「幸様? 幸様?」
「……ああ、桜姫かい?」
殿中の奥の奥…閉鎖された空間であるにも関わらず、そこは真昼の様に眩い光が注がれていた。
しかし目に痛い訳でもなく、注がれる光は穏やかで優しい。
それはまるで、ここにいる主の性をそのまま顕しているようだった。
「相変わらず元気だね、好いことだ……どうしたの?」
桜が立つ場所の少し先に、小山の様に盛り上がり上部が平らになっている岩が聳えている。
真白で、円錐の上部を水平にすっぱりと切り落とした様な岩はとても硬質に見え、表面は極限まで磨き上げられた様に輝いていたが、その上に一人の若者がいた。
声の主は見事な真白の装束を纏ったその若者で、黒髪を揺らしながら優しい瞳で姫を見下ろしていた…その身を、岩の上部一面を覆うほどに大きく柔らかな布団にころんと投げ出し、置いた手の上に顎を乗せるという、呆れるほどにくつろぎきった姿で。
因みに、この時代、下界には布団というものは存在していない。
桜もここに来て初めて見るものだったが、共に暮らす上で相手から与えられた時、その心地良さに暫く離れられなかったという過去があった。
「幸様…市に行かずに小麦粉を手に入れることは出来ませんか?」
「うん?」
突拍子もない相手の発言にさして驚く素振りも見せず、幸は頭を起こして肘をつき、面白そうに桜を見つめる。
実はこの幸と呼ばれる男、人の姿をしてはいるが弦達同様に人ではなく、彼らが神と呼ぶ存在だった。
付け加えると、弦達や桜を妖とし、僕として従えさせている者でもある。
しかし普段は専ら望むときに目覚め、望むときに眠り、僕達と共に静かな生活を愉しむばかりであり、従える主の身でありながら僕の存在を軽んじる事も決してない、極めて温和な性だった。
大事となるとその身を竜に変えて強大な力を揮うこともあるのだが…正直、今の姿を見ていると想像出来ない。
「小麦粉…?」
「はい…実は…」
そこで桜は幸に、悉伽羅がぽんを食べたがっていることと、材料などを集めている事を話した。
自分が市で探そうと思っていたが、弦達に止められてしまった事も。
「ふふふ、それは止められるだろうね…皆、姫が可愛いから、何かあったら大変だと心配してくれているのだろう」
容易く想像出来ることを述べつつ、幸は彼らが桜を気遣ったことを察していた。
死臭漂う下界に赴くには、この子はあまりにも汚れがなさ過ぎる。
「だけどね、姫。市に行ってもおそらく小麦粉はないと思うよ…この国では珍しいものだから、余程、物が集まる高貴な人の処でないと」
「うわ…そうなんですか…ん?」
言われて、桜が暫く考え込む。
「……幸様は神様ですよね…人より余程高貴な筈なんじゃ…」
「うん、たまに神として自信がなくなる時がある」
「えーっ!?」
にこにこと笑いながら、両足でぱったぱったと布団を叩いてそう言う幸に、桜の方が激しく狼狽した。
「幸様は、とっても優しい、いい神様ですよう!」
「ふふふ、有難う」
本気だったのか、それともからかっていたのかは定かではないが、幸は慰めてくれた姫に笑いながら礼を言うと、少し考えた後で彼女に言った。
「小麦粉か…たまには自分の僕に主らしい事をするのもいいかもね」
「え…?」
半刻の後…
「小麦粉を分けてほしいんだけど」
「お前、神じゃなかったか?」
時と場所は移り…幸は何と、今の世の最高位に当たる帝の許を訪れていた。
ここは帝の部屋…普段は簾が降ろされ、下々の者は彼の姿を直接見る事も叶わないが、今は帝以外、幸の他には誰もおらず人払いがなされており、目隠しの為の簾も上げられている。
しかし部屋より何より異質だったのは、神が訪れたにも関わらず不遜なまでの口調で相手を迎え、上座も譲らず堂々と相手の正面に座る帝その人だった。
年は見た目幸とそう変わらない…十を幾つか過ぎた頃だろう。
冷えた鋭い瞳と、生粋の日本人にしてはやや明るめの髪が印象的な美男だ。
帝としての存在ではあり得ない話だが、彼もまた幸達と同じく化粧はしていない。
「小麦ぐらい、少し手を加えたらすぐに収穫出来る程度には育成出来る筈だ…幸、お前ほどの存在ならな」
「それはそうなんだけど…」
神に物申す帝に、相手はそれを咎めるでもなく苦笑する。
「無理させたら小麦たちも疲れるからね…君から貰えたら、一番手っ取り早いし」
「不精な神もいたもんだ…まぁいい、おそらく庫に入っているだろう。一袋程度なら持って行け」
あまり時間を費やす話題でもないと踏んだのか、帝はあっさりとそう許可を出した。
「有難う、景」
「…今は帝だがな」
久し振りに真の名を呼ばれた帝が皮肉の笑みを唇に刻み、それを幸は静かに微笑んで見つめていた。
「君が人の身を借りて転生するなんてね、聞いた時には驚いたけど」
「ふん…たまにはいいだろう。尤も、帝なんて聞こえはいいが、実際は暇で仕方ない。貴族の奴らも一向に下の奴らの面倒を見ようともしないし、挙句の果てには吾すら駒にしようとする輩まで出る有様だ…屋敷に季節外れの雹を降らせて、雷で焼いてやったがな」
「正に天罰だね」
帝であり、実は神という存在でもあった景という若者は、そこまで言って改めて幸を見遣った。
「そう言えば、お前、小麦粉なんてどうするつもりだ? 神の身で食む必要もないだろうに」
問われた幸が、実に楽しそうに笑って答える。
「うん…新しく入った僕が欲しがっているんだよ。悉伽羅にご馳走をってね」
「悉伽羅…ああ、あの異国の…ん? 新入りが?」
「そう、桜というとても可愛い姫だよ。吾の僕全員も気に入っているんだ」
「姫?…女を僕にしたのか!?」
吃驚する帝に、幸はあっさりとその事実を認めてゆっくりと立ち上がった。
そろそろ暇をする為だ。
「成り行きでね…隠遁していた一族の姫だったから世のしがらみをまるで知らない、とてもいい子だ…じゃあね、景。小麦粉、貰っていくよ」
「え!? 今の帝も神様!?」
「今に限って言えば、半人半神なんじゃよ。人としての寿命を全うすれば、また神に戻るんじゃ」
あれから幸が消えてしまい、何処に行ったのかと不思議に思った桜は、仁王という銀の髪の妖の許を訪れた時に彼から意外な事実を聞かされていた。
彼は簡易な釣竿を手に、殿の傍にある河でのんびりと釣りを楽しみ、桜は隣にちょこんと座ってその様を眺めている。
「かなり過去に遡るが、今の帝の母君は随分と信心深いお人でのう。世の安寧を神々に祈念したり、貧しい人々の為に施し所を設けたり、まぁ非常に優しいお人だったんよ」
「はい…」
水面を眺めて魚達と静かな戦いを繰り広げている仁王は、ほけーっと肘をつきながら話を続ける。
垂らしている糸は、うんともすんとも言わない。
「十数年前、そのお方が身篭ったんじゃが、残念ながら子は腹の中で死んでしまったんじゃ…それを知った景という神が彼女を哀れんでのう。自分が宿ることによって無事人の子として生まれ、今は帝として生きとる」
「まぁ…」
「ま、あの時は子が死産となれば、また世が世継ぎ問題で騒がしくなりそうな時期でもあったからの…余計な人間の騒動を防ぐ目的でもあったんじゃろ。元は水を操る神じゃが、幸よりは俗世に慣れとるよ」
「そうなんですか…」
この妖達に会う前は、神の世界など縁遠いものであり、人が会うなど叶わないと思っていたが…自分が考えているよりもずっと近しいのかもしれない。
知らないところで、神々は確かに人間の営みをこっそりと覗いているのか…
「確かに、帝の許なら小麦粉なんて珍しいものも揃うじゃろうな…幸も上手く考えたもんじゃよ」
「…何だか、最初からこうなる事を期待していたみたいで、申し訳ないです」
「なーに、幸にとってもいい暇潰しじゃよ。久し振りに神仲間にも会えたし悪くは思っとらんじゃろ……ところで姫」
「はい?」
「そのぽんとかいう食い物…美味いんかのう」
「さぁ…? 私が頂いたのは作り方だけなので、味まではよく分かりません。悉伽羅様の国では米のようなものということですから…味は似た感じでしょうか?」
「ふーむ…面白そうじゃの」
想像出来ない食べ物にいたく興味をそそられたのか、仁王は面白そうに笑いながら口元に手を当てる。
「米の様な、ということなら他の食い物もないと様にならんじゃろ。なぁ姫、取引せんか?」
「はい?」
「俺が今から獲る獲物と、そのぽんというものを交換せんか? 付けあわせがあった方が、悉伽羅も喜ぶじゃろ」
「まぁ…そんな事をなさらなくても、皆様にはお分けするつもりですよ?」
くすりと笑った娘に、仁王も察していたとばかりににこりと笑う。
「貰うばかりじゃ落ち着かん…さて、そろそろ宮に戻ったらどうじゃ? 幸が土産を持って帰って来るぞ」
「あ…はい、じゃあ、行きますね。沢山釣れるといいですね」
微笑んで、相手の言葉の通りに姫がその場を去ると、銀の髪の男は彼女の後姿を見届けてから竿を勢いよく引いた。
先にある獣の骨を削った釣り針には、何の餌も付いていない。
付いていたのを取られたのではない、最初からつけてなどいなかった。
「釣りの気分を楽しむだけのつもりが、そうもいかなくなったの…」
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