帝王の恋患い(後編)


「きっちり会長職退いた後に過労で倒れるなんて跡部らしいや」
「うるせぇ」
 当日、立海メンバーがそんな感じで跡部邸に向かっている時、その跡部邸には先客が多数訪れていた。
 忍足含む、氷帝の元レギュラー達だ。
 向日の言葉に、ベッドに横になっていた跡部が憎まれ口を叩く。
 会話だけを見たら、それはいつもの光景だった。
 帝王が、客が来ているにも関わらず、上体すら起こせないままだという事を除いては。
「…ったく、結局ばらしやがって」
「しょうがないやろ…何時間も纏わりつかれて質問される身にもなってみぃ。ストーキングされた気分やわホンマ」
 次に跡部が文句を言った相手は、やはり忍足だった。
 あの日、跡部が倒れた事を本人から内緒にしておくように言われていた若者だったが、結局、見ての通り今はモロバレの状態。
 しかし、それは決して忍足だけの責任ではない。
 あの日最初に倒れてしまった日は、跡部は翌日以降も変わらず登校する筈だった…そのつもりだったのだ。
 ところが翌日、彼の思惑は現実とはならなかった。
 今まで何事も無かった様に振舞い続けていた帝王…その心と身体の歪が、遂に悲鳴を上げたのだ。
 憂いた心が安寧から身体を遠ざけ、徐々に徐々に彼を弱らせていた。
 しかし跡部は、無理をしていた訳ではない…そんな自覚などない。
 それ程に、彼の誇りは彼自身を欺く程に完璧だった。
 しかし一度心の制御を外れた肉体は、再び動けと命じる主人に否と背き、彼は遂に臥してしまったのである。
「…お身体、大丈夫なんですか、跡部さん」
「ああ、心配するな。すぐに良くなる…ほんの少し疲れたんだろう、ったく、俺様としたことがざまぁねぇな」
 鳳の心配そうな声にも跡部は決して弱みは見せず、堂々と…うんざりといった具合で返したが、後ろに立っていた忍足は笑わない。
(そう思うんなら少しでも食わんとアカンのに……ホンマ、このままじゃサラブレッドそのものになってまうで、跡部…)
 至高の名馬の持つガラスの脚は、一度折れたらそのまま破滅へと繋がる諸刃の刃。
 倒れたとは言え、まだ憎まれ口が叩ける内はいい…まだ脚は折れていない。
 しかし、もしこの状態が続いたら……ガラスは粉々に砕け散る。
(……あん子に賭けるしかないな、やっぱり…そろそろ来る頃やと思うんやけど)
 そう思っていた所に、彼の傍に跡部邸の執事が近づいて何事かを耳打ちした。
「…おおきに」
 礼を言い、彼は何事かを執事に言った後で今度は仲間達に声を掛けた。
「すまんのやけど、ちょっと皆席を外してくれへん?」
「?…何があった、忍足」
「いや、ちょっとな…お忍びで見舞いの客が来とるんよ。他の人間がおったら入りづらいってコトでなぁ…すまんけど、ちょっとコートにでも」
 ぱんっと両手を合わせて拝みまでする若者に、他の男達は何事だと視線を交わしあった。
 疑問に思ったのは彼らではなく、見舞い客を受け入れていた跡部本人もだ。
「…そんな奴の予定は聞いてねぇぞ? 関連会社の奴らの見舞いは予め断っていたし…誰だ」
「あー…まぁ、それは見てのお楽しみってコトで…すまんけど、樺地もちょっとだけ外に、な? 絶対に跡部に悪いようにはならんから」
「……」
 そう言われた樺地は、即答せず、代わりに跡部に目を向けた。
「…………席を外せ、樺地」
「…ウス」
 主人の命令を受けて、ようやくその言葉に従った男が、他の男達と共に最後に部屋を出ると、後には帝王と曲者二人が残った。
「…で? 誰なんだ、俺様にアポもなしで会いたいっていう見上げた根性の奴は」
「あー、以前なぁ、お前の家の庭に見蕩れて、正門前をうろうろしとった子がおったらしくてなぁ…」
「?」
 何の話だ…と思っている跡部に、忍足は予め立海のメンバーと口裏を合わせていた内容を語った。
「そうしてたら跡部家の新しいメイドと間違われて連れてかれたらしくてな? よう分からん内に着替えさせられて…待たされている内に今度は退屈で、ベッドも気持ちええから眠くなってもうて、うっかり寝てしまったらしい」
「…!」
 は、と跡部の表情が変わる。
 まさか…その娘の話…その娘は、まさか…!
「夢現の中でその家の誰かと語らったらしいが、気がついたら屋敷中大騒ぎで、恐くなって一度は出てったらしいんやけど…どうしても心配になって来たらしいんや。その日の事は彼女もそんなに詳しく覚えとる訳やないらしいから、あまり深く突っ込まんといてや?」
「何処だ!!」
 相手の言葉を最後まで待たずに、跡部が声を荒げた。
「連れて来い! 今すぐ、その娘をここに…!!」
 蒼白だった顔面に微かに朱が差している…健康だったなら、もっと赤くなっていただろう。
「…ええけど、あんまり過剰な主張はやめとき。繰り返すけどな、あん子はあの日の事、あまり覚えとらんのや。それに、会えるのは今日だけやで、相手の家族がやたら厳しいらしくてな…ええな」
 再度念を押し、忍足は部屋のドアに近づいてそれを開いた。
 そして、その向こうに呼びかける。
「ほな、入ってええよ?………ああ、そう緊張せんでもええから、な?」
 向こうはどうやら、少々固くなっている様だ。
 フェミニストの柔らかい口調を聞きながら、跡部は動けない身体の代わりに瞳だけをそちらに向け、全神経を集中させていた。
 こつ…こつ…
 小さな足音が響いて、中に入って来る一人の客人。
 少し怯えた様子で、ようやく部屋の中央近くまで忍足によって連れられて来たのは、紛れもない、あの少女だった。
 白いワンピース、白のカチューシャが目に映える。
 日本人の誇る黒髪と黒の瞳には合わないように見える色だが、それは却って相手の艶やかな髪と瞳を際立たせ、強く心に印象付けられた。
 いや、今更印象付けられる必要も無い。
 あの日から、自分の心には既に彼女の面影は強く…刻まれてしまっている。
「……」
 無言で跡部の方を見つめてくる少女に、彼はじっとその視線を返し…ようやく一言を搾り出す。
「…こっちへ来い」
「はい…」
 言われるままに、桜乃…桜は、静々と進み、彼の休むベッド脇へと立った。
「……座れ」
「…失礼します」
 互いに名乗るより先に、跡部は一方的に相手に命じ、そして少女もそれに素直に従った。
「……」
 何を言えばいいのか…少女はそれを考えあぐねている様だった。
(跡部さん…凄く顔色が悪い)
 やっぱり、身体の調子はいいものではないらしい…まぁ普段から忍耐力もかなりの若者だ、軽い苦痛ならばおくびにも出さないだろう。
「………名前は?」
「…桜…です」
「……桜」
 丁度、今が満開の季節だな…
 思いながら、跡部の視線が一度天井に移り、瞼が伏せられる。
 そして、脳裏に桜が満開に咲き誇る様子を思い浮かべた後に、彼は再び相手へと視線を戻した。
 桜…彼女の持つ雰囲気とぴったりだ…何処か儚げで、危うささえ感じて…だからこそ目が離せない。
 離せないのに離していた所為で…こんな無様なコトになっちまったがな……
「跡部、さん…?」
 いつもより寡黙な相手に心配そうに桜乃が声を掛けたが、相手は少し機嫌を損ねた口調で返してきた。
「言った筈だぜ…景吾様と呼べってな」
「…景吾、様…?」
 勿論、それを桜乃は覚えていない。
 覚えていない筈なのに…何となく初めてでもない様な気がした。
(おかしいな…私、普段は跡部さんって呼んでいたんだけど…)
 そう考えていると、今度は彼がゆっくりとベッドの中から右手を出し…肘をベッドに付けた状態でゆっくりと桜乃の方へと傾けた。
 『手を取れ』という無言の命令に、桜乃は従い、両手で彼のそれを握った。
 冷たい…これも身体の不調によるものだろうか…?
「…………遅いぜ」
「え…?」
「…随分待った……随分探した…この俺様をこんなに待たせやがって…大した女だ、お前は」
「あ……」
 どうしよう、それは自分ではないのだけど…と思いながらも、勿論それを告白することも出来ない。
 彼女は、ばれないだろうかという不安を抱えながらも、もしその女性だったらどうするだろうと心で考え…相手の手を強く握った。
「……ごめんなさい」
 もしかして凄く怒っているのかな、とも思ったが、相手は相変わらず静かにベッドに横たわったまま、桜乃に手を握られているだけだった。
 瞳には強い意志の光が尚宿っているが、少なくともそこに怒りの色は無い。
「…流石に、飽きた」
 くっといきなり皮肉の笑みを口元に浮かべ、彼は呟く。
「…毎日毎日…お前の幻ばかりを見ていて…いい加減偽物は見飽きたところだ……そろそろ、本物に会いたいと思っていた」
「……けい、ご…さま」
 かろうじてその呼び名を守った桜乃だったが、相手が寄越してきた視線を受けて、明らかに様子がおかしくなる。
 どき…ん…
(あ…れ、なに…胸が…)
 胸が急に…どきどきしてきちゃった……
 おかしいな…私が言われている訳じゃない、のに…
 でも、初めてだ、こんな跡部さんを見るの…いつもはもっと冷たそうで…誰にもそんなに執着を見せた事もなかったのに…
 この人…この女性の人にだけは、そんなに優しい目をして…
「散々待たされたが、そっちから出向いてくれたからな…それについてはもういい」
「は、はい…」
「…それより、お前は…」
 そう彼が話を変えようとしたところで、再びその部屋の扉が開かれ、忍足がスープ皿と小振りのパンを乗せたトレーを片手に入ってきた。
「跡部、執事さんに用意してもらったで、肉が溶ける程に煮込んだスープや。少しでも胃に入れんと身体に悪いからな、飲み」
「忍足…?」
「…聞いた話やと、この数日間、お前水しか口にしとらんそうやないか…折角鍛えた身体が台無しになるで」
「…下げろ」
 親友の心遣いは有り難かったが、跡部はそれを拒絶した。
 相手の言う事は分かる、しかし今はそれどころではない…ようやく彼女に会えたのに、その時間を一秒、一瞬たりとも無駄にしたくはない…!
「今はいい」
「ほな、いつならええんや」
「今はそれどころじゃない…飲む気分でもない」
「……」
 そのやり取りと見ていた桜乃は、一瞬忍足と視線を交わし…
「……どうか」
と、跡部の手を握っていた自分のそれを離して、そのまま忍足へと差し出した。
「私にやらせて下さい」
「!?」
 驚く跡部の前で、半分はそれを狙っていたのか、忍足がすぐに察した様にトレーを少女に手渡した。
「ほな宜しく」
「はい…」
 丁寧にそれらを受け取ると、桜乃はそのまま跡部に視線を戻し、柔らかく笑った。
「起きられますか? 景吾様…」
「桜…?」
「私が飲ませてあげますから…お願い、少しでも食べて下さい」
「……」
「景吾様がそうなったのが私の所為なら、私が責任を取らないといけません…さぁ」
「………チッ」
 促されても、自分の気が向かなければ、帝王は決して首を縦に振らない。
 しかしこの時、舌打ちをしながらも彼はゆっくりと身を起こして、桜乃の言葉に従ったのだ。
 いつもの機敏な動きとは程遠いが、相手の久し振りのそういう行動を見て、本物でありながら身代わりとして来た彼女には悪いが、忍足は彼女を連れて来たのが誤りではなかったと確信した。
「ほな、邪魔者は退散するわ。跡部、あまり我侭言うて困らせんようにな」
「うるせぇ」
 とっとと行け、とばかりに言葉を返してきた友人に、相手は苦笑しながら部屋を後にした。
 跡部の憎まれ口はこれまでも散々聞かされてきたから慣れているし、今はその男の気力を計るバロメーターでもある。
 怒ることもなく行ってしまった忍足を見送った桜乃は、つい跡部を窘めた。
「景吾様…忍足さんが心配して下さっているのに、いけませんよ」
「あん…?」
 そんな相手の言葉に、跡部が聞き返し…そして不自然な程に憮然とした表情を浮かべて少女に言い返す。
「…俺様の前で、他の男の話なんかするんじゃねぇ」
「え…」
「……」
 思わず見返してしまった相手の若者は、相変わらず不愉快な顔をしたままそっぽを向いている。
 まるで駄々をこねる子供の様だ。
 いつもの…これまで見てきた彼の姿とはあまりにかけ離れており、それが桜乃の目に大きな驚きとして映った。
(うわ……もしかして…忍足さんに嫉妬…?)
 たったこれだけの事なのにそれすら嫌がるなんて…どれだけこの女の人に執着しているんだろう…?
 氷の帝王が、誰にも見せなかったもう一人の自分を、この人にだけ見せている。
 私ではない…竜崎桜乃ではない誰かにだけ……
(…あれ)
 何でだろう…何となく落ち着かない…
 私が部外者だっていうのは最初から分かっていたし、納得もしていたのに…何で今になってこんな疎外感を感じているんだろう…
 跡部さんが見たことない女性を好きになっている…のは別に悪いことじゃないないのに、どうして胸がモヤモヤするんだろう…
(き、きっと、私が勘違いしているだけだよね…無意識の内に無視されてるって感じてるんだろうな…ダメダメ、ちゃんと自覚しないと。跡部さんもそんなつもりじゃないんだから…)
 だから、『その人』の様にしっかりと振舞わないと…
 跡部さんがこんなに甘えてくるなんて滅多にないことなんだから、私ならきっと凄く嬉しいと思うし…『彼女』もきっと、そうだろうな……
 気を取り直し、桜乃は『桜』のままで跡部に優しく呼びかけた。
「…ごめんなさい、ならもう私、景吾様しか見ませんから」
「………」
「だから、機嫌直して下さい」
「……ふん」
 少女の方から謝罪し、譲歩してくれたことで、少しは気が済んだのか、跡部は鼻を鳴らしながらもそれを受け入れてくれた。
「…食べさせろ」
「はい?」
「……責任、取るって言ったよな? あん?」
「!…はい!」
 食べる意志を見せてくれた事に喜び、桜乃は相手に言われた通り、スプーンを手に取ると、程よく温められたスープを一掬い…
(あ…温度どうかな…うーん)
 相手に火傷させる訳にもいかないし…と思い、桜乃はちょん…と軽く唇をスプーンに乗せたスープに触れさせて温度を見た。
「…!」
 少しだけ身じろぎしてそれを見つめていた跡部の視線には気付かず、彼女は火傷の心配がない事に安心して頷く。
「うん、大丈夫みたい…さぁどうぞ、景吾様」
「あ…ああ」
 何も考えていない様子の少女にかろうじて答えながら、しかし若者は結局『それ』を指摘する事はなく、差し出されたスプーンに唇を付けスープを啜った。
 数日振りに感じる『味覚』。
 まるで白黒のネガの上に、極彩色の絵の具を散らされた様な感覚が舌の上で踊る。
 数日前に食べていたものはきっと今のこれより遥かに美味だったのだろうに、何故かこのスープの方が美味しいと感じた。
 空腹がそうさせているのか、それとも…彼女がいるからか。
「……パンが欲しい」
「はい」
 幾ら臥せっていたとは言え、パンぐらいなら自分で取って千切って口に入れるぐらいは出来る筈である…が、彼は敢えてそれすらも拒絶し、少女からの提供を求めた。
 桜乃は素直にそれを受け止め、彼の代わりにパンを千切って、その欠片をそっと相手の口元に差し出した。



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