「仁王様達はずるい」
「…何じゃよ、いきなり」
 姫を屋敷に送り届けた後、仁王は外から窓越しに彼女の言葉に言い返す。
 既に夕暮れに近く、夕焼けが仁王の銀髪を赤く焼ける刃の様に鮮やかに照らし出していた。
「…私はどんどん年をとって大きくなるのに、仁王様達はあれからずっと同じ姿で年もとらない…私だけ…皆様から離れていく…」
「……それが人として正しい姿じゃよ」
「…私はやはり、妖の皆様から見れば、下らぬ人に過ぎないのでしょうか…」
「何でそうなる…下らん人なら俺達は傍に寄せたりせんよ」
「……だって皆様、夜這いもして下さらないし」
 がすっ!!
 まだ幼いと思っていた姫の物凄い発言に、仁王が思い切り窓の木枠の縁に頭をぶつけた。
「何ちゅう事を言うんじゃ!! そういう言の葉は俺達妖の前でも言うな! 見ろ! 数百年振りでコブが出来たわ!」
「えー、だって…私も夜にお喋りしたいし美味しいもの食べたい…」
「…は?」
「違うの? 侍女達が言ってました…殿方が夜に訪れて、話をしたり食べたりして過ごすのが夜這いだと」
 いや、もっと重要なコトがありますが…というか、そっちの方が主な目的で…
 無論、それを仁王が口に出す事はなかった。
「あー…まぁ、とにかく女子からそういう事を言うたらいかんぜよ? お前さん程の器量なら、そんな野暮をせんでも男は来るけ」
「来ても断ります…」
「……」
 やれやれ、と妖は、窓越しにこちらに背中を向けたままの姫を笑って見つめた。
 拗ねている姿はまだまだ子供…しかし、すぐに彼女は艶やかな大人の女性となるだろう。
 良い伴侶を得て、子を生して、このまま平穏に生きていけばそれでいい…それがいいのだ。
 仲が良くても、妖は人を惑わす…本来は人の前に在ってはいけない存在なのに、この娘の懐かしい優しさについほだされて、ここまで来てしまった。
 これまでかもしれない…これ以上彼女に関われば、姫は最良の伴侶を見つける瞳すら、妖の為に塞いでしまう。
「…なぁ、桜姫よ。お前さんの持つ幸の鈴…」
「渡しません」
「…まだ何も言うとらん」
「返せとでも仰るおつもりでしょう? 絶対に嫌です」
「はぁ…分かった分かった」
 桜姫の懐にしまわれている小さな鈴…それが鍵だった。
 あの宮殿に行くには、神ノ森を抜けなければならない。
 過去の数多の姫の訴えに答える形で、幸は森を抜けて殿中へ誘う不思議な鈴を、桜乃に与えていた。
 逆を言えば、それが無いと桜乃はあの妖達の集う宮には行けなくなってしまうのだ。
 あわよくばそれを取り上げ、人の世に姫を戻そうと考えた仁王だったが、やはりそうそう簡単にはいかない様だ。
(ま、騙して掠め取るやり方は幾らでもあるが…ここは一度戻って幸に聞いてみるか)
 そうしている内に、部屋の向こうの廊下から誰かが近づく気配がして、仁王はおっとと声を漏らして窓から離れる。
「じゃあの、姫…あんまり無茶はせんことじゃ」
 そう言って去ってしまった男の代わりに、入って来たのは侍女の一人だった。
 手には盆を掲げ、その上に桃枝(唐菓子)がうず高く積まれていた。
「姫様、御祖母様からでございますよ」
「え…わぁ」
 侍女が盆を下ろして桜姫に差出し、彼女はそれを見て嬉しそうに声を上げた。
「あまり外にばかり出ると、御祖母様に叱られますよ」
「はぁい」
 侍女の優しいたしなめに素直に返事を返すと、相手が部屋を立ち去るのを見計らい、桜姫はそれを和紙に包んでこそりと部屋を抜け出した。
(…久し振りの唐菓子…皆様にお分けしよう)
 もう夕暮れから夜になってしまうが、森に行くにはまだ間に合う…
 桜姫は急いで外へと抜け出すと、森へと続く小路を走って行った。
(確か、文太様は特にお好きだった筈…早く届けて差し上げないと)
 もうすぐ、あの森に着く…そんな時だった。
 がさっ…
「!?」
 小路の両脇の叢から獣が蠢くような音が響き、思わず姫はその足を一時止め、立ち止まってしまった。
 暗闇の中で、銀の閃きが走ったのはその直後、
「…え?」
 己の胸に何とも言えない、経験したことのない衝撃が走り、桜姫は呆然とそこから吹き上がる赤い血潮を見つめていた。
 何、これ…
 そう考えている娘の手から、ぼろぼろと和紙に包んでいた唐菓子が零れ落ち…それと一緒にちりんと鈴が美しい音を鳴らしながら大地に落ちた。
 森の中を正しく導いてくれる、幸から賜った大事な鈴…
 拾い上げたかったのに、桜姫はもう拾う為に屈みこむどころか、立つことも出来ずに仰向けに倒れてしまった。
 その時、視界に入った人影を見て、初めて彼女は気付いたのだ。
 斬られたのだと。
 見たことのない薄汚れた男達が、自分の血に汚れた刀を手に、こちらにはもう目も向けず、己の来た屋敷の方へと向かっていく様をただ見ていた。
 小さな戦に破れて、落ちてきた武士達…?
 冷たい…どんどん身体が冷えていく。
 それでも流れてゆく血潮は熱かった。
(……鈴…返さなきゃ……唐菓子…届けたかったのに…御祖母様、逃げて…)
 自分はもう死ぬだろう。
 それを分かっているのに、何故か驚くほどに冷静だった。
 己の死より、先に考えることがありすぎたのだ。
 しかし、どんなに考えても、動けなければ何の解決にもならない…
(幸様…鈴…誰か…)
 御祖母様を、私の家族を、みんなを、助けて下さい…


 りぃん…
「!」
 宮殿で、妖達が何をするでもなく静かに過ごしていると、不意に鈴の音が響き、幸の傍に小さな鈴がころんと転がってきた。
「何だぃ? 鈴?」
 不思議そうに覗き込む文太の表情とは裏腹に、鈴を取り上げた幸の表情は凍りついている。
 鈴に付いた血に触れて、幸は姫に何が起きたかその全てを見通していた。
「…姫が、今際の際にある」
「っ!!」
 彼の一言に全員が驚愕の表情で身体を向けると同時に、遠くから仁王の叫び声が聞こえてきた。
『幸! 幸!! 早く来んか!! 姫が死ぬ!!』
「何だと!!」
 弦が怒鳴る間に、みんなが一斉に動き出した。
 人であれば辿り着くのに五刻はかかろうかという距離でも、彼ら妖にしてみればほんの少し足を踏み出す程度の労で済む。
 鬼火と化し、仁王の声を辿り、再び人の形に戻った時には、彼らは眼前に非情の景色を見つめていた。
 妖の男が姫の身体を抱き起こしているその周囲に、幾つにも千切られた肉の塊が転がっている。
 辺りには肉の他に人の纏っていた衣と思われる布や、鉄の欠片、折れた刃も散乱しており、うっとする程にむせ返る血の匂いが立ち込めていた。
「仁王!?」
 文太が叫び、幸達が二人を取り囲むと、仁王は顔を伏せたままぼそりと詫びた。
 詫びたのは、姫に対してか、それとも他の妖たちに対してか…
「…済まん…間に合わんかったよ……」
 あの屋敷を離れてすぐに嫌な匂いが漂い、それが戦人の纏った死臭であると気付いて急いで引き返してみたが、姫はもう凶刃に掛かってしまっていた。
 怒りに任せて野武士達を引き千切ったが、最早、全ては遅かったのだ。
「幸主! 何とか…何とかなりませんか!?」
 赤也の叫びを聞きながら、幸はゆっくりと屈みこみ、仁王の腕から姫の身体を受け取った。
「……?」
 その時に身体が揺れたことで、姫はうっすらと瞳を開いた。
 もう視界も暗くなっている中でありながら、やはり神の姿は白く輝き、神々しかった。
「幸…様…?」
「…そうだよ」
「…まぁ…皆様、も…」
 嬉しい…死ぬ前に…会えたんだ……
「…幸、様…あのね、私…」
「…うん」
「……桃枝…食べて、もらおうと…思ってたのに…」
「…いいんだよ」
 姫の胸に残る幾つかの桃枝は、彼女の血を吸って真っ赤になっていた。
 浅黄色の着物が、真っ赤な花を咲かせていた。
 彼女の痛ましい姿に、周囲の妖達が一様に辛い顔をする。
 赤也や文太は涙を零していたが、弦や蓮は苦悶の表情を浮かべるに留まっていた…涙を流すことを、もう忘れていたからだ。
「…鈴もね…落としちゃって…」
 姫のか弱い声での懺悔に、幸は優しくその手を握って、彼女を赦した。
「…大丈夫だよ、心配しないで」
「……お願い…私の、家族を……助けて下さい」
「……」
「…お願い…」
 そして、最後に桜姫は柔らかな笑顔で…笑った。
「嗚呼……私やっぱり…皆様と…一緒に……いたか…った」
 かくりと…
 細く白い首が、頭を支えきれずに幸の膝上で力を失くす。
「姫!?」
「桜姫!?」
 妖たちに看取られて、娘の身体は、ただ柔らかく熱が僅かに残るだけの躯になった。
 妖たちだけ…同じ人の世に生きる者には誰にも看取られることもなく…
 幸の背後で、柳生が或る方向へと身体を向けて憎憎しげに告げる。
「…百は越える賊達が見えます…落ちぶれた一族が蛮行を働きながらこの地まで来ましたか…その先駆けに…姫は…」
「おのれ…痴れ者ども…!!」
 泣く事は忘れてしまっていても、怒りの感情は忘れていない。
 弦が爛々と燃える瞳を、柳生と同じ方向へ向ける傍らで、仁王が幸に進言した。
「……誓約…出来んか? 幸」
 みんなが一斉に仁王を見つめる中、彼は姫を見つめながら声を絞り出した。
「俺の責なのは分かっちょるよ…けどなぁ、こんな山奥で遊び友達もおらん、遊ぶ相手は得体の知れん妖どもばかり、挙句、恋の一つも知らんままに賊に斬られてこんな野路で死ぬなんて…あんまりじゃろ…そんな人生」
 誓約に否を唱えていた蓮も、今は幸にそれを勧めた。
「……幸、吾も誓約を望む…今ならば、姫の命を貰い受けることも出来る…彼女の希望も、叶えてやれる…誓約の条件は揃っている」
「頼むよぃ、幸…人でなくなっても、俺達が一緒だから…! ずっと寂しくないように、一緒にいたらいい、俺達がこれまでもそうだった様に、姫がそこに加わるだけだから!」
「幸、俺も他の奴らも、お前と誓約を交わして後悔した奴はいない…きっと彼女もそう在ってくれる! だから頼む!」
 文太と悉伽羅が、必死の形相で幸へ縋る様な目を向けた。
 誰も、誓約に異を唱える者はいない…
「……」
 無言のままに幸は暫く桜姫の冷えてゆく亡骸を抱きかかえていたが、やがてその右手が動き、彼女の胸の上の血染めの桃枝を取り上げると、ゆっくりと口へと運んだ。
 一噛みすると、じゅわりと染みていた血が溢れ出し、神の口を潤してゆく。
 味を確かめるように何度も何度も噛み砕き、こくんと喉を動かして桃枝と一緒に桜の血を受け入れた幸の瞳が、微かに紅い色を宿した。
「此処に吾は誓約を結ぶ…新たな僕を受け入れよ」
 その言葉を合図として、他の妖達が、他の転がっていた紅い桃枝に手を伸ばし、幸と同様に各々の口へと運んでゆく。
 それは儀式だ。
 幸と同じ様に、彼女を同じ僕として認め、受け入れる為の儀式…
 姫の命を飲み込んだ妖達が、一人、また一人とその場から消えてゆく。
 そして最後には、姫の身体を抱いた幸だけが残った……


「何処に行くんだぃ!?」
「うぬらの往く道は、もう黄泉しかないというのに」
 半刻もせずに、賊の全ては何が生じているのかも知らず、姫の屋敷を襲う前に命を散らしていた。
 何も見ずにただ死ねた者は、僥倖だっただろう。
 何かを見た者達は、ただ不幸だった。
 賊の団の真っ只中に、いきなり天から降ってきた童が、災の始まりだった。
 真っ赤な髪…真っ赤な衣…真っ赤な口を覗かせて、嗤っている。
「あそぼーかぃ?」
 此は魔か物の怪かと慄き、賊は斬りかかり、矢を放つ。
 斬った胸より血が流れ、矢が貫き穴を開けても、童はまだ嗤っている、可笑しそうに。
「やぁ、懐かしや…彼の時も」
 微かに昔日を想う瞳を見せた瞬間、童の・・文太の周りに炎の竜巻が巻き起こり、そこに居た賊が一瞬で消えうせる…消し炭となって、片鱗も残さずに砕かれてゆく…
「こんな炎が舞ってたよぃ…みぃんなみんな、踊ってたよなぁ」
 かつて人だった頃に見た景色を今と重ねているのか…文太は何処か遠くを見つめながら、己の身に刺さった矢を一本一本面倒くさそうに抜いては落としていった。
 炎と戯れる童が賊を散らし、逃げ惑わせると、四方に散った彼らを幾つもの影が追い掛けてゆく。
「そらそら、早う逃げんと喰い殺されるぞ」
 賊の一人は隣を奔りながら嗤う異形の者を見た瞬間、己の首をぼきりと折られ、死ぬ間際に自身の背後を見せ付けられた。
 死の間際に瞳に映ったものは、十を越える己の同氏達の首が、血霞の中一斉に宙を舞う地獄。
 首を失くした十を越える身体が囲んでいたのは、太刀を持ち、涼やかな顔をする鬼神。
「愚か也…」
 彼の者が弦と名乗っていることなど、誰も知らされぬままに皆、死んでゆく。
 そして、残る郎党も最早逃げられぬ運命に翻弄されるばかりだった。
「風の抱く刃を、知っているか」
 蓮は、懐から出した扇で軽く人々に向けて風を煽り、ただそれだけの雅な仕草で、八重、九重と人の身を刻んでいった。
「鎌鼬と言う…痛みはなかろう、実に良い辞世だ…あの者達に比ぶれば」
 かつて人と呼ばれていた欠片達を足元に、蓮は互いに殺しあう賊達を飄々と見つめる。
 誰も彼もが正気ではなく、見る者全てに怯えて刃を振るっていた。
 同士討ちを始めた彼らを可笑しげに見つめるのは、仁王と柳生。
「それそれ、せいぜい殺し合えばいい…騙し滅すは俺らの業よ、見えておるのは鬼か蛇か」
「幻相手に、最も恐れるものを殺め、最も恐れるものに嬲られる…畜生どもには相応しい地獄です」
「はは…血が薫るのう…赤也も嬉しそうじゃ」
 阿鼻叫喚の地獄絵図の中で、赤也は先程から生きて惑う男達の喉笛を喰いちぎっては打ち捨て、喰いちぎっては打ち捨てていた。
 真っ赤な瞳で、返り血で真っ赤になりながら、嗤っていた。
 妖達の宴は、それからも続いていた……


「? 誰だえ?」
「…菫の君、これよりそなたの孫は吾が許にて生きる…此度はそれを伝えに来たのだ」
「!?」
「吾は竜の神…吾が僕は幸と呼ぶ」
 桜姫の祖母、菫は、己の部屋に音もなく現れた人の姿の魔性を目に捉えた。
 白き束帯を纏い、帝であろうとその足元にも及ばぬ人智を超えた存在…竜神は、穏やかな面を以って菫の君の前に座す。
「赦せ。吾が膝元に在りながら、そなたの孫の桜姫を戦人の手にかけさせた吾が非力を」
「桜…が…!」
 老いた女が蒼白になる様を、竜の神もまた、痛々しい表情で見つめていた。
「最早、人としての命を全うすることは出来ぬ…しかし妖としてならば…人ではなくなるが、吾が許で生きることは出来よう」
「……」
 持っていた筆をかたんと取り落とし、老女ははらはらと涙を流しつつ、神の前に頭を伏せた。
「幼き頃より…山に愛でられし子と思うておりましたが…そう、竜神様に助けられていたのですか」
「出来るものであれば人の世に生かしたかった…彼の者はこれより吾が許に住まうが、愛しき孫を奪う見返りに、そなたの一族には竜の加護を与えよう…済まぬ、この程度のことしか、してやれぬ」
「いいえ……御神より之ほどの温情…有難いこと…どうぞ桜を、良しなに御願い致します」
「…さようなら、人の子よ」


「――――――…」
 優しく抱かれたまま、桜姫は一度は閉じられた目を再び開く。
「おう…見んしゃい、姫が起きたぞ」
「姫!」
「良かったぁ、姫ぇ!!」
 抱き上げていた仁王が声を掛け、周りの妖達がわっと彼女の傍へと寄ってくる。
 彼らは、人里から森へと至る野道を一望できる高台へと上がっていた。
 空も大地も広く一望出来る場所だ。
「私……?」
「……ああ、とうとうこちらに来てしまったんじゃなぁ…彼岸に」
 しみじみと言う仁王の代わりに、蓮が桜に告げた。
「…お前の最後の願いを、幸は聞き届けた」
「え…?」
「……お前は命を幸に捧げ妖となり、代償にお前の一族を幸は守ったのだ…誓約は、結ばれた」
「では…私は一度死んで…?」
「ああ、吾等と同じだ…見よ、幸が…お前との約定を果たす為に」
 弦が指差した先…幸が野道に立っているのが見えた。
 更にその道の先…里から森へと至る道を、多くの人々が登って来る様が見て取れる。
 その手に持つ刀や弓矢は血に濡れ、身体を覆う武具は煩く耳障りな音を響かせて…
 まだ賊が残っていたのか、と目に映る全ての賊を屠った妖達が気付き、再び牙を剥こうとした時、幸がそれを止めたのだった。
 それは人に対する情ではなく、殺めることへの恐れでもない。
 何故か? 答えは一つだけ。
 下の道を上がってくる賊を見つめた幸の目が、ふ、と細くなり、形の良い唇が少しだけ歪められる。
 途端、彼は人の形を解き、身の丈一里も裕に越える程の白竜へと変じると、悠然と宙で身をくねらせた。
 正に一瞬の出来事。
 光る鱗を煌かせながら一気に人の群れへと降りていくと、竜はその口を開き、惑う暇もない人々を全て…一度に飲み込んでしまった。
 何の名残も残さずに…
 再び身をくねらせて天へと上がった竜は、妖達の立つ高台へと近づいて、そして人の姿である幸へと戻って降り立つ。
「……あまり、美味しくない」
 う、と口元を押さえて顔をしかめる神に、文太がに、と笑った。
「霞ばかり食ってっからだよぃ。それよりも、姫が目覚めたよぃ!」
「ああ…当然だ、誓約を交わしたのだから…」
 そう答え、幸は仁王にゆっくりと降ろされる桜の傍へと歩いて行った。
「姫、その望みのままに、憂いの種は取り除いた。その代償としてお前はこれより妖として、吾等と共に生きることになる」
「…はい」
 厳かに、姫は幸に一礼し、微笑んだ。
「帰ろう、吾等が宮に。姫の召し物も汚れてしまった…仕立ててやらねば」
 踵を返し妖を引き連れる竜の神に、弦が歩み寄り、小声で言った。
「人はこのまま学ばぬままに生きてゆくのだろうか…だとしたら、いつかこの国の天も地も穢され、吾等が心穏やかに生きる地は失われるのかもしれん…それでもお前は、人と生きるのか」
「どうあれ、吾がこの地で生を受けた者に変わりは無い…もしこの身で生き辛くなれば、時には人の真似事をして愉しむのもいい。完全な人には戻れないが、化けることぐらいは容易いよ。それがいつになるのか…百年先か千年先か……その時は、弦達はどうする?」
「…吾等は幸と誓約を結んだ者だ。共に行くぞ」
「…そうか。ならば神の身だろうと仮人の身だろうと変わらない…吾はそれでいい」
 いつか、この国の在り方は変わり、吾等の在り方も変わるのかもしれない。
 それでも、皆が共に在るのであれば…


「ふにゃ…」
 桜乃が目覚めると、そこは立海のコート脇のベンチだった。
「ふふ…お目覚めかい? 姫君」
「!? ひゃっ…ゆ、幸村さん!?」
 隣からかけられた声に顔を向け、桜乃は慌てて頭を相手の肩からどかした。
 いつの間にか…彼の肩に寄りかかって眠ってしまったのか…
 何てことを…テニスの見学に来ていたのに、こんなだらしない姿を見せてしまって…!
「ご、ごめんなさい!」
 懇意にしてくれている立海のテニス部部長の幸村に詫びると、相手は気にしていないとばかりに優しい笑顔を返してくれた。
 いつからか、立海のメンバーと親しくなってから、桜乃は彼らとよく会っている。
 まるでそれが、最初から決められていた約定の様に。
 それは彼らも同じ様に感じているらしく、幸村だけでなく他のレギュラー達も、他校の生徒である桜乃には何故か他の女子より格段に優しかった。
「いいんだよ。疲れていたんだね…青学も試験が近いらしいし…無理したら駄目だよ」
「は…はい」
 姿勢を改め、コートに注目する桜乃に、幸村は微笑みながら問い掛けた。
「…夢を見てたのかい? 少しばかりうなされていたから起こそうかとも思ったんだけどね…」
「あ、そう…ですか? ううん…そうですね…何かの夢を見ていた気がします…凄く長い夢…でも、楽しかったような、悲しかったような…あまり、思い出せなくて」
「…そう」
 微笑んだままの幸村がゆっくりと頷いたところで、遠くから二人を呼ぶ声が聞こえてきた。
「部長―――――っ!!」
「竜崎も来いよー! たまには一緒に試合しよーぜー!」
 コートの向こうから、他のレギュラー達が自分たちを呼んでいる。
「…呼ばれてるね、行こうか」
「はい」
 素直に立ち上がり、みんなの許へと歩いて行く桜乃の後姿を見ていた幸村は、ふいと視線を横へと逸らしつつ誰にも聞かれることのない呟きを漏らした。

「少しだけ……昔のことを思い出したのかな…?」






悉伽羅(シカラ):サンスクリット仏典などでの当て字で『ジャッカル』という意味です。シッカラとかシキャラとかいう読み方もあるみたいなんですが、まあ今回の話についてはシカラというコトで。
桃枝:平安時代の頃のお菓子の一種で、米粉を水で練って茹で、桃の枝に模して油で揚げたものです。この時代のお菓子は唐菓子と呼ばれてました、中国文化の影響を受けて成立したお菓子だったんですね〜。


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