの人物の言葉に耳を傾け…すぅっと表情を消していった。
「………跡部が倒れた?」
ウソやろ…?
その日、桜乃の日常にささやかな異変が生じていると彼女自身が気付いたのは、自分が住む寮に戻ってからだった。
「あ。竜崎さん知ってる? 今日は一日、ガスが使えないんですって」
「え!?」
自室に向かう階段の途中で擦れ違った他の部屋の女子生徒からそう声を掛けられ、桜乃は思わず聞き返してしまった。
だって、まだ夕食も作ってないし、お風呂も入れないといけないのに…
「そ、そんな話あったの? 私、全然知らないんだけど」
「うん、私が戻ってきた時に何かガス会社の人が来て、念の為に今日一日は使用しないでって。ウチじゃないけど、近所の家で何かガスのトラブルがあって、至急で点検をしたいんですって」
「困ったなぁ…」
どうしよう、と桜乃が困った顔でそう言ったところで、向こうの女子がねぇと彼女に呼びかけた。
「それでね、その会社の人が、お詫びにって寮の皆の分のチケットをくれたんだけど…」
「チケット?」
「有名なスパの入場券とそこに入っているレストランの無料招待券。不自由させるから、ここでお食事と入浴はどうですか?って。結構立派な所だし、電車使えばすぐだから皆で行こうって話していたんだけど、竜崎さんはどうする? サウナもあるんだって」
「きゃあ、ホント? 行く行く〜」
ここは女子ばかりが住んでいる寮で、桜乃はそこの住人達と良好な近所づきあいをしており、相手の誘いにもすぐに応じた。
一人で行くのもいいが、たまには大人数で出かけてお食事し、女の子同士の話をしながら入浴を楽しむのもいい。
「すぐに行くの?」
「行く人達は下に降りて、揃ってから電車で行くの。竜崎さんも準備をして集まってくれる?」
「うん、すぐに行くね」
そして、彼女は急いで自室に戻ると準備を整えて集合場所へと向かい、他の女子の六、七人と共に、その有名なスパに向かったのである。
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