神々の集い(前編)
遠い遠い昔のこと
翠深き日の国の、何処かもしれぬ山の奥のそのまた奥に白い神がおりました
戦を好まず平和を好み、穏やかなる時の流れに従いながら、神は傅く僕たちと共に、和やかな日々を過ごしておりました……
その日、その神の住まう宮は朝から異様な雰囲気に包まれていた。
然程遠くない過去に神の手によって妖となり、宮で平穏に暮らしていた桜という少女でも、その空気の違いには気付いており、何事かと心を不安に揺らしている。
(どうしたんだろう…まさか、幸様の身に何か…)
この宮全体に漂う張り詰めた空気は、あの神と何らかの繋がりがあるのではないか…
そう考えた桜は、静々と…しかし出来る限り急いで、普段あの神…幸が身を置いている奥の間へと急いだ。
「幸様? 幸様!」
『しぃっ…』
間に入ると同時に、神の優しく、しかし反論を許さない厳しさを含んだ声が聞こえてきた。
「!?」
見ると、その間には、自分以外の妖達が既に揃っており、幸の座す岩台を囲むように座り込んでいた。
少なくとも自分がここに来てから、彼らのこんな畏まった姿は見た事がない…
「皆様…」
驚いてその場に佇む桜に、台形の形をした岩の上に立ち背を向けていた、白い束帯を纏った若者がゆっくりと振り返り、いつもと変わらぬ笑みを浮かべた。
彼こそが桜の従うべき神…名を幸と言う。
「今は静かにしておいで、桜姫…くれぐれも、声を出さない様に」
「幸様…?」
何があるのだろうと首を傾げる桜に、一番近くで座していた仁王という妖が声を掛けた。
「姫、こっちに来んしゃい」
「仁王様…」
「大した事じゃないんよ、ちょっとした行事じゃ…少々堅苦しいがの。お前さんは俺の後ろに隠れときんしゃい」
「?」
何が起こっているのかさっぱり分からない…しかし、ここは相手の言葉に従っていた方が良さそうだ。
不慣れな自分の所為で全員に迷惑を掛けることがあってはならないと、桜は素直に相手の身体の陰に隠れる形で、幸の立つ台の上を見上げていた。
別にいつもと変わらない光景なのに、普段は賑やかに騒いでいる文太や赤也までもが、今は大人しく真面目な表情で座し、頭を伏せている。
(何が…)
思いかけた刹那、その『何か』が訪れた。
一瞬の鋭い閃光が、宮の上から直線的な軌跡を描いて幸の目前へと至り、岩を抉ると同時に轟音が響いた。
桜は悲鳴を上げそうになりながらも必死にそれを抑え、仁王の背中にしがみ付く。
しかし他の妖は瞬きもせずに光を見つめ、目前で足元の岩を抉られさえした幸に至っては、涼やかな笑みすら浮かべていた。
そして…? そしてそれが全てだった。
一度の閃光と轟音の後にはその場には元の静寂が戻り、遠く空からごろごろと雷の様な音が響いていたが、やがてそれも遠ざかってゆく。
「…行ったか?」
「ああ…」
幸の次に彼らの中で上位の弦と蓮がそんな短い会話を交わす。
そして全てが消えたところで、宮を覆っていた異様な固い空気は溶けるように失せていた。
「…ぶはあぁぁぁあ…」
一気に息を吐き出して座した姿から仰向けに倒れ込んだのは、赤也だ。
「あ〜〜、かったくるし〜〜〜、息が詰まりそうだったぜ」
「赤也、幸の面前でそんな格好をするな」
妖の中でも最も厳しい弦が厳しく相手を嗜めたが、幸は気にしていないと笑う。
「いいよ…吾も確かに久し振りの事だし背中がむず痒かった」
先程までの緊張感から解放され、妖達も元の彼らに戻っており、そこで桜もようやく彼らに声を掛ける事が出来た。
「あの…今のは何だったんですか?」
「ああ…天意だよ」
「天意?」
桜乃の疑問に答えたのは、岩の上に立つ幸だった。
彼は一度その場に屈み込み、光によって穿たれた岩の中から一通の白い書状を取り上げると、ひらひらと数回軽く振っている。
その間に、今度は妖の中で最も膨大な量の知識を誇る蓮が補足を行った。
「この世の全ての理を為した天意が、神々を召集したのだ…この世の行く先と、神々の導く先を定める集いに、幸が招かれたのだよ」
「神々の集い…」
桜がそう繰り返す脇で、幸はぱさっと書状の畳まれていた中身を開くと、そこに記されているらしい何かを読み取った後、何故か顔を曇らせる。
「どうした幸…召集なのだろう?」
「うん」
弦の問い掛けには素直に答えたものの、幸ははぁ…といつになく力のない溜息をついた後に続けて言った。
「行きたくない…」
「おいおい! いきなり神様が責任放棄か!?」
そりゃないだろうと悉伽羅が慌てて相手に声を掛け、向こうもそれにはまた素直に頷いた。
「行かない訳にはいかないからね、行くよ、でも…」
そして再び溜息をつきながら憂い顔で一言。
「…いじめられちゃったらどうしよう」
『……』
「ええ!? 幸様、いじめられちゃうんですか!?」
他の妖が一様に微妙な表情を浮かべる中で、唯一桜だけが真剣に相手の言葉を気に掛けていた。
「まぁ静かにしていたら大丈夫だと思うんだけどね…吾の様にあまり表舞台に立たない神は肩身が狭いんだよ…」
「お可哀想な幸様…」
うるっと瞳を潤ませ、幸を気遣う桜にも、他の男達は微妙な表情を浮かべていたのだが、結局その場では誰も何も言わなかった……
「ああ、吾の処にも来た。天意の召集だな?」
「まぁやっぱり」
あの天意からの書状が届いてから数日後、桜はその日の昼間は、あの宮にはいなかった。
そこから遥か離れた都…その中心に建立されていた雅な造りの院の奥の一室に座っていたのである。
この世界の只人は、一生入ることは叶わず、また、院の中にいる人間でもそこに足を踏み入れる事の出来る者は非常に限られている。
何故ならその部屋の主は、この時代の権力の頂点に君臨する…帝と呼ばれる男だったからだ。
滅多に外に姿を見せる事もない存在の男だったが、実は桜とは見知った仲である。
実はこの帝、桜同様に人ではない。
桜の今の主である幸と同じく神に属する者で、名を景という。
しかも、今に限って言えば純粋な神ではなく、半神半人としての存在。
彼がそういう存在に至るまでにもそれなりの経緯があったのだが、人の中にそれを知る者はおらず、また彼自身も特に思う事もなく、こうして日々、人間に紛れて生きる生活を送っている。
そんな滅多に外に出ない筈の男が桜と会ったのはごく最近、彼女が悉伽羅に彼の故郷の食べ物を作ってあげようと奔走した時だった。
桜が小麦粉を欲しがっているのを見て、幸が帝である景の許を訪れ、それを譲り受けたのがそもそもの始まりであり、結果、桜は景と目通りを果たす事と相成った。
しかし縁はそれだけでは終わらず、桜が作る異国の食べ物を景がいたく気に入り、それ以降、彼女はたまに相手の要望を受けては手作りのそれを届けるようになったのだ、丁度今日の様に。
本来、神に傅く立場の妖はその神の命のみを受けるものだが、幸と景が知己であった事と、桜の主の幸が、妖達の意志を尊重してくれる柔軟な思考を持っていた事もあり、こんな奇妙な縁が今も続いている。
その二人は今は上座と下座に分かれ、対面で座っており、桜の傍には弦も座して控えていた。
彼女をここまで連れて来て、且つ、守護するように幸から命じられたのだ。
「幸様も受け取っていらっしゃいましたから、景様ももしかしたらって…」
「天意が何かを伝える時には、全身がぴりぴりしてどうにも落ち着かない。書状は院の庭に落とされたが、暫くは呪いだ祟りだと煩くて仕方なかった…」
やれやれ、と目を閉じる景の表情からも、うんざりといった感が見て取れる。
確かに何も知らない人々に、まさか自分宛の書状です、なんて言えないだろうし……
「権力の亡者どもは、どんな物でもとことん利用するからな…この騒ぎに乗じてまた何かしでかす輩がいるかもしれん…元気なことだ」
「だ、大丈夫なんですか? その噂みたいなものも…」
「ああ、そいつらが流したやつもあるだろうな…だが、『真の祟りや呪いなら、吾自身に落ちているだろう』と言って黙らせた。これ以上騒ぐ様なら、吾が誰かの屋敷に雷落としてやってもいいんだが…」
「そ、そこはもう少し穏便に〜」
まぁまぁと手を振って諌める桜の前で、景は彼女から献上された『ぽん』を一口、口に放る。
そして数回の咀嚼の後に喉を動かすと、満足げに頷いた。
「ふむ…今回のも良い出来だ」
「有難うございます」
「あれからここでも同じ物を作らせたんだが、どうにも今ひとつでな。幸には悪いが、お前が作ったものを無性に食べたくなる時がある…」
「私は、喜んで頂けるだけで……」
景の言葉に素直な言葉で答えながらも、何処か表情が暗い桜に、相手がおやと首を傾げた。
「どうした? 気分でも悪いのか?」
「いいえ…私は大丈夫なんですけど…幸様の事が心配で」
「幸が?」
訝る景の前で、桜は憂いを帯びた瞳を閉じ、そっと頬に手を当てた。
「神々の集いの場で、あの御方がいじめられてしまったらと思うと、心配で心配で…」
「…は?」
思い切り、『何言ってんだお前』という表情を浮かべる景だったが、相手は相変わらず幸の事を心底心配している。
「幸様はとてもお優しくていらっしゃるし、争いを好まれない方…きっと、戦の神々とは相容れないのでしょうね…私にはそんな苦しみなど欠片も見せようとはなさいませんけど、それがまたお気の毒で…」
「……」
桜の独白を聞いていた景は、そのまま冷えた視線を後ろに控えていた弦に移した。
「…」
弦は弦で、物凄くいたたまれない様な表情を浮かべつつ、じっと無言を守っている。
そこに向こうの苦悩を感じ取ったのか、景はこほ、と軽く咳払いをした後に桜に声を掛けた。
「ま、まぁ…神の世界にも色々とあるがな…しかしそう心配する事もなかろう。集いには幸一人が臨む訳ではない」
「え…?」
「神の傍には神の僕達も付き従うのだ。無論、吾も連れて行くつもりだが…幸ならば、間違いなく弦も同行するのだろう?」
「…そのつもりだ」
「!?」
はっと弦を振り返る姫に、景は心配するなとばかりに軽く手を振った。
「弦は幸よりは下位の存在だが、戦場での実力はそこらの神より余程高い…誰かが無礼を働けば、そいつの方が余程危険な目に遭うだろうよ。だから安心して幸の帰りを待てばいい」
帝の心強い言葉に、桜は何度か男達の顔を交互に見て…弦に伏し願った。
「お願い致します、弦様」
「…うむ」
頷いた相手に安堵した様に微笑むと、桜は帝の景にも身体を改めて向けると頭を下げる。
「景様も…どうか、幸様を助けて差し上げて下さい」
「…必要ないとは思うが…まぁいい、心に留めておく」
「はい!」
嬉しそうに微笑み、懸念が少しは払拭されたらしい姫の様子に、景も薄く笑うと顎をしゃくった。
「さて…吾はもう少し弦と話したい事がある。すまないが、姫は席を外してくれ。今日の『ぽん』の礼に幾つか土産を揃えておいたからそれでも見ていろ。隣の間に置いてある」
「わぁ…有難うございます!」
それから、桜はさらさらと衣擦れの音を小さく響かせながら素直に隣の間へと移り、そこには弦と景の二人だけとなった。
そして景は、桜を外した後で、更に踏み込んだ話を始めた。
「…今回の集いには誰が向かう事になりそうだ?」
「詳細はまだだ、蓮と柳生が決めてくれるだろう…無論宮を空ける訳にもいかんからな、留守を守る者も必要だ」
「…姫は無論?」
「留守の組になるだろう…あの場は慣れた者でなければ危険が伴う」
「だろうな…それがいい、それに」
「?」
「幸の言葉じゃあないが、吾も今回はあまり行きたくはないな…気の進まない採択を迫られそうだ」
不吉な言葉をぽつりと漏らした景は、深刻な顔をして静かに瞳を伏せた。
そして二人の男は暫し沈黙していたのだが…
「…で?」
最初に切り出したのは景の方だった。
「新入りの教育ぐらいきっちりやったらどうなんだ!? 何だいじめられるってのは! まるっきり立場が逆だろうが!」
「幸の前で誰が反論出来るんだーっ!」
弦には弦で主張したいことがあるらしく、負けじと言い返す。
「それに、本当にあの娘に真実を言うべきなのかどうか…吾等にも分からんのだ」
「……チッ」
相手の言い分に更に言い返す事もなく、景は舌打ちのみで会話を一度打ち切った。
どうやら、弦の意見に一部同意出来る部分もあるらしい。
「…幾ら何でもいじめられるなんて、無しだろうが…幸の奴は本気でそんな事を言っていたのか?」
「言っていたのは事実だが本気を確認する勇気はない」
何と言われようと聞いてなんぞやらん…と弦は言外にそう伝えていた……
妖編トップへ
サイトトップヘ
続きへ