初めてのChu
その日、桜乃が学校帰りに親友の朋香と近くのファーストフード店に立ち寄っていた時のことだった。
「あ〜あ、折角大会が終わってリョーマ様ものんびり出来るかと思ってたのに、相変わらずテニス三昧なのね。ま、そこがイイんだけど、ちょっと複雑…」
「リョーマ君は、今はテニスが恋人だから…」
コーラーを飲みつつ愚痴を零す親友に、桜乃は苦笑しながらそう言葉を掛ける。
嘘ではない。
事実、大会が終わってもあの生意気一年生はテニステニスと相も変わらずラケットを握り締めて、コートの中を駆け回っている。
彼に首っ丈のこの親友だけでなく、他のどの女子の姿も目には入っていないらしい…無論、その女子の中には自分も含まれているのだが。
「そう言う桜乃は余裕ね〜〜…あ、ところでさ、あの人はどうしたの? ほら、桜乃にやたら興味持ってた、関西の学校の人!」
「あ、ああ…千歳さん?」
その言い方もどうかと思うけど…と思いつつも、桜乃は否定も出来なかった。
これもまた、嘘ではなかったからだ。
あの大会が終了し、主だった学校の生徒達が集まって慰労会を開いた時、自分も中に参加させてもらう事が出来た。
その中で、一際自分へと視線を送る若者の存在に気付いたのは、会が開かれて然程時間も過ぎていない時だった。
(あ、あれ…あの人…)
立食形式で、各人が自由に動き回って他の生徒と親睦を深められる会場。
しかし、参加はしたものの半分は部外者という立場もあり、壁際で大人しくしていた桜乃に、じっと視線を向けてくる男がいた。
二人の距離は数メートル、少し離れてはいるものの、相手が何を見ているかという事ぐらいは容易に察する事は出来る。
(な、何だろう…私を見てる? 何かおかしいかな、服、とか…?)
何処か見苦しいところがあるのかと、不安に思った桜乃が自身の身を改めて見ている間に、向こうは何を思ったのかすたすたと彼女の傍に近づいてくる。
「え…」
特に変なところはないのに、と思った桜乃がひょっと顔を上げると、そこにはもう至近距離まで近づいてきた若者が立っており、じっと桜乃を見つめてきていた。
「わ…っ」
びっくりした少女がその表情を隠さず、きょと、と大きな瞳を見開いてこちらを見つめてきたところで、相手はにこっと楽しそうに笑った。
「どぎゃんしたと? そんな隅におらんで、こっちで話したらよかとに。知らん人ばかりじゃなかっちゃろ?」
「あ、あ…えーと…はい…千歳さん」
記憶を掘り起こし、桜乃は相手の名を正しく呼んだ。
千歳千里…力及ばず手塚に敗れはしたが、傷ついた身体を押して尚、己の可能性の限界を破る事を希求した凄まじい執念を持つ男。
コート上の姿とは違い、今の彼は何処か肩の力を抜かれてしまうような、そんな呑気な空気を纏っている。
「大丈夫ですよ、私も楽しんでいますから…千歳さんこそ、折角の会なんですからどうかお気になさらず…」
楽しんで下さい、と言おうとしたところで、桜乃の顔に相手の顔が更に近づく。
(ええ…っ!?)
びっくりする少女に、千歳は更に笑みを深めて首を傾げた。
「名前は?」
「あ…り、竜崎、桜乃…です」
「桜乃…よか名前ばいね」
「はぁ…有難うございます」
間近で見つめられ、照れてしまっている少女に、千歳は笑みを深めつつ一言詫びた。
「すまんね、右目がちょっと見づらかけん…」
「あ、そ、そうでしたか」
そうだった、思い出した…この人、確か昔、テニスの試合で右目を負傷した過去があるんだった。
それなら仕方ないかも、と自分を納得させた桜乃だったのだが…
「いや、それにしてもむぞらしか…」
千歳が言いかけたところで、いきなり背後から、げしっ!と何者かが彼の身を一蹴した。
「きゃっ!」
「おっ」
「ち〜〜〜と〜〜〜せ〜〜〜!」
立っていたのは橘 桔平…千歳の目の負傷に関わっていた人物だ。
その彼が千歳を思い切り蹴り飛ばすと、憤怒の形相で笑いつつ相手の胸倉を掴んで詰問し始める。
「人がけじめばつけた一方で、怪我を理由に女子に近づいたり、何ば考えとっとか!?」
「いや、ばってん…まっことむぞか子やけん、よう見たかし…嘘じゃなかとよ」
責められながらも、千歳は笑みを消すことなくのほほんとそう言い切ってみせた。
「〜〜〜ったく、気ままなんは相変わらずたい」
やれやれといった表情で相手を解放すると、橘は苦笑しながら桜乃に言った。
「すまんな竜崎。掴みどころのない奴だが、千歳は悪い奴じゃない。誰にでもこういう事をしている訳でもないから、そこは安心していいぞ」
「は、はい…?」
今ひとつ話が分からない…けど、標準語に戻ったという事は、橘の怒りも治まったとういうことだろう。
「あまり振り回すなよ、千歳。お前の言う通り、竜崎は確かにいい子だからな」
「ああ、やっぱりそうね」
離れていく親友の忠告に笑いながら、千歳はきょとんとしている桜乃の傍に再び立って上から見下ろした。
「知っとるたい…こぎゃんきれか目ばしとっちゃけん」
「???」
結局、その日千歳は桜乃と殆どの時間を過ごしていた……
そんな慰労会での出会いから別れまで、ほんの数日だったのに…
「何て言うか…あの人、桜乃にゾッコンだったわよね」
「と、朋ちゃん…」
「だって、結局あれからも関西に帰るまで桜乃にべったりだったって話じゃない。それにしっかり電話番号とメアドも聞き出していったし…でも、桜乃もまんざらじゃなかったってコトでしょ?」
「もう…!」
冷やかすように笑いながら指摘する友人を、赤くなって嗜めながらも、その意味については桜乃は否定しなかった。
最初の出会いでこそ軽い印象を受けた若者だったが、その日の内にそれが自身の思い違いであったことを桜乃は思い知った。
確かに、言葉も行動も一見軽いものの様に見えるし、掴みどころが無い人物だ。
しかし、だからと言ってその存在が軽いものになる訳ではない。
真実は、あの男は掴むどころか一つ処に留めて置く事すら出来ない、風の様な人だった。
千変万化に形を変えつつ世を渡り、人の定めた枠になど素直に納まることなく、笑いながら生きていく。
風の重さを軽い重いと論じる事になど意味はない…それは彼にも言えることだった。
そんな若者に惹かれてしまったのは…人が不思議な存在に惹かれる生き物だからなのか?
(でも、確かに不思議な人だったけど、それ以上に優しい人なんだよね…)
彼が大阪に戻ってしまって、実は酷く寂しい思いをしていた桜乃を慰めてくれたのも他ならぬ千歳本人だった。
手に入れたばかりの電話番号やメアドを駆使して、何度も自分の言葉で彼の日常を届けてくれた。
時には、自分や四天宝寺のメンバーを撮った写メも添付して、向こうも元気でやっていると教えてくれて…最後には、彼は必ずこう結んでいた。
『だけん、桜乃も元気にしとらんばいかんたい』
目の前の親友には絶対に見せられないけど、彼の励ましのメールは今、自分が持つ携帯に全て保存されている。
寂しいのは事実だけど…彼の言葉が私と一緒にいてくれるから、大丈夫。
(…恋人でもない、ただの友達だけどね)
もしかしたら、彼は私を妹の様に見ているのかもしれない…ちょっと残念だけど。
そう思ったところで、朋香が桜乃に端的な質問。
「で、で? もう告られた?」
「はいっ!?」
不意を突かれて慄く少女に、親友は興味津々の様子で迫った。
「だってさ、大阪とこっちって十分に遠距離に入るじゃない。あまりグズグズしてたらお互いに疎遠になっちゃうわよ? 見られてないなら浮気だって出来るんだし」
「そ、そ、そ、そんな事言っても…大会の時に初めて会ったばかりだもん! いいの! 信じてるんだから。千歳さんがそんな事する訳ないもん」
「バッカね〜、そんな事言ってるから桜乃はいつまでたっても奥手なの! 少しは私を見習いなさい!」
「う…確かにそのガッツは見習うべきかもしれないけど…」
でも、押し続けると、今に相手が避けて自分だけ崖から落ちる事にもなりかねないよ、とは優しい少女は言わないまま、暫く店で過ごした後、その場で親友と別れることになった。
「じゃね、桜乃」
「うん、明日また学校でね」
賑やかな親友と別れると、繁華街の喧騒だけが耳に残され、それもまた桜乃に寂しさを感じさせた。
「ん…もうすぐ夕方になるし、そろそろ帰ろうかな」
まだ外は十分に明るいけど…と思ったところで、不意に桜乃の携帯が鳴りだした。
この音はメールではなく、通話の受診音だ。
「わ、わ…っ…と、もしもし?」
慌ててボタンを押して、本体を耳に押し当てて話すと、向こうから懐かしい声が聞こえてきた。
『桜乃? 久し振りたいね、俺ばい』
「っ! 千歳さん!?」
今、一番聞きたかった人の声を聞けて、思わず桜乃の声が喜びに震える。
嘘、何て凄いタイミングなんだろう…凄く嬉しい…
「わ、ぁ…お久し振りです。お元気ですか?」
『ああ…桜乃も元気んごたるね。けど、声がちょっと寂しそうたい、慰めに行かんでもよか?』
おどけた様子の千歳に、桜乃は笑いながら相手が見ていなくても首を振った。
「あはは、嬉しいですけど流石に大阪と東京じゃ離れてますからね…遠慮します」
『……ふぅん?』
「?」
何となく意味深な沈黙の後の相槌に、少女が首を傾げる。
「何ですか?」
『なら、俺が傍におったら、慰めてもらいたかと? 桜乃』
「え…」
直接的な質問に、見えない筈と分かっていても顔を赤らめてしまいつつ、桜乃はごにょごにょと声を小さくしながら相手の言葉を認めた。
こんなところでつまらない意地を張っても仕方ない。
「それは勿論…その、会いたい…です、けど……」
すると、向こうはまた暫く沈黙し…笑みを含めた声ではっきりと言ってきた。
『よかばい。後ろば向かんね』
「え…!?」
反射的に振り向いた桜乃の視線の先…ほんの数メートルの距離の向こうに、彼がいた。
中学生にしては…いや、一般的な日本人の体型と比べても長身の男は、自分と同じ様に携帯を耳元に押し当てながら視線はこちらに向け、笑っている。
確かに現実の光景…の筈なのに、桜乃はなかなかそれと受け止められなかった。
「嘘…千歳…さん…?」
呆然と呟く桜乃の前で、先に携帯を切ってポケットにしまい込むと、千歳はおどけるように笑って軽く両手を広げてみせた。
「ほら、来んね桜乃、俺も会いたかったっちゃけん。ぎゅーってさせんね」
「……っ!」
本物の千歳さんだ!
桜乃は携帯を握り締めたまま、夢中で相手の方へと走りより、抱きついた。
自分より小さな身体の少女が飛び込んできても、少しも揺らぐことのないままに、千歳はしっかりと彼女の身体を受け止めて抱き締める。
「久し振りたい…会いたかった」
「千歳さん…!」
いつ来たんですか? どうしてここにいるんですか? どうやって来たんですか?
聞きたい事は沢山あったけど、あまりに嬉しくて言葉にならない。
それからも暫く、桜乃は千歳から離れることが出来なかった。
「目…の手術?」
「ああ、こっちに凄か腕の医者がおるって話があったけん、一度会ってみたかって思ったとよ。もし受けるとしても、ちょっと時間はかかるかもしれんばってん」
「そうですか…」
感動の再会の後、二人は繁華街から場所を移し、近場の緑豊かな公園でのんびりと時を過ごしていた。
公園と言っても二人がいるスペースは子供が遊ぶような遊具などはあまりない、あくまでも人々がのどかに憩う事を主な目的に造られた場所である。
夕暮れも近い所為か人の姿もまばらで、二人に気をかける様な人間はいない。
普通なら何処かの喫茶店とか店に入るところだが、この男はやはり、そういう普通とは相容れない性分の様だ。
いや、単に自然が好きなだけなのかもしれないが。
因みに桜乃はと言うと、千歳に会えただけでもかなり嬉しいので、この際場所は何処でも特に構わないといった様子である。
ただ、相手が受けるかもしれないという手術の話については、彼女は深刻に受け止めていた。
技術が優れていると評判なら、心配は要らないのかもしれない…けど、どうしても心に微かな翳りが生まれてしまう。
(千歳さんの目が元に戻る可能性があるなら、応援したいけど……やっぱり心配だな)
ぽんっ…
「!」
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