当然、コートの中は部外者は立ち入ることは出来ないので、桜乃はその脇に置かれているベンチに座っての見学となっていたが、それでも充実した時間だったことに変わりはない。
「ええっと…さっきの場合、踏み込んで返したら…?」
「それでもいいと思いますよ、寧ろ相手の意表を突く感じにはなると思います。ただ万一返されてしまった場合は後ろががら空きになりますから、その点も考えてより注意してないと…」
「あ、そうか…私はそう早く動けないから、まだレベル高いかも…」
「慣れですよ。練習を繰り返したら身体も徐々に覚えていきますし、そうすると考えるより早く動けるようにもなるでしょう」
「ふむふむ…」
 二年生の鳳が、日吉と宍戸のシングルスの練習試合を見ながら、隣の桜乃にアドバイスを行っている。
 跡部の知己であれば当然氷帝メンバーとも見知った仲であり、跡部が部長として忙しく立ち回っている間は、手が比較的空いているレギュラーと話す事も多かった。
 全員が桜乃とは天と地程のテニスレベル所有者なので、桜乃にとってはこの時間は非常に貴重なものなのだ。
 レギュラー達も、あくまでこちらの行動を最優先に考え、控え目に教えを請う少女については憎からず思っており、ほぼ初心者、若葉マーク付きの相手であっても親身になってアドバイスを与えている。
 無碍にしたら後の跡部が怖い…という気持ちは無い事も無いのだろうが、やはり一番には自分達もかつては彼女の様なものだった、という思いがあった。
 そんな自分達を、強引な手法ではあったが跡部はより高みへと導いてくれたのだ、その彼が選んだ女性なのだから、少しだけでも手を貸すのは決して間違ったことではないだろう。
「竜崎さんはいつも熱心ですね」
「はぁ…私、かなりどんくさいから、人の倍は頑張らないと上達出来ないんですよ」
 鳳から褒められた桜乃が照れながら答えると、向こうはいえいえと微笑んで、ところで…と切り出した。
「跡部さんには教わったりしないんですか?」
「え、ええ…たまに教わってはいますけど、部長さんですから色々と忙しいだろうし、あんまり初心者の質問ばかりだと呆れられそうで…」
 少し照れた様子で頬に手を当てそう語る桜乃に、鳳は少し口調を強めて否定した。
「そんな事ないですよ、竜崎さんが相手なら、跡部さんもきっと喜んで教えてくれると思いますよ?」
「う、う〜ん…そうでしょうか? これ以上呆れられたら、流石にちょっと不安です」
「いえ、本当に大丈夫だと思いますから!」

 今、貴女の背後に立っている跡部さんからの執着オーラを見る限り!!

 いつの間にか桜乃の背後に立っていた跡部の様子を見つめ、本当に大好きなんだなーと鳳が感心している間に、帝王が少女に声を掛けてきた。
「桜乃」
「! あ、跡部さん…他の部員の方々へのご指導は?」
「ああ、ようやく一段落ついたところだ…ちょっと気分転換に飲み物を買いに行くから付き合え」
「はい、いいですよ。鳳さん、有難うございました」
「うん、じゃあね」
 にこ、と笑って手を振りながら、跡部に連れられていく桜乃の後ろ姿を眺め、鳳はぽつんと呟いた。
「まさか、あんな跡部さんを見る日が来るとは思いませんでしたね…宍戸さん」
 いつの間にか試合を終えた宍戸が後ろにいるのを見越しての発言に、相手も渋り顔で頷く。
「まぁな…あれで腑抜けてないのが跡部らしいっちゃらしいんだが…そんな訳だから、隙を突いての下剋上は期待しない方がいいぜ、日吉」
「そんな真似しなくても…実力で勝ち取ってみせますよ」
 いつもの様に小生意気な発言をする次期部長候補である若者も、おそらくは二人とそう考えは変わらないと思われる微妙な表情を浮かべていた。


「お前はどれがいい?」
「あ、オレンジジュースで」
「よし」
 自販機が並んでいるコーナーに到着し、跡部は桜乃のオレンジジュースを買った後で、自分の分のブラックコーヒーを手に入れていた。
「景吾さんも、自販機使ったりするんですねぇ」
「まぁな…やはり本物の味には及ばねぇが、たまにはこういうのも悪くない」
 氷の帝王は、缶コーヒー一本手にするだけでも絵になっている。
 彼が手にしていたら、どんな紛いモノや贋作でも本物に見えてしまう様な説得力がありそうだ。
 尤も、この男の眼力の前にはどんな小細工も通用しないだろうから、紛いモノを持つ事自体、あり得ない話だろう。
「じゃ、戻るぜ」
「はい」
 二人で歩いてコートへと戻る途中、はた、と桜乃は気づいた。
 今はもう放課後…歩いているこの道にも自分達以外の生徒は一人もいない。
 数多くの部員達がいるコートでは到底試す気になれなかった自分からのキスも、今なら実践に移せるかもしれない!
(え…えと…い、いないよね、誰も…)
 きょときょと…と周囲を見回す桜乃は、あくまで控えめに行動しているつもり…だったのだが…
「…お前、何をそんなにきょろきょろしてんだ? 首もげるぞ」
 やはり、見事な挙動不審に陥ってしまっていた。
 普通の人間から見てもそうなのだ、眼力を持つ帝王がそれを見逃す筈がない。
「…見逃して下さい…」
「何の話だ」
 何となく落ち込んでいる様に見える恋人だったが、跡部には全く事情が分からない。
「気分悪いなら、医務室に連れて行くが?」
「だ、だ、大丈夫です、うん、大丈夫ですからっ…」
「???」
 怪訝そうな表情を浮かべたものの、そこまで言うならそれでいいかと跡部は再びコートに向かって踵を返し、桜乃は彼の隣に続いて歩き出した。
(う…とてもキスする様な甘い雰囲気じゃないよう…でも、そんな事言ってたらいつまでも実行出来ないし…)
 しょうがないよね…今は雰囲気よりもキスの実行が優先!と、考え、桜乃はどきどきと動悸を感じながら隣の恋人の様子を伺う。
 足が遅い自分の為にややスピードを遅くして歩いてくれる若者は、今は真っ直ぐ前を向いて淡々としている。
 知らない街などならともかく、慣れた場所なら周囲に気を向ける事もなく正面を向いて歩くのは当然のことであり、そんな相手の行動は桜乃にとってはチャンスだった。
 相手が歩いている間にちょっと横から伸びあがり、顔を寄せたら、キスが出来ない距離ではない。
(よ、よぅし…!)
 狙っているのはあくまでさり気無いキスである筈…なのに、気分はすっかり猟師である。
 いざ本懐!と心を決めて、桜乃がいよいよ行動に移る。
 先ずは足並みを合わせながら、ほんの少しだけ相手側に寄り…
(えーいっ…!)
 無言の掛け声を掛けつつ、相手の方へと身体を向け、伸びあがったところで…!
 RRRRR…
「あん?」
 いきなり跡部の持っていた携帯が鳴り始め、彼はそのまま足を止める。
「はわわわ…っ!」
 そんな不測の事態が起こるとは露知らず…無論予想する程の心のゆとりもなかった桜乃は、そのまま勢い余って跡部の前をよたた…っとよろめきながら通り過ぎ、ぱったりと派手に倒れてしまった。
「! おい、大丈夫か!?」
「あうう〜〜…」
 また失敗したぁ…とぐすんと鼻を鳴らす桜乃を急いで引き上げてやりながらも、跡部は取り敢えず携帯へ反応を返した。
「もしもし…? ああ、榊監督…はい、はい…」
(うううっ…榊監督、凄くいいタイミングと言うか何と言うか…)
 まさか自分の監督する生徒にこういう危機が及んでいると気付いての阻止なのか…いやまさか…でもあの監督ならもしや…と桜乃が悶々と思っている内に、あっさりその通話は切られた。
「監督は今日の部活には顔を出せないそうだ……って、本当にどうしたんだお前」
「…多分、今日の山羊座は一番運が悪い日なんです…」
「??」
 結局、それから二人は再び部室に向かって歩き出したが、残念ながら通り道に見かける生徒の姿もちらほらと見られるようになり、桜乃が三度のチャンスを狙う事は出来なくなってしまった。


「お疲れー」
「お疲れ様でした」
「お疲れさん」
 監督不在のままに氷帝の今日の部活内容は全て終了し、部員達は思い思いの挨拶をしながら散ってゆく。
 レギュラー達には彼らの為の部室があり、当然全員が着替え終わるまでは桜乃は中に入る事は出来ずに外で待機することになる。
 しかしそれもそう長い時間ではなく、彼女はやがて跡部以外のレギュラーで最後に出てきた忍足に促され、部室の中へ通された。
「お嬢ちゃん、跡部が呼んどるで、中に入ってや」
「あ、はい」
「俺らはもう帰るけど、襲われんよう気ぃつけるんやで?」
「ゴチャゴチャ寝言がうるせーぞ忍足」
「おお、怖い怖い…ほなな」
 くすくすと苦笑しながら、曲者がいなくなると、部室の中は跡部と桜乃二人だけになった…が、帝王は今は少女に構うより、彼女が持ってきてくれた書類に目を通す事に集中していた。
「悪いな、今日の内にこれをあらかた読んで理解しておきたい。帰るまで少し待っていてくれ」
「いいですよ」
 こうして部活が終わるまで一緒にいる時は、大体跡部が自分御用達の超高級リムジンで桜乃を自宅まで送ってやるのが通例であり、今日もまたそれに則っての行動になるらしい。
 最初は遠慮していた桜乃も、相手がとことん引かない主義であることを思い知らされた今では、素直に従うことにしている。
(お邪魔になったら悪いなぁ…静かにして部室の中を見てよっと…)
 恋人であっても仕事の邪魔はするべきではない、と桜乃は大人しく部室の中に設置されていた多くの賞状やトロフィーが飾られている棚などを見ていることにした。
 静かにするのは苦痛ではないし、青学以外の学校の部室を見学するのもなかなか新しい刺激で楽しいものだ。
(うわー、流石名門だな〜、青学も負けてない筈だけど、何かやたらとゴージャスに見える気がする…部室が広い所為かな)
 ふむ…とそんな事を思いながら桜乃は二人しかいない部室を改めて一瞥する。
(二人だと無駄に広い感じがするなぁ…今は樺地さんが外にいるから尚更…でもあの人、景吾さんが呼んだらすぐに来るけど、ドアとか開けた気配もないって本当に何者…)
 これはもしかしたら氷帝でも永年の謎になるかもしれない…と思いつつ、不意に彼女が跡部の方を振り返ってみると…
「…あら?」
「……・」
 非常に珍しいことに、帝王が書類を手にしたまま、居眠りをしていた。
(うわわ、珍しい〜…あんなに隙を見せない景吾さんが…)
 珍しいものはついついよく見てみたくなる…桜乃もそんな普通の人間に変わりなく、つつつ〜っと音をたてずに彼の方へと近づいて行った。
 今日も生徒会や、監督のいない部活動の管理など、忙しいことがあって少しだけ疲れてしまったのかもしれない。
 桜乃が間近に寄っても、彼は相変わらず瞳を閉じたまま、ささやかな寝息を漏らしている。
(わー…目を閉じてるところなんてあんまり見ないから、新鮮…ほんっとうにハンサムだなぁ)
 血筋ってものなのかな…と思っていた桜乃が、ふとその時、この場には二人しかいないというベストシチェーションに気がついた。
 今ならここには誰もいないし、何より本人が無防備な状態だから、失敗する事はないだろう。
 うつ伏せて寝ている訳でもないし、今なら頬でも唇でも…
「…っ」
 いよいよ、多分これが今日のラストチャンス…!
 そう認識し、いざ実践しようとした途端、桜乃の胸がどきどきと早鐘を打つ。
(ち、ちょっとだけ…寝ている間なら景吾さんも気がつかないし…)
 まるでオリンポスの神の彫像が生身になったかの様な、美しい男の顔に、徐々に桜乃のそれが近づいてゆく。
「…」
 本当にもう少し…三センチもないというところで、しかし彼女はそれ以上の接近を止めた。
(…でも何か…ずるい気がする、な…)
 いいのだろうか…と純粋に思った。
 確かに自分達は恋人だし、これまでも唇を重ねたことはあっても…こういう風に眠っている隙を突かれて口づけられることを、彼は望んでいるだろうか…?
 正直、今の状況は自分にとっては凄く美味しいことだけど…
「〜〜〜〜」
 間近で見れば見る程に美しい男の顔に、そのまま唇を押しあててしまえという心の中の欲求を必死に宥めながら、少女は今度は逆に顔を引き戻して姿勢を正した。
 一度離れてしまえば、今度はチャレンジ精神よりも気恥ずかしさが立ってきて、桜乃は結局自分一人の戦いでも白旗を振っていた。
(や……やっぱり、やめとこ…)
 やめよう…と思ってもまだ胸の中では心臓がばくばく言っている。
 しかし、それもすぐに落ち着く…と思ったその時、
「やらねーのか?」
「っ!!」
 いきなり聞こえてきた声に、つい先程まで自分が考えていた企みの後ろめたさもあり、桜乃はびびくんっと見事なまでに飛び上がった。
「ふえ…っ!?」
 誰が…っ!?と思ってもこの部屋の中には自分以外には一人しかいない。
 反射的に彼の方を振り返ると、居眠りをしている筈の帝王が口元にうっすらと笑みを浮かべていた。
「え…っ、け、景吾、さん…?」
 動揺している間に、跡部の閉じられていた瞳がぱちりと開く。
 そこには眠気の名残は全くなく、彼は桜乃に向かって意地悪な笑みを深く刻んだ。
「折角、お前がやりやすい様に寝たふりまでしてやったってのにな…桜乃」
 ばれてる〜〜〜〜っ!!??
 ひーっと心の中で悲鳴を上げた少女は、それでも何とかパニくった頭で、必死にこの場を誤魔化そうと考えた。
「な、なななな何のことやら…」
 結局、誤魔化すどころか更に胡散臭さを露呈するだけだったが、跡部はそんな相手の弁解に構わず、腕を伸ばして彼女のそれを掴むと、一気に自分へと引き寄せた。
「きゃ…!」
 ばふっと勢いよく跡部の胸に桜乃が飛び込む形になったが、彼が座っている革張りの椅子の程良いスプリング効果のお陰で、不快な衝撃はなかった。
「何のこと? 今日は俺に何度もキスしようとしてたじゃねぇか、お前…あれだけ分かりやすい行動しといて『何のこと』もねぇもんだ」
「〜〜〜〜っ!!!」
 やっぱり…完璧にばれてる…
 これまでの自分の醜態も、その目的も看破されていたと知り、桜乃は羞恥に震えながら真っ赤になって相手の胸に顔を埋める。
 しかし非情の帝王は少女が顔を隠す事を許さず、くい、と指先で、しかし強く相手の頤を支えて上向かせた。
「いつものお前にしちゃ大胆な事をすると思っていたがな…どうした? 俺様からのキスだけじゃ我慢出来なくなったのか?」
「ち、違います…!」
 くっくと笑う相手に、必死に桜乃は弁解した。
「そ、そのう…今日、友達と話してて…相手に甘えてばかりじゃ、いつか嫌われるって…確かに私、今まで景吾さんからしかキスされた事なかったから…このままじゃ…」
「……嫌われるとでも思ったか?」
「…」
 その通り、図星を指された桜乃がしゅん、と力なく項垂れると、跡部は一瞬戸惑った様な表情を浮かべたが、すぐに勝気なそれへと戻っていった。
「分かってねぇな…それぐらいで飽きるなら、俺はとっくにお前を捨ててるぜ。俺がどうしてここまでお前に構ってやってると思う?」
「え…っ」
 問い掛けられ、桜乃が俯けた顔を上げると、その時にはもういつもの様に跡部から唇を奪われていた。
 しかもすぐに離してはくれず、ゆっくりと時間を掛けて脳を侵食する様に、その口付けは長く続いた。
「…っは…あ…っ」
 ようやく自由になった濡れた唇で息を吸い込み、見つめてくる少女の潤んだ瞳と上気した頬を見て、ぞくりと跡部の背筋が震える。
 そうだ、お前のその顔…
「好きなんだよ、その困ったような目も恥じらう表情も……お前の存在全てが、俺を堪らなくさせる。いつだって、俺を狂わせやがる」
 お前の前では、俺はいつだって冷静じゃいられなくなる…忌々しい程に…愛しい。
 俺という男をこんなにまでしておいて、まだそんな不安を感じているのか…?
 我儘にも程があるだろう。
「景吾さん…」
 その我儘のお仕置きだとでも言うように、跡部が再び桜乃の唇を塞ぐ。
「…下らねぇこと考えないで、お前は俺に大事にされてりゃいいんだ」
 お前がお前じゃなけりゃ…俺はお前を好きになんかならなかった。
「〜〜〜〜…ハイ」
 ここまで熱烈な言葉を聞いて、他にどんな台詞を返せただろう。
 ぷしゅ〜っと湯気を出しそうな程に赤くなってしまった桜乃が、いよいよ顔を上げられなくなって己の胸に再び顔を伏せる様を、跡部は面白そうに見つめていたが、やがて相手にさらりと軽く言った。
「…けどまぁ、たまにはお前からそういう努力をするのも悪くねぇ。今からお前がキスしてみな。そうしたら解放してやる」
「え……えええっ!?」
「何だよ、俺は逃げもしねぇし、隙を窺う必要もねぇ…難易度はかなり下げてやってんだぜ?」
「う…で、でももうしてもらったし…今日のところは〜…」
「何なら樺地呼んで見ていてもらうか?」
「キャ―――――――ッ!! やりますやりますからっ!!」
 本当はまだ完全に覚悟が決まっていた訳ではなかったが、このままだと本当に観客を呼ばれてしまいそうな危機感を覚え、桜乃はやむなく自ら退路を断った。
「うう…ムードも何もないです…」
「手足同時に出したり派手にすっ転んでた奴が何言ってやがる」
 いいから早くしろ、と明らかに楽しんでいる男の促しに、桜乃は渋々と両手を伸ばしてそっと相手の両の頬を挟んだ。
 リアルな感触を実感しながら、そのままそろそろと顔を近づけていく。
 しかし、ずっと見つめてくる相手の視線に遂に耐え切れず、
「…っ、め…目、閉じてて…」
と、間際で必死に懇願した。
 何所までウブなんだか…とやや呆れた帝王だったが、まぁそれぐらいはいいかと赦免を下し、瞳を閉じる。
「…フン、まぁいいぜ、ほら」
 そして、相手の視線から解放されると、桜乃は再びゆっくりと顔を寄せ…直前で自身も瞳を閉じて、ちゅ、と軽く唇を重ねた。
 ようやく果たせた自分からのキス…だったが、ほんの一秒もしない内に、彼女は大慌てでそれを離してしまった。
「……おっ、終わりました…っ」
「…やれやれ、ド素人のキスだな」
 少し物足りない様子の帝王の批評に、必死だった少女はでも、と主張した。
「し、しょうがないじゃないですかぁ…私…景吾さんとしか、したことないですもん!」
「……」
 或る意味それは男にとってとんでもない殺し文句であることを、この娘は知っているのだろうか?
(ああ、全く…これだからまた、俺はこいつに惹かれていくんだろうな…)
 けど、こいつからの初々しいキスも悪いものじゃなかった…俺から仕掛けるままでいいと最初に言ってしまったのは、ちょっと勿体なかったか…?
「…」
「?…何ですか…?」
「…いや」
 相手の問いをさり気無くかわし、跡部はようやく桜乃の身体を解放して自分も立ち上がった。
「…今日はここまでだ。送るぜ」
「あ、はい…」
 一緒に帰る様に促し、並んで部室のドアに向かいながら、帝王はこれからも紡いでいけるだろう少女と逢瀬を思い、微かに笑っていた。

 そう、『今日は』ここまででいい…また後で、ゆっくりと教育していく時間はあるだろう
 俺がお前に夢中である限り、お前が俺に想いを寄せる限り
 お前の全ては、俺だけのものだ…





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