人と妖の境・壱
「じゃあ、今回は赤也に行ってもらうことにするね」
「いやった〜〜〜〜〜っ!!」
その日、蒼く深く美しい森の奥…人が立ち入れないとある殿の間にて、複数の声が響いていた。
男たちだ。
まだ少年とも呼べる年頃の男性達複数人が、一人の白い束帯を纏う若者の前に立ち並び何事かの決めごとを行っていた様だ。
しかしそれももう終ったらしく、うち一人のくせっ毛の若者が、ぴょんぴょんと元気よく跳ねてご機嫌だった。
「ちぇー、行きたかったなー」
赤い髪の若者がつまらなそうに唇を尖らせ、手を頭の後ろで組みながらそうぼやくと、この国には非常に珍しい褐色の肌を持つ僧侶めいた格好の男に諭された。
「まぁ仕方ないさ文太、順番的に言っても次は赤也の番だったしな。何か理由でもなければ変更は効かんさ」
「分かってるけどさ悉伽羅〜〜」
まだ諦めがつかないらしい文太がごにょごにょと言っていると、黒の束帯を纏った非常に厳格な顔立ちをした男が、赤也に向かってきつい口調で注意した。
「分かっているとは思うが、赤也、遊びに行くのではないぞ。あくまでも、幸の命だということを忘れぬように。くれぐれも面倒事は起こすな」
「はいはい、分かってますって」
注意を受けながらも、聞いているのか不安になる様な軽い返答。
「あ〜あ、弦も大変じゃのう」
「止めたいところでしょうが…幸の決めたことですからね、我々が口を挟む訳にもいきません」
銀と紫の髪の若者達がそんな事を呟いた時、その近く…間の入り口から女性の声が聞こえた。
『仁王様? 柳生様?』
これもまた、まだ幼い声だ。
扉を隔てていたが、その声は男達のいる間の中によく通った。
間と向こうの空間は、真白の扉によって隔たっていたが、その扉が何で出来ているのか…木材か、それとも金属か、それは見ただけでは分からなかった。
形状は、よくある木材を重ね、金具で留めるなどしたそれに見えるのだが、先程の娘の声の通り方といい、材質が木材と呼ぶには難しいのである。
まるで、だまし絵がそのまま現世に飛び出した様な…そんな感じだ。
「おう、姫か」
「どうしました?」
『いえ、赤也様の声が聞こえたものですから…何かありましたか?』
問われ、銀髪の男…仁王がふいっと振り返り、幸と呼ばれた若者と視線を合わせた。
無音の問いに、その柔和な笑みを浮かべた白束帯の若者はうんと軽く頷く。
「何でもないよ。中にお入り、桜姫」
『はい』
向こうから開かれた扉は、軽々と、音もなく客人を迎え入れる。
扉を開き、中にしずしずと入って来たのは、美しい黒髪を持つ、幼い姫君だった。
纏っているのは実に雅な美しい桜模様が織り込まれたもので、彼女が僕として従う幸から直に賜ったものである。
「失礼致します、皆さま」
「お、姫だー」
「ご機嫌ですね、赤也様。何か良い事があったんですか?」
自分と同じく、幸の僕である赤也に姫が問うと、向こうはおうっと元気に応えた。
「あったあった、ちょっと都に遊びに行って来るんだ、俺」
「遊びではないと言ったばかりだろうが!!」
早速、目的を取り違えている事を暴露してしまった赤也に弦がきつく叱りつける隣で、弦とは対称的な、非常に物静かな細目の男がふぅと息を吐き出した。
「弦、そう怒るな…何も知らない姫を惑わせては気の毒だ」
「む…」
彼の言うとおり、入って早々に弦の怒声を聞かされた桜姫は、自分が悪い事を聞いてしまったのかとおろおろと戸惑っている様子だった。
「あ、あの、あの…」
「大丈夫だよ、姫。赤也はちょっとお使いに行くんだ…都までね」
「都…」
幸の言葉を受けて、細目の男が詳しく説明する。
「この山の幸を持ち、都で行われる市に参加するのだ。そこには多くの人々が訪れ、その土地土地の様子について語るだろう。それは我らにとっても貴重な話になるのだ…幸の様な神の目線からではなく、我々の様な妖の目線からでもなく、この国に生きる人々から見た、ありのままのこの世の姿を知るにはうってつけの場所なのだ」
「そんなに沢山の人が集まるんですか? 何だか面白そうですね…」
少なからず興味を抱いたらしい姫が、じ、っと幸の方を遠慮がちに見つめ、そこに含まれた意図をあっさりと察した彼は苦笑して答えた。
「残念だけど、姫はお留守番だよ。君がいなくなったら、文太がきっと物凄く騒ぐからね、『いつもの飯より美味しくない!』って」
「うーん…ちょっと残念ですけど、仕方ないですね」
「ああ…理由については納得なのね」
それもどうなの?とちょっぴり思った文太だったが、決して外れている訳でもないので、敢えて突っ込まず。
「赤也様、気をつけて行って来て下さいね」
「おう、姫にも何か、土産持ってくるからさ」
「はい!」
きゃいきゃいと赤也と楽しく語らい始めた桜姫の様子を窺いながら、銀の髪の仁王が軽く息をつきつつ隣の柳生に囁いた。
「姫を可愛がっとる幸としては、行かせたい気持ちもあるじゃろうがのう…」
「やむをえません。雅な都の中だけの話であればともかく、辺境の様子まで彼女の耳に入る可能性もあります…何も知らない無垢な娘には、酷なものもあるでしょう」
「じゃな」
そして同時に、弦も隣の細目の男に小さい声で尋ねていた。
「蓮よ…お前には、どう見える?」
「大戦こそないものの、小競り合いはそこかしこで起こっている。前回とはさして違わぬ話ばかりが聞けるだろう……つくづく、人とは愚かな生き物だ、いや…」
一度言葉を止め、蓮は自嘲めいた笑みを浮かべつつ、ゆっくりと締めくくった。
「愚かなのは…人であった我々も、だな」
「…」
そんな二人の話は聞こえていなかったらしい文太が、相変わらず呑気な口調で幸に問い掛けた。
「んで? 市に出るなら何か許可貰わないといけないんじゃかったっけ?」
「ああ、そうだよ。ちゃんとお上に申し出てから受け取る証文が要るんだ。大丈夫、もう景から貰ってるから」
そう言いながら、幸が懐から綺麗に畳まれた書状を取りだした。
はっきりとは見えないが、うっすらと透けた墨で書かれた文と印が見えるそれを、幸が赤也へと差し出す。
「はいこれ、失くさない様にね。羽を伸ばすのも程ほどにするんだよ。何かあったら、吾が景から小言聞かされる羽目になるんだから」
「分かったッス!」
(いや、どー見ても分かってないだろお前…)
にっこにこと実に上機嫌で浮かれていること間違いなしの若者の様子を窺い、悉伽羅は心の中で突っ込んだ。
自分でも分かる事なら神である幸に分かってない筈もないのだが、向こうはやれやれと困った様に、しかし面白そうに微笑んでいるだけで、特にそれ以上赤也に注意を促そうとする様子もない。
心の底では信用しているのか、それとも言っても無駄な事だと思っているのか…
(まぁ、幸が景に何か言われたとしたら、今度はそれが倍以上の説教になって返ってくるんだろうけどなぁ…幸から赤也に)
その光景を思い、悉伽羅は軽く身体を震わせたが、結局そこでは何も言わずにそのまま終わってしまった。
そして次の日、赤也は喜び勇みながら元気に山を下りて久しぶりの人々の集う都へと向かって行ったのである。
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