ぽんぽん日記(前編)
ここは緑深き日ノ本の国
或る日、青い空の下、岩山にごろりと寝そべりながら異国の男が呟いた。
「あ〜〜…ポンが食べたい」
「ぽんって何ですか?」
「ぽん?」
人外の者である蓮が、一人の姫君からそんな質問を受けたのは、全く唐突な事だった。
「悉伽羅様が、仰っていたのですが…」
ちょっと首を傾げながら尋ねた女子は蓮よりも幼い印象であり、黒髪と黒い瞳が深い大和撫子であるが、白粉や墨を用いて化粧をしている様子はない。
それだけを見たら何処かの野良娘としか看做されなかっただろうが、しかし、彼女が纏った衣は実に見事な絹で、金糸銀糸が惜しむこともなく用いられている。
市で売れば、かなりの値がつくことだろう。
一方、蓮は貴族が纏う様な狩衣を身につけていたが、彼もまた冠などの類は身につけず、素顔を晒していた。
実は、蓮に限らずこの姫君も人外の者である。
彼女は最近一度命を失った後に、彼らの仲間に引き入れられたのだった…蓮の傅く神の意志によって。
それ以来、彼女は神とその僕達と共に、山奥で平和に暮らしていた。
「悉伽羅…ああ」
同胞の名を聞いたところで、蓮は軽く頷いてふ、と視線を上へと向けた。
ここは、蓮の部屋。
壁と言う壁が全て、巨大な岩を丸ごと書架にしたものであり、そこにはぎっしりと数多の書物が詰め込まれている。
神の僕の中でも特に知識に飢えている男は、常に新たなそれを求めては己のものとしている。
この書物の山は、或る意味彼の欲望が具現化したものなのだ。
「それなら多分、あれを指しているのだろう」
「あれ?」
「少し待て」
言うと、蓮は懐から取り出した扇を優雅に開くと、書架の内の一つに向けて軽く扇いだ。
すると、書架の中に納まっていた書物の一冊が弾かれた様に飛び出し、蓮の手許に落ちてくる。
まるで神業…いや、それそのものだったが、男は何事もなかったように書物を開き、細い目で中身を確認していった。
「…うむ、確かにこれだ…悉伽羅の生まれた国で主食になるものだな…別の名ではぱんと言うらしいが…」
「聞いたことないです…」
首を傾げる姫に、蓮は苦笑した。
「無論、この国では彼以外は知らない…吾が聞いたのも、外つ国の異形の者からだったからな」
「外つ国…?」
「お前が思う以上にこの世は広いのだよ…いつか幸と共に、神々の集う場に同行したことがあった。あの時に得られた知識はなかなか貴重なものでな、また機会があればいいと願っているが…と、すまない、ぽんについて聞きたいのだったな、桜姫」
「はい!」
「…それはいいが、聞いてどうするのだ?」
不思議そうに己を見下ろしてくる男に、桜姫はにこりと笑って答えた。
「悉伽羅様が食べたいと呟かれていたのを聞きましたので…こっそり作って差し上げようかと」
「ぽんを? ふむ…」
手を口元に運んで暫く考えた様子の蓮は、ちょっと眉をひそめたままに首を振った。
「言うは容易いが、なかなか難しいことだぞ? 先ず材料からして集めるのが困難だ」
「え…そうなんですか?」
「何しろ彼方の土地の食べ物だし、ここは人里離れた山奥だ。全て集まるかどうか…」
「……そうですか」
色好くない答えを聞いて、桜姫はしゅん、と力なく肩を落とす。
残念…悉伽羅様が口に出す程だから、きっと好物なのだと思ったのに…蓮様が仰るって事は、難しいのは確かなのだろう……でも…
「…作り方だけでも教えて頂けませんか? やるだけやってみます」
「…ふ、そう言うだろうと思っていた」
かよわい見た目とは裏腹に根性がある姫の行動を予見していた蓮は、彼女に請われて新しい紙と筆を取り出し、すらすらすら、と何事かを書き連ねていき、出来上がったそれを彼女に渡す。
「材料と、概ね必要なものだ」
「有難うございます!」
紙を手にした姫は、嬉しそうに蓮の部屋を退室し、彼はその姿をじっと見つめていたが、やがてひそりと呟いた。
「…少々賑やかになりそうだな…まぁ、それもいい」
下らぬ戦やら、人の世の煩わしさから逃れてきた神と我々だが…こういう賑やかさは嫌いではないし、幸の良い暇潰しにもなるだろう…
「ええとええと…必要なものは…小麦粉?」
蓮から与えられた紙に目を通した桜姫は、早速難問にぶち当たってしまっていた。
「…小麦…ってこの山にはないよね…」
いきなり困ってしまった…自分がここに来てからは、山の恵みのものを食べたりしているけど、小麦なんてものは見たことがない。
元々、妖になってしまった以上は人の様に食べるという行為にこだわる必要はないらしいのだが、妖になって日の浅い娘にはまだ習慣として残っている。
食べる、という行為そのものと、美味しいと感じる喜びから、心がまだ離れられないのだ。
それは彼女だけでなく、他の妖達についても同じこと。
食べるという欲を満たす行為にこだわるのは、味云々以外に、自分達が人間であったという事実を忘れたくないという隠された望みなのかもしれないが。
とにかく、そんな桜でも、まだこの山で小麦というものは見たことがなかった。
そもそも、小麦とはどういう形で手に入れるのだろう…しかし、悩んでいても、向こうから小麦が訪ねてくる事はない。
「うーん…あ、そうだ」
ぽん、と手を叩いて、桜姫はうんと頷くと、いそいそと神の住む清廉に輝く宮から出て行こうと足を出口へ向けた。
ここを出て、人を避ける為の関門でもある滝を抜けたら、人の世界へと抜けることが出来るのだ。
まだ自分の力では時間がかかるかもしれないけど…と思っていたところで、そんな娘に何処からか声が掛かった。
『おっ、桜姫! なになに? どっか行くの?』
いきなり目の前に現れたのは一つの鬼火…それが音もなく大きく拡がりながら人の形となり、それはやがて一人の若者へと姿を変えた。
赤い髪と、赤い狩衣の男で、人懐こそうな瞳が楽しげに揺れている。
「あ、文太様」
「木の実でも採りに行くのかい?」
「いいえ、ちょっと市に行こうかと…」
「ああ市ね…市?……」
彼女の言葉を聞いて、文太と呼ばれた若者は暫く無言を守ったが、いきなり娘の両肩をがしりと掴んで真っ青な顔で引き止めた。
「駄目――――――――っ!! お前は絶対に下界に降りちゃ駄目っ!!」
「え―――っ!?」
あまりに大きな声だった為か、辺りにまた新たな鬼火が幾つか現れ、それぞれが人の形へと変じて彼らを取り囲んだ。
「騒々しいぞ、何事だ!」
「あ、桜姫、どした?」
怒りの表情で一喝した男は名を弦と言い、太刀を揮えば向かう所敵無しの鬼神の強さを誇る。
彼らの主である神をあらゆる災いから守護する大任を任されている彼は、その役目に相応しく、性も剛毅であり、また、厳格だ。
その隣に立つくせっ毛の若者は、弦より幼く、相手とは対照的にのほほんとした雰囲気を振りまいている。
彼は赤也と呼ばれており、弦や蓮達より遅れて神の僕になったらしいが、詳しいところはまだ明らかにはされていない…と言うよりも、単に桜姫が彼らの過去にこだわっていないだけだ。
「もしかして、文太様にいじめられた?」
「誰がいじめるんだよぃっ! かっわいい姫が、市に行くって言うからさ〜〜!」
がぁっと一気に反論する文太に、赤也だけでなく、弦すらも珍しく苦い反応を示した。
「…市に、だと?」
「うえ!? 桜姫が!?」
弦があからさまに眉を顰める脇で、赤也が動揺しながら桜姫を引き止める。
「や、止めろよ姫、あんな場所に行ったって、面白くも何ともないって!」
「いえ、別に楽しみにいく訳では…まぁちょっとだけ興味もありましたけど、欲しいものがあるんです」
どうして彼らがここまで引き止めるのか分からないままに、桜は自身の意見を主張する。
「欲しいモノ〜?」
「小麦粉が欲しいんです。市って所だったら売っているかもしれないし…」
「市でもンな物売ってないって、止めとけよ」
聞き返した文太が娘の返答に速効で返すと、逆に怪しむように彼女が相手を下から覗き込んだ。
「怪しいですよ? 私が降りたらいけない理由でもあるんですか?」
「い、いやぁそれは別に…それにお前、買うったってそもそも銭なんて持ってないだろぃ?」
「あ、それは…無いから私の衣や髪と交換で…」
「だめったらだめったらだめ〜〜〜〜〜〜〜っ!!!」
「やかましい!!」
文太がもう少しで涙が出そうになったところで、再び弦がきつく戒め、やれやれと溜息をつきながら桜へと向き直った。
「姫の気持ちも分からんではないが、正直、お前の容姿は下界の者とはかけ離れているのだ。目立たれて、注目を浴びた所為でここを人に知られるのも困る。市は諦めてもらう他はない」
「う…」
弦の強い眼光に射抜かれ、桜は押し黙った。
尤もな相手の意見に返答することも出来ず、しかし彼女は明らかに落胆した様子を見せる。
確かに…彼の言う通りだ。
自分は悉伽羅の望みを叶えてやりたいとは思うが、それで彼ら全員に厄介ごとを持ち込む事は出来ない。
無理を通して誰かを苦しめることになれば、それは身勝手な独りよがりに過ぎないのだ。
何とか作ってみたかったけど…やっぱり私では力不足だったのだろうか?
「……ふぅ」
押し黙ってしまった姫の姿に、弦は眉を寄せて溜息をつくと、仕方ないと首を横に振った。
「…幸の許へ行ってみろ」
と一言、桜に忠告する。
「幸様の…?」
「神頼み…という訳ではないが、何か力にはなってくれるかもしれん。丁度先程、昼寝から目覚めた様だ、今なら会えるだろう」
「は…はい! 行ってみますね、有難うございます、弦様!」
一縷の望みが繋がった事で再び明るい笑顔が戻った桜は、ぱたぱたと大急ぎで幸と呼ばれた者の座す場へと向かっていく。
「こら! 走るな!」
『は――――――い!』
返事が聞こえた時には、少女の姿はもう見えなかった。
「…全く、仕方のない」
「とか言って、結局弦も可愛い姫には甘いよなぁ?」
にひひ、と笑う文太に赤也も便乗してうんうんと頷いたが、冷やかされた当人はふんと鼻を鳴らして言い切った。
「あんな姿で下界に降りられるよりはましだろう…お前達も止めていたではないか」
「う……そりゃあ、だって…」
「あんな処に、姫を行かせたり出来ないよぃ」
桜は、生まれてからずっと山奥で育てられてきた…だから、都の現状など知る由もない。
きっとあの場を見たらかなりの衝撃を心に受ける筈、というのが、文太や赤也の隠された意見だったし、おそらくは弦も同様だっただろう。
「…ひでぇもんだよな、道のあちこちに死体が転がって、野良犬が食ってんだからさ」
「貴族なんて言ったって、自分らの事しか考えてないんでしょ」
たまに人の喧騒が懐かしくなって下界に降りる事のある彼らだが、あの光景には毎回辟易させられていた。
飢饉や疫病が流行って下々の民が死んでも、貴族などのやんごとなき方々は自分の事しか考えず、惨状を見るどころか扇で顔を背けて罵る始末。
人であった頃にも見ていた世の姿だが、どれだけ時が流れたら、彼らは己の愚かさに気付くのだろう。
「今の『帝』も、正直、呆れてるっぽいからなぁ…施政投げ出さないのは感心だけどよぃ」
「『帝』か…そう言えば、暫く会ってないな」
不思議な台詞を零した弦は、それから何かを思うところがあったのか、桜が向かった方へと目を向けていた。
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