妖達と桜姫


 東と西の争いで、十の山が焼けたとな
 多くの武(もののふ)戦って、赤い河が出来たとな
 赤い河の水吸って、雅な桜が咲いたとな
 桜の様に美しい、優しい姫がおったとな


 あ―――ん、あ――――ん……
 霧深い山の中で、幼子の泣き声が響いていた。
 野の獣道にそぐわぬ紅の絹の衣を纏った女子が、小さな足をよろめかせ、声を上げて泣きながら、霧の中を歩いてゆく。
 もうどれだけそうしているのか分からない、しかし、今彼女に出来るのは、当て所も無く歩き、自分の館を探すことだけだった。
「父様…母様ぁ…」
 こんなに長い刻が過ぎたのに、どうして霧は一向に晴れないのか…
 それに、いつまでたっても同じ風景ばかりが続き、分かれ道すらない。
 この道は一体何処へと続こうとしているのか……
 よろりよろりとよろめきながら、涙を拭い、顔を手で覆ってひたすらに歩き続ける女童は、もうその力も限界に近かった。
 駄目かもしれない……
 そう思った時、足元の小石につまづいて、ととっと前に身体が倒れかけた時、
 とんっ…
と、何かがぶつかって彼女を転倒から守った。
「?」
 柔らかであったかな何かが、自分を支え、同じく温かな何かが背中に触れた。
「何じゃぁ? 煩いと思ったら、人の子か」
「!?」
 はっと顔を上げると、白銀の彩が飛び込んできた。
 刃の煌きかと見紛うそれが人の髪の色と分かった時、女子が真っ先に思い浮かべたのは異形の姿の物の怪だった。
 母様に聞かせてもらった伽話で、この山の奥深く、人をとって食らうという鬼や天狗がいるのだと。
 そしてこの山の奥の奥に住むという竜神は、彼らが呼べば頭を上げて、全てを濁流に呑みこんでしまうのだと。
「きっ…きゃ―――――っ! きゃ――――――っ! きゃ―――――――――っ!!!」
 逃げなければ!と思いすぐさま足を全速力で動かしたのだが…惜しいことに方向転換がまだだった。
 結局、逆に物の怪の身体に突進することになってしまった女子は、まだ自分がそういう状況になっていることに気付かずに足を動かしている。
「…気持ちは分かるが、無駄な足掻きじゃの」
 逃げようと思って敵の懐に突っ込んでしまった彼女を、その白銀の妖はひょいっと軽々と持ち上げて自分の目線に持ってきた。
「う…」
「ほっほ〜…綺麗なべべ着た童じゃのう。只人がこんな処まで来るとは珍しい事もあるもんじゃ」
 その妖は確かに人の形をしていたが、白銀の髪に色素の薄い瞳を持ち、おまけに自分を軽々と片手で持ち上げる怪力だった……見た目は異常に細いのに。
 野武士でもない、まるで遠い都に住むという天上人が纏う様な金色の狩衣を纏い、こちらを楽しそうに見つめている。
 不思議なのは、人をとって食うという鬼や天狗にしてはとても優しい笑顔をしていた。
「…くすん」
「ほうほう、泣き止んだか…まだ煩く喚けば捨てていこうと思うたが…面倒じゃ、このまま連れて行こうかのう」
 にぃっと笑った妖は、それから軽く膝を曲げ…とんと地面を蹴った時には山の木々の更に遥か上まで飛び上がっていた。
 確かに彼は人ではない…人外の存在だった。
「ふわ…!」
「掴まっとれよ、童」
 一跳び、二跳ね、木々の頂を飛び越えて、白銀の妖は童を抱えたままに空を渡る。
 迷うどころか、既に家が遥か彼方になってしまったことを感じながらも、女子は自分を攫った妖に縋りつくしか術はない。
 馴染み深い森をあっという間に越えた先、突然に目の前に絶壁が現れる。
 その頂からは幾千幾万もの白糸を一気に押し流したかの様な見事な滝。
「そりゃ着いた…開門せんか! 仁王が来たぞ!!」
 宙を舞う、仁王という白銀の髪の妖が楽しげに叫ぶ。
 刹那
 流れ落ちる滝がまるで蛇の身体の様にぐにゃりと曲がり、うわぁと天一杯へと広がると、彼ら二人を飲み込んだ水の蛇となった。
「心配しなさんな…落ちやせんよ」
 水で出来た洞穴の様でありながら足が抜けることもなく、妖は中の空洞にしっかりと立ち、ゆっくりと足を進めた。
 透明な洞穴のその先には、滝で覆い隠されていた岩盤を縦に割った形の亀裂があり、仁王は女子を胸に抱えたままその中へとゆっくりと入っていく。
 日も差さない筈の狭い空間の向こうからお天道様より眩い程の光が差し込んでくる。
 そのお陰で迷うこともなく、二人は狭い道を抜けて行き、空間が開けた場所へと辿り着いた。
「わ…」
「そら、頼むから泣いてくれるなよ、大人しゅうしとけ」
 ほいっと腕から地面へと久し振りに下ろされた童は、言われずとも泣くことも忘れて、目の前の光景を見つめていた。
 瑠璃に瑪瑙に翡翠に水晶…あらゆる宝玉を無造作に組み上げた様な荘厳なる宮殿が、自分たちを迎え入れていた。
 どんな名工も、こんなに不可思議な形の宮は造れまい。
 一つ一つの柱には一本として同じものはなく、それには鳳凰や龍などの神々の姿が豪華絢爛な絵巻物の様に刻まれている。
 天井は見えない程に高く、閉ざされている筈の空間なのに、もう一つの太陽を隠し持つ様に頭上からは眩い光が降り注いでいた。
 宮殿には道がなく…この空間全てが大広間の様に解放されている。
『半刻の遅刻だ…仁王』
『遅い! 待ちくたびれたよいっ!!』
「!?」
 何処からか、自分達へと降ってくる声に女子は驚き、思わず妖の足の着物の裾にはっしと縋りついた。
 そんな彼女を面白そうにちらりと見遣り、白銀の髪の若者が誰にともなく答えた。
「すまんすまん…ちょいと寄り道をのう。珍しいもんがあったんで、拾って来たんじゃよ」
『拾い物?』
 そんな答えがまた返ってくると、今度は二人の目の前に鬼火が現れた。
 既に妖の一体を見ているとは言え、童は再び驚きつつ妖の陰に隠れてしまったが、何とか泣くのは堪えた。
 ここでまた泣いてしまったら…今度こそ食べられてしまう!!
 怯える女子の前で鬼火は人の形を取ると、そのまますとんと床へと降り立った。
「何だよぃ、食い物か?」
 ふわりと奮い立つ炎の様な赤い髪をした若者が、白銀の男の前に立って興味深そうに相手を覗き込んでくる。
 先程の鬼火の正体は、この若者であったらしい。
 仁王と同じ様に貴族の召し物である狩衣を纏っていたが、その色は鮮やかな紅。
「文太が食うには少し早いかの…こいつじゃ」
 仁王が後ろに隠れていた娘を押し出して、相手の前に晒すと、彼女は首を思い切り曲げて上を見上げ、きょときょとと辺りを見回した。
「あ…首動いた」
「?」
 ぽそりと言った赤毛の男に気付き、女子の視線が彼へと向く。
「あ…こっち見た」
『仁王!! 人の子か!!』
『この場に穢れた人間を呼ぶとは、いよいよ貴様、気が触れおったか!!』
 姿見えぬ怒声が響き渡ったが白銀の男は全く動じず、逆にむっと不快感さえ露にした。
「いよいよって何じゃ…神ノ森におったから連れて来ただけじゃよ。珍しいと言うたじゃろ」
『神ノ森に人?』
「…お前も来とったんか、柳生よ」
 割り込んできた静かな声に、軽く首を巡らせて仁王が笑うと、その先に再び鬼火が現れ、赤髪の男の様に人の形をとる。
 それは黒い布で己の両目を塞いだ、紫の髪の若い男だった。
「誓約は守らねばなりません…私は幸と誓約を結んだ者、それだけです。ようやく全員揃いました、貴方が一番最後です」
「じゃからすまんと」
「お前の詫びの言葉に、真はあるのか」
 今まで何度同じ言葉を聞いたことか…と苦言が聞こえる中で、次々と鬼火が現れては人の形を象ってゆく。
 全員が若い男達だったが、何処か、人としての何かを欠落させた様な者達だった。
 何が、とは言えない…しかし、目の前の者達が最早、人とは言えない以上、誤りではないだろう。
 白銀の妖を含めて七人…ほぼ全員が冠も被らぬまま、髪も結わぬまま、狩衣や束帯姿で立っていたが、どの公家にも負けぬ気品が溢れている。
 その中で最も年長者に見える黒髪の男が、阿修羅像の様にぎろりと童を見据えてから仁王へと視線を移した。
「ただの人の子だ…本当に神ノ森にいたのか…?」
「くどいのう弦(ケン)…じゃから連れて来たんよ、幸に見せれば分かるかと思ったんじゃ」
「幸に?」
 聞き返したのは、僧侶と思しき水干を纏う若者…しかしその姿は深い地の底から抜け出した怪の如く土気色であり、幼子は興味も露に相手を見上げる。
 恐怖も麻痺しているのか、それとも恐怖よりも興味が勝っているのか。
「悉伽羅(シカラ)を見ても怯えないとは…興味深い童だ」
 目を閉ざしたままなのに、まるで見えているように呟いたのは、厳格そうな弦と呼ばれた男の隣にいた若者だった。
 深い藍の色の狩衣を纏った彼は、すぅと己の指を彼女の前に出し、それを移動させて相手の目の動きを追った。
「…ふむ、目が見えぬ訳でもないのか」
「笑うのかな…見せて、蓮主」
 更にその隣にいた、彼らの中では幼い顔立ちの、くしゃりとした髪をした若者が、少女の前に屈みこんで、こちょこちょこちょ、と脇をくすぐった。
「っ!? きゃはははは…っ!!」
 じたばたと手足を動かして大笑いする娘を見て、悪戯を仕掛けた若者も面白そうに笑った。
「おー、笑った笑った」
「何をしとるんじゃ、赤也」
 そんな男を仁王が呆れたように眺めつつ口を挟んだ時…
『うう…ん』
「む…」
 何処からか、くぐもった、眠気に満ちた呻きが殿中に響き、弦を始めとする全ての妖が宮殿の奥の方へと注目した。
「幸が来る」
「はぁ…やっと目覚めおったか」
 弦という妖が奥間へと目を向けつつ呟き、仁王が頭を掻いて苦笑する。
 娘を含めた全ての者が注視する中で、一際大きく白い鬼火が現れて、人へと変じる。
 正しくは、人の形を為した何かへと。
『……ああ、おはよう、久し振りだね』
「十年も寝れば久しくもなるのう」
「幸が無事に十年目覚めずにいたのは、この地が恙無しということだ。だが、確かに久しいな、幸」
 蓮は藍の衣を翻して、鬼火から人へと変じた男…白の束帯の若者に微笑みかけた。
 己の衣にも負けない白い肌と、他の妖と同じ様に結わないままに遊ばせる髪、人には変じても、人の男とは明らかに異なる美麗なる面。
 全てを兼ね備えた若者は、ようやく眠気を振り払えたのか穏やかな笑みを浮かべて全員を見渡した。
「またみんなに会えて嬉しい…おや? 一人、誰かが紛れ込んでいるね」
 新たな妖が現れて、再び仁王の背後に隠れていた娘だったが、それはすぐに向こうに見破られてしまい、相手がじっと興味深そうに彼女を見つめる。
「仁王が拾って来たのかい?」
「おう、神ノ森でのう…面白い童と思ってな」
「神ノ森…確かに面白い」
 幸は、呟きながらひょいひょいとその童を手招いた。
 それだけで、まるで見えない彼の腕に抱かれた様に童の身体が宙に持ち上がると、そのままふわりと幸の許へと運ばれた。
 摩訶不思議な光景だったが、妖達は当然の事の様にその光景を見守る。
「ふわぁ…!」
 驚き、宙を泳ぐように手をばたつかせ、子供は仁王の許へと戻ろうとしたが、見えない力には抗えず、そのままぽてんと幸の胸の中へと収まった。
「桜姫…ああ、成る程、桜の名を持つ童か…神魔に通じる花の加護を受けし純粋な子なればこそ、神ノ森が許したのか」
 誰にも尋ねることもなく、ただ童の身体に触れただけで、幸は彼女に纏わる全ての過去を読み取った。
 それを興味深そうに聞き入りながら、蓮という妖は懐から紙と筆を取り出して、何事かを書き連ねている。
「過去には名高き家だったようだが、戦に惑いこの地に逃げ延びてきた一族だ…酷い景色が見える、苦労したのだね。この地に落ち着いてからは戦を嫌い、まるで我らのように人々から隠れて生きている…この子はまだそれを知らないようだけど」
「何だよい、いつもの人間どもの小競り合いかぁ」
「たかが齢四十ぐらいでくたばる命じゃ…せいぜい大事にしたらええのにのう」
「この地に根を下ろし、生きてきた命、か…ならばせめてもの情、早々に帰そう」
 文太や仁王がふんと鼻で笑う横で、弦が桜と呼ばれた幼い姫を見つめつつその処遇を決定し、それに幸は薄く笑って頷いた。
「そうしようか…ここには幼子の血肉を食らう悪食はいないしね…うん?」
 抱いていた桜姫に袖をくいと引かれ、幸がそちらに目を遣ると…
「…あそぼ」
「!」
 連れて来られた当初こそ恐怖を抱いていた子供が、穏やかな相手の纏う気に心を許したのか、しっかりと袖を握ってそう訴えてきたのだ。
 それは何でもない光景の筈だったのに、周囲の妖達が一様に驚愕の視線でそれを見つめる。
 当然だ。
 自分らが何十年何百年とかしずいてきた神に、人の子が戯れを迫るなど、前代未聞の話だった。
 天上人に対してですら切り捨てられて罰を受けるだろう行為、それを神に行った姫は、何も理解しないままに同じ非礼を繰り返す。
「あそぼー」
「おやおや、困ったね…浮世の遊びなど、もうすっかり忘れてしまったよ……人の親であれば、父も母もきっと心配しているだろう。もうお帰り」
 しかしこの幸という神は、少なくとも貴き人よりは大らかな性であったらしく、彼女を再び見えない腕に抱いて仁王へと返してやった。
「仁王、お前が連れて来たのだ。その子の屋敷に確かに届けるのだぞ」
「子を探しに人々が森に入れば煩くて敵わぬ…しかと頼むぞ」
「俺は浮世の騒がしさは嫌いじゃないぜよ…やれ面倒じゃが、行って来る。幸が起きたらこの十年は退屈しないで済みそうじゃ」
 に、と笑い、桜姫を抱えた仁王は、元来た道を辿って空へとまた飛び出して行く。
 人の歩けぬ道を歩き、人の知らぬ道を辿り、白銀の妖はあっという間に消えていった。
 そして残るは七人の人の形の妖達…
「人が彼方此方と惑い騒ぐあの戦より既に十の年が流れたか…少しは奴らも学べばよいのだが」
 ふぅと息を吐く弦に、文太がけひひと可笑しそうに笑った。
「無理じゃねぃ? 人は元々争うのが好きなんだよぃ…金とか誉とか、下らねーもんにやたら群がりたがるだろ? 違うね、あれは適当な理由をつけて、戦いたいだけさぁ」
「同じ遊びばかりだと、飽きるしなぁ」
 文太の言葉に同調するように、赤也もうんと頷いて笑う…何処か危険な思惑を思わせる笑みで。
「戦の後、奴らが群れ集う都は彼方に遷都されました。暫くはこの地にも穢れた者は来ますまい…今は幸が目覚める時としても、非常に好ましい」
 柳生の穏やかな言葉に、幸は昔を思い出しながら苦い笑みを零した。
「ふふふ…あの時は本当に煩かったからね…なかなか眠れなくて苦労したよ」
「そのお陰で、幸の寝返りで三つの山が地割れを起こしたからな…元凶が己ら人間にあるとは思っていないのだろうが」
「覚えていないんだよねぇ」
 神である若者の声は何処までも呑気だった……


 神隠しに遭ったと言われた桜姫が、既に家の者達がその命を諦めようとしていた時に帰って来たのが数年前。
 あの日にひょこりと帰った姫は、怪我も無く恐れるでもなく…泣くでもなく。
 ただ、笑っていた、まるで誰かと鞠遊びでもしてきたように。
 誰によって攫われて、誰によって助けられたか、それはただの一言も語られることはなく、まだ幼い姫がそれを詳しく語れるとは誰も思わず、山の神の情だと人々は噂した。
 それから彼の姫は山より帰された貴い人として、更に深く慈しまれて育っていった。
 しかし誰も知る事はなかった…山より戻った姫には、山に入る前の彼女とは異なる変化があったのだと。
 それは……


「文太様?」
「ん? お、桜だ」
 あの不思議な宮殿に、桜姫はまるでそこが彼女の家であるかの様にごく自然に訪れていた。
 誰も入れない筈の神聖な場所であるにも関わらず、人である桜は、殿中でごろごろと寝そべっていた文太の傍に近づき、そこに座した。
 浅黄色の湯巻を纏った娘は、最初にここを訪れた時から随分と大きくなり、今はもう齢も十を越え、華の蕾の様な愛らしさである。
「また抜け出して来たのかい? 姫君」
 ごろんっと反動をつけて起き上がった文太は、悪戯好きな子供のように彼女を見上げて笑った。
「だってみんなは、外に出てはいけませんって言うばかり…もう息が詰まりそうです。遊び友達もいないのに、一人屋敷にいるだけなんて堪りません」
「はは、そりゃ退屈だ」
「…ここはとても好き、皆様のお話は、本当に面白くて夢のようです…殿方は羨ましい、色々なことを学ぶことが出来て」
「けーっ、俺ぁ嫌だけどなぁ。必要なこと以外は覚えなくても、腹が膨れたら別にいいや」
「少なくとも、あなたよりは桜姫の方が、私は気が合いそうですよ」
「う、柳生かよ」
 妖達は、人とはまるで違う常識の中で生きている…何の前触れも無く姿を現す瞬間を見る度に、それを思い知らされる。
「あ、柳生様…」
「久方ぶり…と言うほどに離れてもおりませんでしたね、桜姫。人は人の世に生きるのが最も幸せな道と思うのですが、人である筈の貴女はどうやら違うお考えの様です…」
 そんな相手の言葉に桜が答えるより早く、文太の隣に現れた悉伽羅がおいおいと柳生を嗜めた。
「別にいいだろ。俺達も彼女を取って食う訳じゃなし。珍しい人間の話を聞けてお前も嬉しいと言っていたじゃないか」
「別に悪いとは言っておりませんよ。懐かしい世界を思い出すのも一興ですが、あまりに世俗を遠く離れると、彼女がその影響を受けてしまうやもしれません」
「え…」
 柳生の台詞にまず反応を返したのは、桜本人だった。
「懐かしいって…もしかして、柳生様、人の世にいたことがあるのですか?」
「!」
 明らかに、『しまった』という意味で口を塞いでしまった柳生は、自分の失言に少しだけ顔をしかめたが、仕方なく首を振って相手の疑問に答えた。
「…私としたことが…まぁ、悟られた以上、仕方有りませんね」
「俺達、元々人間だったんだよぃ」
「え…!」
 あっさりと凄い告白をした文太は、にひゃと笑って白い歯を見せる。
「大体、おかしいと思わなかった? 妖が、人と同じ名を名乗るなんて…まぁ、弦や仁王達はちょっと違うけどなぁ」
「あ…じゃあ、あの方々は最初から妖の…?」
「や、みんな最初は人間だったんだ」
 そこに今度は赤也まで現れて、談義に参加してくる。
 どうやらこの場の賑やかさに気付いて、現れたらしく、面白そうに瞳をきょろきょろさせている。
「幸主と誓約を交して妖になったんだ。幸主の僕になる代わりに俺達は今の存在として在るのさ」
 柳生が、こちらからは伺えない視線を桜に向けて、黒布を隔てたままに頷いた。
「幸も最初は人だったかもしれませんが…もう誰もその時代の事を覚えていないのです、幸自身もね。妖になれば人であった頃の記憶は徐々に失われ、失うことで、その妖は神の存在に近づく。幸、弦、蓮…あの三方は我らの中でも長き時を生きてきた妖…故に、元の氏も名も忘れ、一文字しか彼らの存在を示す音が無い」
「己の名も忘れるということですか?」
「忘れるというよりも、執着を捨てるという事です。全て捨てれば最も高位の神となれる筈ですが、幸も他の二人も、まだ人という存在に愛着があるようで…特に貴女が来てからは」
「私…」
「人間ってさ…愚かなことばかりしてるけど、たまにはアンタみたいな善良な奴もいるから、幸達は見ていたいんだと思う。だから、人間寄りの場所に立ってるんじゃねぇのかな…妖になれば色々と変わるモンもあるんだよぃ」
 よく分からないと言う文太を見つめて暫く考えた桜は悉伽羅の方へと視線を移す。
「悉伽羅様は、それじゃあ妖になってそんな肌の色に…?」
「いやぁ、俺はまた別の件。俺の身体の半分はこの国の血じゃないからなぁ…何の因果か、異国の血が混ざっている所為で、この形(なり)だ。けど、俺にはもうそんなこだわりもなくなった」
「悉伽羅は異形の者として迫害されていたところを、幸に拾われたのだ」
 そこに新たな声が加わった。
「あ…蓮様…弦様に幸様も」
 幸、弦、蓮が三人、共に現れて彼らへと歩み寄ってきた。
 みんないつ見ても人外の気を纏っており実に見目麗しいのだが、やはり中でも幸の姿は白い輝きを放ち、見る者の視線を強く惹き付けた。
「姫、来たのだね」
「幸様…」
「昔話か…まぁ、語ることを禁じていた訳ではないから構わんが、また随分と人間臭いことを」
 弦がいつものように厳格な表情でそう言ったのに対し、赤也が不満げに返す。
「桜姫だって人間でしょ。弦主だって最近は姫のことお気に入りなのに」
「貴様のように余計な悪戯もせんし文句も言わんからな」
「うひゃあ、薮蛇」
 肩を竦める赤也を微笑みながら見つめた桜姫は、ふと顔を上げて弦に尋ねた。
「皆様が人であったという話は聞きましたが…柳生様方は明らかに名ではなく氏を示すような…?」
「仁王と柳生…奴らは特別だ…敢えて氏を名乗っている、名を語るのが嫌なのだと。奴らの過去に関わることだろうがそれ以上は知らぬ」
「そうですか…あ、幸様」
 男達がわいわいと笑って騒いでいる中で、桜乃がちょこちょこと幸の傍に寄る。
 神という存在は神々しく、人が見たら目が潰れるという昔話もあったが、幸についてはそんな心配はなかった…無論、眩いほどに美しくはあるのだが。
「幸様も…人だったのですか?」
「おそらく。でももう忘れてしまった。幸と呼ばれて久しいが、これが氏だったのか名だったのか…それも覚えてはいない。人の世から離れた以上、最早どちらでもいいからね」
「…人の世は、もう皆様には遠い世界なのですか…」
「…姫、あまり親に心配をかけてはいけないよ。姫ももう年頃、昔とは違うのだからね。ここは人にとっては彼岸…本来は来てはいけない場所なのだよ」
「年頃…という意味がよく分かりませんが…幸様」
「うん?」
「…私が望めば、私も妖にしてもらえるのですか? 幸様の僕になれば…」
「するか」
 ぺしっ
 いきなり背後から桜の頭を軽くはたいた手…仁王だった。
「いたぁい!」
「こら、仁王」
 幸の制止の声にも動じることもなく、背後にいつの間にか立っていた銀髪の若者は、ふんと鼻を鳴らして娘に顔を寄せた。
「お前さんみたいな能天気が妖になっても、俺らの苦労が増すだけじゃよ。人は本来人として天寿を全うするのが正しい道なんじゃ、気軽にそんな事を言うたらいかんぜよ」
「でも…」
「残念だけど、吾も仁王と同じ意だ…桜姫、人の世で相応しい殿方と出会い、結ばれる生もいいものだよ。妖となれば、もう一生、人と添い遂げる夢は叶わない…それは吾等の望むところではない」
 ここに訪れることを許したお気に入りの娘ではあるが、だからこそ人としての生を全うしてもらいたい、と、神なる存在の若者は桜姫の望みを断った。
「それに、吾との誓約はとても特殊だから、ね…そう簡単に出来る事ではない」
「特殊…」
「…どうせ結べんのじゃから、聞いても無駄じゃよ」
「う〜…」
 背後から茶々を入れる仁王に桜は実に不満げな表情を浮かべたが、相手は何処吹く風といった様子で逆に相手を糾弾する。
「大体のう…最初にここに連れて来てから、何回俺が森でお前さんを拾ったと思っとるんじゃ。危ないから来るなと言うに、全っ然懲りずに飛び込んできおって…」
「迷ったらまた皆様にお会い出来ると思いましたから」
 けろっとした顔で言い切った姫君に、仁王ははぁと息を吐いた。
「普通はのう…あんな奇妙な経験をした娘は、恐れ慄いて外に出んもんよ」
 そうなのだ。
 彼女がまだ幼かったあの日、自分は相手を屋敷へと送り届け、その際に『二度と森に来るな』と忠告したのである…のに、それから姫との不思議な根競べが始まった。
 毎日毎日、敢えて森へと入っては迷子になり、妖達の助けを待つようになった姫の所為で、仁王達はすっかり彼女のお守り役となってしまった。
 そして遂に、根を上げた妖達は姫に対して宮殿を訪れることを許した。
 いや、正しくは幾度も幾度も姫が根気良く宮殿に救助されがてら遊びに来たことで、妖達とすっかり顔見知りになり、彼等が姫を気に入ってしまったのだ。
 十年の眠りから幸が目覚めていたことも、一助となっていた。
 人という下俗の生き物に対しても穏やかで寛容な性を持つ彼が、桜乃を救うことを命じた以上、妖達はそれに従うしかない。
 もし彼が眠りの中にあれば、妖達は森の中で再び迷った姫を見捨てていたかもしれなかった。
「…私は誰との婚儀も望んではおりません…ずっと皆様と一緒に遊んでいたいのに」
「それはまだ、お前がそういう男と会うていないからだ。愛する男を得れば、その者の傍に在りたいと願うようになる」
 蓮の言葉に、姫はそうでしょうかと不可解そうな顔をする。
 こんなに楽しい時を過ごしてしまえば、もう、殿方と結ばれることなど夢に見ない。
「…あまり遅く戻ると、また姫がいないと騒がれるよ。さぁ、そろそろお帰り」
 幸が促し、仁王が彼女の肩に手を乗せる。
「ほれ、行くぜよ、姫君」
 それでも少し不満そうだったが、仕方なさ気に仁王と連れ立って歩き去る桜姫を見送った後、ぽり、と頬をかきながら赤也が切り出した。
「…結構、遅かったみたいですけど…どうだったんですかね?」
「思っていたよりも良くない…様々な土地で人の小競り合いが絶えず起こり、逃げる者達がこちらへと流れてきている様だ。無害な女子供だけならまだいいが、そういう輩を狙う野武士どもも多い」
「それじゃあ、幸がまた眠るには、ちょっと不安だなぁ…動くのかぃ?」
 蓮と文太の会話に、弦が瞳を伏せて首を振った。
「吾等はここで座し、人が吾等の領域を侵さぬ限りは動くこともない…人が此処を探し当てることが出来れば、その時には相手をすればよい」
「しかし弦、ここ数日、ここにも戦の血と鉄の匂いを帯びた風が届くのです…私達が感じている以上に、穢れた者達はもう間近に迫っているのかもしれません」
 柳生は、見えないのか見えているのか分からない瞳を帯に隠しつつ、相手にそう訴える。
「ここは許された者しか入れぬ聖域、侵されることはありますまい…しかし、豊かな森や河がまた人の血で赤く染まってしまえば、私達が在るべき場には相応しくありません」
 柳生の言葉にみんなが押し黙る中、幸は穏やかな笑みを消した顔で全員を見渡した。
「人の悪しき心は吾等の魂をも脅かす…そうだね、暫く忘れていた。今の吾等の傍には、桜姫の様な良き人しかいなかったから…」
「……本当は、あいつも妖に出来たらいいんだけどなぁ」
 悉伽羅が申し訳なさそうに笑って言ったが、それはすぐに蓮に否と断じられた。
「それを姫に迫ることを幸は望んでいない…あの娘に『死ね』と言うことなど」
 誓約を結び、妖となった男達は知っている。
 幸との誓約とは、己の命を差し出し妖となる代償に、彼の者の願いを幸が叶える事ということを。
 故に彼らは、時代や場所は違えども、皆、一度は死した人の子なのだった。
 この中の誰が、過去の彼らに倣ってあの娘を殺めることが出来るというのか…
「……だよなぁ」
 かつては自身も通った修羅道を思い出し、文太は眩い宮殿の天井を見上げながら頷いていた。



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