「どうぞ?」
 そして、跡部がそれを促されるままに口にしたところで…
「…!」
 パンを咥えた時、跡部の唇が桜乃の指先に微かに触れた。
(わ、わ…跡部さんの唇…っ)
 触っちゃった…!
 スープの時の大胆な仕草には気付かなかった娘も、流石にこれには激しく反応する。
 顔が真っ赤になり、言葉が継げなくなってしまった相手に、しかし跡部は構わずに更に希望した。
「どうした? もっとだ」
「はっ…はい」
 それからも、桜乃はパンを千切っては彼の口元に運んでやった…最初の時より更に気を使いながら。
 しかしそれでも、彼の唇は狙った様に少女の白い指先に何度も触れてきた。
 流石にここまで来ると少女もそれが意図的なものであると気付いた。
(跡部、さん…)
 どうしよう、どうしたらいいの…?
 私は、本当は、貴方が探していた女性ではないのに…
 戸惑い、悩みながらも桜乃はしかし今は神経を集中し、相手への奉仕に尽くした。
 そうすることで、自分の心も落ち着かせようと思ったのだ。
 そう、今の自分は竜崎桜乃じゃない…桜と仮の名を与えられた別の誰か…
 だから、ここにいる間は彼女として振る舞い、桜乃としての意志は消してしまえばいい。
 それなのに…消えてくれない、消したくないと思う自分もいて、心が二つに分かれてしまっている。
 どうしたら、この心は一つに戻ってくれるだろう…?
(…一日だけだもの…一日終われば、もう桜としては会わずに済む…また、元の様に…)
 竜崎桜乃として…立海のマネージャーとして、いつもと同じ様に話せるだろう。
 でもその時には…もうこの人は、こんな姿を見せてくれることはないんだろうな…
 元気になってくれるのは凄く嬉しい、凄く嬉しいけど……少しだけ寂しい。
 複雑な胸中で跡部の世話を続けた桜乃は、何とかすべての食事分を相手に与え終わった。
「良かった…全部食べられましたね」
 少しは残すかとも考えていたのだが、完食したのを受けて桜乃が嬉しそうに評すると、向こうは無言でじっと彼女を見つめていた。
 そして、徐にパンさえ持たなかった腕を伸ばしたかと思うと、食事を与える為に近づいていた桜乃を抱き締めた。
「え…あと…景吾、様?」
「本当に…覚えてねぇのか…?」
「え…?」
 ひそりと耳元で囁くように言われ、桜乃は首をそちらに向け、それに構わずに跡部が続けた。
「あの日の様に…お前も俺様を抱いてみろ。その腕で」
「!……」
 その日の出来事なんて知らないのに…と思いながら、桜乃はおず、と腕を伸ばし、言われるままに相手の背中に手を回した。
(わ…凄い筋肉…男の人の身体って凄いんだな…あれ?)
 感動しながらも、男女二人、部屋でなんて事をしているんだろうかと考えていると、不思議な感覚が桜乃を襲った。
(……この感じ…以前にも何処かで…?)
 同じ様な感触を…感じた気がする…
 いつか、何処かで、私は同じ様に誰かを抱き締めて、相手に抱き締められていた様な……
 おかしいな…立海の皆さんとも、こんな事はしたことないのに……
 じゃあ、一体何処で…? 誰と…?
 悩み、思い出そうとしていた桜乃の脳裏に、微かに過去の記憶が呼び覚まされる。
 自分自身も知らなかった、意識と無意識の狭間でたゆたっていた記憶だ。
 誰かが自分を抱き締めてくれている…優しいけど、とても強い力で。
 何故か焦点の定まらない視界の中で、見えているのは男と思しき人の影。
『…――――と、よべ…』
 そんな記憶が泡沫の様に意識の海に立ち昇ったが、より掴もうとするとそれは儚くも割れて消えてしまう。
 何度試してみても、桜乃は肝心のその情景をはっきり思い出す事は出来なかった。
「……やっぱり、お前だ…」
「え…?」
「この感覚…あの日の時と同じだ……絶対に夢なんかじゃねぇ」
 確固たる自信を以って、跡部は断言した。
「なぁ…お前は…いるんだろう?」
「はい…?」
「俺様の都合のいい幻じゃなく……ここに、存在しているんだろう?」
「………はい」
 確認を求める問いに暫し無言だった桜乃は、桜として相手の身体を抱く腕により力を込めながら返事をした。
「…私は…ちゃんとここにいますよ」
「………」
 その細い声を聞きながら、跡部は鼻腔に入ってくる彼女の香りを感じていた。
 甘い…優しい香り…
 今なら、美女に牙を突き立てる吸血鬼の気持ちが分かる様な気がする。
 そんな危険な香りを感じながらも、次に帝王が口にしたのは甘い愛の囁きなどではなかった。
「……今日だけしか…会えないのか…?」
「!」
 いつか問われることだと思っていた事を遂に問われ、桜乃の身体がぴくんと震えて、その振動は彼女を抱き締めていた彼の腕に忠実に伝えられる。
「………それ、は…」
 そう…『桜』として会えるのは今日だけ…
 別に彼の想いを無碍にしようとは思っていない…けど、自分がその『女性』でない以上は、彼の想いに応える事は出来ない。
 出来ないのに、いつまでも他人の自分が会い続けるというのも無理な話。
 だからこそ…忍足と立海の面子は敢えて今日一日だけだと決めていたのだ。
 桜乃もそれには別に反対する理由も無く、その旨を受け止めていた。
 しかし今は…
「……私、は…」
 何故か決められていた筈の答えを告げられずにいる桜乃の…桜の姿を受けて、その冷酷な氷の帝王は…不意に唇を歪めた。
「…くくっ」
「?」
「……おかしなもんだ、この俺様が」
「え…」
「…俺はな、桜…お前に会うまでは、ずっとずっと、次に会った時にはもう絶対にどんな事をしてでも逃がすつもりなどなかった…檻の中に閉じ込めてでも、傍に置きたいと思っていたんだ」
「!!」
 凄まじいまでの執念を告げられ、少女が驚くのを見て、感じて、跡部は自嘲気味に笑った。
「……けど、実際に生きてる…存在しているお前に会ったら…言いたい事が有りすぎて、やりたい事が有りすぎて……その全てが矮小に見えてどうでもよくなっちまったよ、お前がこれからも存在してくれてさえいたらな…桜」
 敢えてその娘を再び手放すことを選択しながらも、帝王は今はもう清清しく微笑んでいた。
「……まるで憑き物が落ちた気分だ…これで俺様はまた跡部景吾として生きられる、礼を言うぜ」
 会いに来てくれて……
「景吾様……」
 そこまで言うと、跡部はゆっくりと少女から身を離し、それを再びベッドへと横たえると、もう一度己の右腕を桜乃の方へと傾けた。
「今日の俺の最後の我侭だ……俺が眠るまで、手を握っていてくれ」
「…はい」
 そっと言われるままに手を握り跡部の方を見ると、食事と久し振りに身体を動かした事は、予想以上に彼にとっては負担だったらしく、既に彼は睡魔に誘われている様だった。
「……言っておくぜ、桜…今日、お前がここを出て行っても…お前は絶対に俺様の許に戻って来る…」
「……?」
「俺様が…家族だろうが何だろうが…全てを捨ててでも、お前が戻って来たくなる程の男になるからさ……それは、跡部景吾だけが出来ることだ…」
「!…」
「覚えていない相手を、嫌がる奴を無理やりに…なんて、無粋の極みだ…俺様は俺様の生き方で欲しいものを手に入れる……お前を必ず手に入れる…桜……」
 だから…待っていろ……
 帝王は乙女に宣告を果たし…そのまますぅと寝入ってしまった。
 おそらく身体がもう限界だったのだろう、しかしその表情は、今日まで恋に患っていたとは思えない程に安らかだ。
 帝王が、帝王として在るべき姿へと戻った…
(…跡部さん…)
 しかし、対する桜…桜乃は、それから忍足が再び様子を見に訪れるまで、物憂げな表情を浮かべていた。
 まるで……帝王の恋患いが、乙女に移ってしまった様に…


「お疲れさんやったな、お嬢ちゃん。何が話されたかは知らんし、聞く様な野暮もするつもりはないけど…後は跡部の心に任せるわ」
「………」
 跡部の親友であるが故に屋敷の者達とも面識が深く、彼らに頼みごとをする機会もされる機会も多い忍足の顔の広さのお陰で、桜乃は帰りは跡部家の車で送ってもらえる事になった。
 車中で礼を述べた相手に、桜乃は微かに笑ったものの、その言葉数は明らかに少なくなっている。
「…どうしたんやお嬢ちゃん…そんなに跡部の姿がショックやったんか?」
「い、いえ…そんな事は…」
 あまりに静かな相手を気遣って忍足が声を掛けると、そこでやっと少女は首を振り…遠慮がちに口を開いた。
「…跡部さんが、あそこまで一人の人に執着するのを見るのは初めてでしたから……あ、テニスに関しては手塚先輩と切磋琢磨しているのは見てましたけど…その、女性相手で」
「あーまぁなぁ……俺も初めてやからな、何とも言えんわ。普段の跡部を知っとると、ビックリするやろ?」
「……でも」
「ん…?」
「……今日の跡部さん、いつもよりずっと格好良く見えました。一人の人をあそこまで好きになれるって…凄いと思います」
「…お嬢ちゃん…?」
 何となく、元気がないのは…まさか……
 忍足が彼女に、今自分が気付いた事を聞こうと思っていたところで、彼らの乗せられた車が立海の正門前に到着した。
「あ…着きましたね」
「あ、ああ…そうやな」
 二人が車を降りると、そこには前もって複数の人間達が立って彼らを待っていた。
「!…まぁ、皆さん」
「お帰り、竜崎さん」
 立海のメンバー達だった。
 彼女を最後にここに送る事は決めていたのだが、まさか彼ら全員が揃って待ってくれていようとは…
「へへ、やっぱ心配でさ…跡部にちょっかい出されなかったろうな?」
「お前も疲れただろう…今日はゆっくりと休むといい」
 丸井や真田の労わりの言葉を聞きながら、桜乃はゆっくりと全員の顔を見回した。
 いつもの…自分を大事にしてくれている先輩達の笑顔だった。
「………」
 何故か、跡部との語らいの中で苦しくなっていた胸が、少しだけ楽になった気がする。
(ああ…そっか…)
 跡部さんが見ているのが例え私じゃなかったとしても…私には大事にしてくれる先輩達がいるもの…
 だから…元気出さなくちゃ。
「えへ、ただいまでした」
 全員に笑顔で挨拶した後で、彼女は彼らに囲まれて色々と話し込み始める。
「………」
 そんな少女を何故か思案に耽った表情で見ていた忍足だったが、いつまでも車を待たせる訳にもいかず、その場での彼女への質問は諦めた。
「跡部は大丈夫そうかい? 忍足」
 幸村の質問に、彼は軽く頷いた。
「多分な…少なくとも、今のどん底からは這い上がってこれる筈や」
「そう…なら良かったよ。彼が元気がないとこっちも張り合いがない……高校に上がっても、またコートで会う事になるだろうから、その時を楽しみにしているよ」
「…アイツにもそう伝えとくわ、ほな」
 最後に何故か桜乃に意味深な視線を向けた後、忍足は深くは語らずに車に乗り込み、その場から去って行った。
(…あーあ、また一つ新しい問題か…いい加減にしてほしいわ…けどなぁ)
 曲者は皮肉の笑みを称えながら、窓の外の流れる景色を見つめていた。
(俺は基本的に女性の味方やし、跡部の友達やからなぁ……やっぱりソッチを応援させてもらうわ)
 さてどうなるのか…曲者は曲者らしく、ちょっと下がって傍観させてもらおうか……



 その後、跡部や幸村達が高校に進学した後……
「今日は久し振りの練習試合だな」
「まぁね…お手柔らかに」
「はっ、心にもねぇことを」
 氷帝のコートに立っているのは、氷帝、立海の練習試合に参加することになった、互いに見覚えのある面々だった。
 中学卒業後、非公式ではあるが初めての顔合わせとなり、互いにやる気は満々だ。
 かつて心を病み、倒れた帝王も、今はもうすっかり完全回復を果たしている。
 いや、高校に進んでから、そのバイタリティーは更に強まった感すら伺える。
 そんな帝王と話していた幸村の許に、おさげの少女が小走りに駆け寄って来た。
「幸村先輩、柳先輩が呼んでいました」
「そう、有難う竜崎さん……じゃあ、また後でコートで会おうね、跡部」
「ああ」
 先にその場を離れた幸村を見送り、跡部は次にそこに来た桜乃を見下ろした。
 彼女が、あの日に出会った桜であるという事は…やはり気付いていない様子だ。
「…お前も大変だな。まだ中学生なのに、高校に上がったアイツらの面倒まで見ているのか」
「うーん…でも、楽しいですよ?」
 すっかりいつもの俺様調子に戻ってしまったけど、元気になった貴方を見る事も出来ましたし…という言葉は胸の奥に秘めたままで。
 あれから随分と経つのに、まだ彼の姿を見ると胸が痛む…
 彼が好きになった女性は、今、何処でどうしているのだろうか……あんなに激しい想いを抱かれているとも知らずに……
(もし、それが私だったなら…)
 有り得ないと心で否定しながらも、つい仮定の話に縋って考えてしまう。
 あの日から、それを幾度自分は繰り返してきただろう…?
(……私だったなら…応えたかった、な…)
 身の程知らずな事とは、分かっているけれど……
「…おい?」
「はっ、はい!?」
 つい自分の世界に浸りそうになっていたところを、相手の声で現実に引き戻される。
「大丈夫か? お前」
 気がつくと、自分の様子が気になったのか、帝王がすぐ傍まで歩み寄り、上から見下ろしていた。
 あの美麗な顔が怪訝そうな表情を浮かべてこちらに向けられている。
「すっ、すみません、ぼーっとしちゃって…けい…」
「ん?」
「っ!! あ…あと、べ…さん…し、失礼しますっ!!」
 思わず『景吾様』と呼びそうになった自分の口を手で押さえ、桜乃は更に慌てて頭を下げた後、その勢いのままに背を向けて駆け出した。
 ふわん……
「…?」
 微かに香ってきた匂いは…彼女からのものか…?
 香水とは違う、自然な香り……
 自分は、これにとてもよく似た香りを知っている……それは…
「………」
 それから帝王は暫く無言で去ってゆく少女の背中を見つめ、そんな二人を忍足が陰から見守っていた。
「……さてさて、どうなるんやろなぁ」

 神様が気紛れで深く絡ませた赤い赤い恋の糸…
 解くのか、解かれるのか…
 断ち切るのか、断ち切られるのか…
 
 それに彼らが導かれる先は…未だ絡めた神にさえも見えず……






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