(…アレがなかったら、俺でも手ぇ出したかもしれんわ)
 忍足が思い出したのは、少し前の氷帝内でのささやかな「事件」だった。
 それは氷帝学園の中でもごく一部の人間しか知らないものだったが、実は氷帝以外の学校の人間数人にも知られている、ささやかながらも結構なインパクトのある事

件である。
 その事件についての詳細を思い出しかけたところで、忍足は、丸井の声で一時その思考を中断した。
「あ、ところでおさげちゃん、何か用があったんじゃないの?」
 そもそも彼女が此処に来た理由をまだ聞けていなかった若者が改めて尋ねると、桜乃もまた同じくそれを思い出した様子でぽむ、と小さく手を叩いた。
「! そうでした、丸井先輩、真田先輩が呼んでましたよ?」
「げっ」
 真田という名を聞いただけで、丸井の表情が明らかに強張ったが、忍足や向日を始めとする氷帝の面々は驚きもしない。
 その人物が立海の中でも随一に他人や自分に厳しい男である事は、立海の内外でも有名なのだ。
 おまけにその性格を絵に書いた様な強面なので、見た目の圧迫感もばっちり。
「マジで!?」
「ええ、ちょっと試合の事で相談したいことがあるって…」
「うわやべぇ! 待たせたら機嫌悪くなるんだよな〜、ガム選ぶのに結構時間かかったし大丈夫かな…」
 慌てた先輩に、桜乃は大丈夫ですよ、と優しく笑う。
「単に細かいところを再確認したいだけの様ですから、そんなに急なものでもなさそうです。私も同行しますから、行きましょう」
「ん、おさげちゃん一緒だと助かるー」
 助かるというのは、明らかに真田と自分との間に立ってくれる壁や盾という意味でのことだろうが、桜乃は気を悪くするでもなく頷いた。
「じゃあ、一緒に…あ、皆さん、失礼します」
「ん」
「じゃあな」
 氷帝の面々に挨拶を済ませ、桜乃が丸井と一緒にその場を後にする。
「…ん? どうした忍足」
「ああ、いや、何でもあらへん」
 ずっと、桜乃の後姿を追っていた眼鏡の優男に宍戸が声をかけ、相手が応えると同時に向日が口を挟んできた。
「ほっとけよ宍戸、こいつの女好きは今に始まったことじゃないし。何か問題起こしたら知らない人ってコトで通したらいいじゃん」
「いや、その前に通報しろよ」
「ツッコミどころが有りすぎて、何処をどう弁解したらいいもんやら…」
 自分ら、随分好き勝手言うてくれとるやん…と、忍足が呆れた顔で溜息をつくと、更にそこに別人の声が加わった。
「何してんだてめぇら、ちゃんと準備は済んだのか?」
「跡部」
 いつの間にかその場に来ていた一人の若者。
 堂々と腕を組み、目の前の忍足たちを見据える瞳は薄い色素とは裏腹に強く鋭い光を宿している。
 その不遜なまでの態度も、彼の全身から滲み出る様なオーラを感じた者の殆どは『是』としてしまうだろう。
 時としてこういう人物は世の中に存在する。
 凡人とは明らかに異なる異彩を放つ人間。
 人の取り決めた法だの何だのとは無縁の世界、ただの一言の言葉も必要とせず、その存在のみで人々の目を集め、跪かせ、従える様な、そんなカリスマを宿した人間


 氷帝学園、高等部一年の跡部景吾は、正にそんな人物だった。
「ああ、まぁ大体は…そっちも終わったんか? 試合前の打ち合わせ」
「当然だ」
 忍足に答えた跡部は、先ずはその場にいる全員を見回し、ぐるりと首を巡らせ…去っていくところだった丸井と桜乃の姿を捉えて視点を固定させる。
「あいつらは…」
「単に冷やかしにきただけ」
「…そうか」
 向日の言葉にそれ以上突っ込む事はしなかった跡部だったが、暫くの間、彼の視線はあの二人に注がれていた。
 そしてそんな跡部の様子を静かに窺っていた忍足は、決して誰にも悟られないように、軽く心を閉ざしていた。
(…気付いてはおらん…のかな…まだ)
 正直、彼のことだからいつかは見抜く可能性も十分にあると考えていたのだが…と、こっそりと思う。
 そんな忍足が思い出していたのは、あのかつてのささやかな大事件、目の前の跡部という若者が、恋に患い倒れた時のことだった。
 過去、彼は見ず知らずの女性に一目惚れをしてしまい、それが元で自身の身体をも壊しかけてしまったのだ。
 相手に再会したことで、幸いにも最悪の事態は免れた。
 しかし、今も跡部は、その娘に恋をしている。
(それがまさか…)
 視線を外して向けた先は、あのおさげの少女。
(あのぽややん娘だなんて、確かに眼力の跡部でもそうそう簡単には思いつかんやろうけどなぁ〜〜)
 自分も些細な偶然がなければ分からなかったかもしれない事実を思い返しつつ、その眼鏡の若者は溜息をつく。
(しかも、周囲のガードは相変わらず固い様やし…あのお嬢ちゃんも災難なんか幸運なんかよう分からんわ…)
 そう。
 跡部の恋患いの対象は、実は桜乃だった。
 これは本当に一部の人間しか知らない。
 跡部本人も、桜乃本人すらも知らない真実。
 知っているのは自分と、桜乃を取り巻き守る、立海の八人の兄貴分達だけなのだった。
 守られている桜乃は確かに幸運なのだろうが、ガードが固すぎて恋をする隙が見えないのも困ったものである。
(けど、二人が知り合った境遇考えると、あちらさんが言う好意の押し付けってもんも否定出来んしなぁ…もしあのお嬢ちゃんに真実を話したら…)
 その二秒後には、神奈川の何処かの河川に浮かぶ自分の末路がまざまざと思い浮かび、忍足がぶるっと身体を震わせる。
(アカンわ、やっぱここはもう少し慎重にいかんと……って、何でわざわざ人の恋路の心配してんのや自分)
 まぁ、首を突っ込みすぎたらそのまますっぱり切られかねないので、暫くは傍観しておこうと決めたところで、忍足はふと、こちらに駆けて来る非レギュラー部員に

気付いた。
 見たところ、かなり焦っている様子だ。
「あ?」
「何かあったんじゃねーの跡部」
「あん?」
 宍戸と向日が彼に声を掛け、相手が応じてそちらを見た時には、もうかなりの近さにその部員は近づいていた。
「跡部部長、お電話が…」
 相手は手にしていた携帯を跡部に向かって差し出した。
 どうやら、彼の私物らしい携帯の振動に気付き、持って来た様だ。
「ああ、すまねぇな…」
 そんな光景を見ていた宍戸が首を傾げる。
「? 珍しいな、跡部が物を置き忘れるなんて…あんなに隙がねぇ奴が」
「まぁ高校に上がってからこっち、テニス部部長の座を分捕って、部内の体制を改革して、ついでに生徒会長にも立候補企ててって、相変わらず突っ走ってるからなぁ

…おまけに帰ったら家の経営している会社の運営にも前にも増して関わってるって言うし…ちょっと疲れてんじゃね?」
「俺なら三日で過労死だ…」
 向日のしれっとした説明に、宍戸が渋い顔で庶民であった事を神に感謝している間に、跡部が携帯の通話ボタンを押して会話を始めた。
「俺だ…何だ?」
 向こうの声も台詞も聞こえない以上、何について喋っているかは跡部の言葉から推測するしかない。
 何だ何だ〜?と野次馬根性で見ていた男達の前で、跡部は誰かから何かしらの報告を無言で受けていたが、不意にその顔色がすぅっと白くなった。
 元々が色白だった男の顔が更に紙の様になっていく様を見て、仲間達も一瞬戸惑う。
「どう…」
「何だと!?」
 どうした、と忍足が問う間も与えず、次の瞬間には跡部が怒鳴るように携帯の向こうの相手に問い、また更なる報告を聞いていたが、一向に彼の顔色の悪さは軽減さ

れることなく、寧ろ悪化している様にさえ見えた。
「向こうの状況は!?……お前達で対応出来るのか、出来ないのか、どっちだ?」
 それから若者のやや苛立たしげな台詞が続いたが、結局会話の内容の詳細を推理するまでもないまま、その通話は切られた。
 そして間をおかず、跡部が忍足に振り返りながら一言。
「俺様は今から屋敷に帰る。今日の練習試合のシングルス枠は適当に誰か選んで埋めとけ」
「!? 何や跡部、何があったんや?」
「うるせぇ、今は説明している場合じゃねぇんだ。いいな、任せたぞ」
「おい…?」
 そして、相手の返事を待たずに跡部はさっさとその場から立ち去ってしまったのだった…




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