頭に優しく手を乗せられ、桜乃が右を向くと、優しく微笑む彼の姿がある。
右目の視力が心許ない彼は、出会った時から、桜乃が自身の右に立つことを拒んでいた。
よく見えないからだ。
全く見えない訳でもないのだが、あくまで千歳は彼女の姿をしっかりと視界に留める事を望み、その希望の結果、いつも彼の左にいることが桜乃の癖にもなってしまっていた。
しかしもし手術が成功したら、そんな立ち位置にこだわる事もなく、好きな様に相手の傍に立つ事が出来るのだろうか…それは嬉しい…けど…もしもの事があれば…
「分かり易かね、桜乃…相変わらず、素直すぎるばい」
「あ…」
指摘されて戸惑う少女に笑いながら、千歳はごろんと芝生の上に寝転んで空を見上げた。
幾つもの雲がたゆたう空を見上げ、千歳はそれらの内の一つを指差した。
「片目でも、結構見えるとばい? あぎゃん遠か雲でもよーく見えとる…はは、何となく桜乃に似とるばいね」
「…あは」
つられて見上げた空に浮かぶ雲…千歳が指したそれは、円形の雲に確かにおさげっぽい形の房が二つ付いていた。
それを見た桜乃は、更にその近くにある少し大きめの雲を見つけると、相手に知らせるように指差した。
「あれは、千歳さんに似てますよ?」
「んー?」
桜乃に似ている雲より一回り大きく、確かにその辺縁がもしゃもしゃと繊維がほつれた様になっている…彼の髪型の様に。
「はは、そうやね…」
それから何を話すでもなく、千歳は寝転がったまま、桜乃は芝生に腰を降ろしたまま、のんびりと雲と空を見上げていた。
雲は、風に吹かれ気ままに流れてゆく…
こうしていると、ゆっくりと流れる時間も悪くないと思えてしまう。
しかし、それから少しして、何故か桜乃の顔が赤くなって俯けられてしまった。
(わ…ど、どうしよ…)
言うに言えないし…と思っていたところで、楽しそうな千歳の声が届けられてきた。
「お…『ちゅう』したばい」
「っ!!」
言われて、更に桜乃の顔が赤くなる。
「そっ…そう、ですね……」
別に自分達がした訳ではないのだけど…あの二つの雲が風に流される中でぴったりとくっついた様が、まるでキスした様に見えてしまったのだった。
それはどうやら、自分だけが思ったシチュエーションではなかったらしい。
まさか、声に出して言われるとは思っていなかったけど。
(うわ〜…何だか恥ずかしい…)
ぽーっと頬を染めながら、言葉を探しあぐねている少女とは裏腹に、千歳は相変わらず憎らしい程に飄々とした様子で、じっと相変わらず雲を見つめていた。
桜乃は何かを話して時間を埋めるべきかとも思ったが、どうにも気の利いた話題が出てこないまま、更に時が流れてゆく。
静かで、平和で…心が密かに躍る不思議な時間が二人を包んでいた。
…始まりは些細な一言。
「……キスしてみんね、桜乃?」
「は…!?」
唐突な相手の一言が、桜乃の思考を停止させてしまった。
今…何て言ったの…?
ううん、聞こえてはいたけど…それって、どういう意味…?
やっぱり…その意味は、一つしかないの…?
「え……」
「…俺と」
混乱している桜乃の方へ、ごろんと身体を向けて肘をつきながら、千歳は相変わらず笑っている。
しかし、おちゃらけた笑みではない。
口元は微笑んでいるが、目は明らかに真剣なそれだった。
だからこそ、桜乃にも相手が本気なのだとすぐに分かってしまう。
「千歳さん…」
「…してみん? キス」
軽く握った手で口元を押さえ、真っ赤になった桜乃を見つめつつ、千歳は改めてそう誘った。
まるで『散歩にいかない?』とでも誘っているような口調で。
しかし、どんなに口調が砕けていても、一度も経験のない生粋の乙女にとっては一大事であることには変わりはない。
「で、でもっ…ど、どうして、私なんかと…そのっ…」
桜乃の声は完全に上擦っていて、動揺しているのが明らかだった。
確かに自分はとても親切にしてもらったけど、相手から告白された訳ではない。
自分は彼の事がとても好きだけど、彼が大阪でとてもモテている事も知っている。
彼の優しさに自惚れてもいいのかと期待した事もあったが、いざこんなコトを言われてしまうと、今更ながらに「いいのだろうか」という不安が心を過ぎってしまうのだ。
「俺は…」
少女の台詞に、敏感にその「不安」という感情を感じ取った男は、一度瞳を伏せ、そしてそれを再び開いて桜乃を見据える。
「桜乃とだけ…したかよ」
「っ!!」
「桜乃は、俺のこと…好かん?」
(!!!!!)
これは…これはもうっ、告白、だよね…そうとしか聞こえないよね…っ!?
う、嬉しいけど…どうしよう、心が飛び跳ねちゃって、上手く答えが…っ
「そっ、そんな事ないですっ! そんな事はないんですけど…っ、こ、こういうのは心の準備っていうものが…」
「準備…?」
聞き返した若者は、それからじっと黙り込んだ後、再び顔を上げて桜乃に訊いた。
「…じゃあ、来年とかなら、よかと?」
「いいい、いえいえいえっ、そこまでお待たせする訳にはっ!!」
一体自分が何を話しているのかさえ分からなくなってきてしまった…
ぱたぱたと両手を振り回しながら否定した少女は、座りながらも息切れしてしまった呼吸を必死に整えにかかる。
「あの…ち、ちょっとだけ、待って下さい」
断った後で、すーはーすーはーと何度も深呼吸を繰り返し…心臓の脈の速さを確認するが、これはもうどうしようもない。
胸元に手を当てて目を閉じていた桜乃は、意を決した様に軽く頷くと、瞼を開けて千歳を見つめた。
本当は恥ずかしくて逸らしたかったけど…それはするべきではないと心の何処かが彼女に言っていた。
「え、と……じゃあ、い、いいです、よ?」
「…っ」
林檎の様に真っ赤になり、羞恥に身体を微かに震わせながら、それでもこちらの望みを受け止めようとする少女は、男の瞳にどれだけ美しく映ったことだろう。
例え片目の視力が衰えていようとも、彼の視神経を通じて脳へと伝えられた相手の姿は、彼の本能に揺さぶりをかけるには十分な力を秘めていた。
「桜乃…」
「あ…っ」
ぐいと身体を起こし、千歳の腕が桜乃の腕を強く掴む。
そのまま唇を塞がれることを覚悟していた少女だったが、相手はそれより先に自身の体重を乗せる形で、芝生の上に彼女を押し倒してしまった。
「ち、ちとせさ…っ」
座ったままでのキスになるだろうと思っていた桜乃にとってはあまりに予想外な出来事に、彼女は思わず身を捩ってしまったが、千歳の身体が被さってきてまるで身動きがとれない。
声を出そうにも、押し倒されてすぐに唇が塞がれてしまった今となっては、それも叶わなかった。
「んん…っ」
飄々とした、まるで風の様な人…だったのに……まるで…
反射的に千歳の腕を掴んだ桜乃のそれが、ぶるりと震えた。
(まるで…噛み付かれているみたい……熱い…)
青い香りに包まれながら、身体を緑の絨毯に埋めて秘め事を隠しながら…
今の彼は、まるで野に生きる獰猛な獣のように、貪欲に桜乃の唇を貪っている。
求めても求めても、まだ足りない、まだ欲しいと、癒せない渇きを持て余すように。
「…桜乃…っ」
「ふぁ…」
力に任せて押し倒した少女の身体をきつく抱きながら、千歳は少しだけ唇を離して囁いた。
「好きばい、桜乃…あんまりむぞらしくて、仕方んなか…」
「千歳さん…っ…あ」
それからどれだけの時間が流れただろう…
どれだけの数…口付けを受けただろう…
唇だけに留まらず、額や瞼…頬や首筋に至るまで。
お前は俺のものだと証を示されるように、桜乃は千歳から幾度となく接吻を受け続けていた……
「え…今日、帰るんですか?」
「ああ、新幹線でな。もう予約も取っとるんよ」
「……」
公園での密かで甘い時間が過ぎた後には、辛い現実が待っていた。
「元々、病院での受診目的やったし、予約も取っとったけんそう時間もかからんしね…三年生やと他に色々とやることもあっとよ」
きっと受験とか、そういう事を言っているのだろう。
「そうですよね…」
本当は、もう少しだけでも一緒にいたいけど、それは自分の我侭に過ぎない。
分かっているからこそ、桜乃はそれを言う事は出来なかった。
せめて今の自分に出来る事は、相手を駅まで見送ることだった。
「すぐとんぼ返りのつもりが予想以上に時間が空いたけん、桜乃の学校の近くまで行ってみたとよ。俺の都合で振り回す訳にもいかんて思って連絡もせんだったばってん、まさか今日、本当に会えるとは思わんかった…」
「…とんぼ返りでも」
「ん…?」
駅へと至る道を出来るだけゆっくりと歩きながら、桜乃はひそりと呟いた。
「ほんの一分…一秒でも会えるんなら、どうか教えて下さい。私、会いに行きますから、きっと…」
「……ん」
自分に会う為に最大限の努力をしようとしている少女がとてもいじらしくて、その気持ちが嬉しくて、千歳は場を憚らずに抱き締めたいという気持ちを抑えるのに随分と苦労した。
本当に、この子に会えて良かったと思う。
例えどんな出会い方でも、きっと自分はこの子を好きになっていただろう。
「じゃあ、これからは一分、一秒でも無駄に出来んね…」
「…はい」
そんな事を話しながら、二人はいよいよ改札口の場所に到着してしまった。
ここから先は、切符を持っている千歳しか入る事が出来ない。
予定の号の出発時間まで、あと五分ぐらいしかない。
「…じゃあ、ここで」
「はい…」
別れを告げる千歳に、桜乃は小さい声で答えた。
「…さよ…なら…」
いつか、大会が終わった後に別れた時は、こんなに心は痛まなかった。
友人としてならまだ我慢出来たのに…『恋人』になったばかりで、もう別れないといけないの…?
今にも泣きそうな少女の姿に、千歳は視線を逸らしつつ頭を掻いた。
このまま彼女を連れてったら…やっぱ、犯罪になっちゃろ…?
「〜〜〜〜〜〜」
そして、溜息を一つついて持っていたバッグからメモ帳を取り出し、何事かを書くと、それを二つに折って桜乃に手渡した。
「…?」
「桜乃、お前に元気になれる魔法ばかけるけん。俺がこの改札口ば通って、見えんようになったら、これを読むとよかよ」
「これ…」
「ああ、まだ開けんで…よかね? 俺が見えんようになるまではこのまま…」
相手がまだそれを開かない様にしっかりと念押しをすると、千歳は別れ際に桜乃の唇を自分のそれで軽く塞ぎ、ゆっくりと離しつつ背を向け、改札口を抜けていった。
「またな」
「あ…」
笑顔で消えてゆく千歳の姿を、桜乃はただそこに佇んで見送るだけだった。
何かを言いたかったが、相手の不意打ちに言葉を封じられてしまったのだ。
(…さよならだけじゃ…嫌だったのに…)
相手が見えなくなってからも、暫くはそんな事を思ってしょげていた桜乃は、ようやく気を取り直したところで手にしていたメモ紙を改めて見た。
何の変哲もない、普通の紙…
(元気になる魔法…?)
一体、どんな魔法を彼は仕掛けていったんだろう…
(もういいよね…千歳さん、行っちゃったし…)
何が書かれているんだろう、と思いつつ紙を開いて見ると…
「……あ…」
『高校は東京の学校に行くけん、もう少しの辛抱たい。春になれば、もっと一緒におられる。だけん桜乃、俺がおらんでも元気にしとらんばいかんよ。泣かんごつな』
「……あはは」
思わず笑い声を零しながら…桜乃は瞳から大粒の涙を零した。
「…泣くなって…千歳さんが、泣かせてるクセに…」
それって、ずるいですよ…
「凄いな…凄い魔法…」
大丈夫ですよ、千歳さん…私、元気になれますから。
もう少し我慢したら、また会えるんですよね、今までよりずっとずっと近くにいられるんですよね。
私、待ってますから…だからもう、寂しくないですよ……
「…ふぅ」
新幹線の中、千歳は席に座りながら流れる景色を眺めつつ息をついていた。
きっと今頃あの娘は、自分の書いたメッセージを読んでいることだろう。
(参ったばい。来年ここに来てから、たまがらせて(驚かせて)やるつもりやったとになぁ…)
こんなに早く、バラす事になるとは思わなかった。
(けどまぁ、しょうがなかね…ほっといたら、あんまま涙になって溶けそうやったし)
それは流石に大袈裟過ぎるが、悲しみに暮れて身体を壊してしまうのではないか、とは真剣に考えた。
だからこその秘密の暴露だったのだ。
驚かせる作戦は結局頓挫してしまったが、千歳の口元には薄い笑みすら浮かんでいた。
「…よか土産も、貰ったし」
言いつつ、自分の唇に指先を触れさせる。
柔らかく温かな少女の唇の感触もさることながら、あの時の彼女の恥らう仕草には脳髄が沸騰しそうになってしまった……きっと春になれば、また見ることになるのだろう…
「…何度やっても、こればっかりは慣れるとは思えんばい」
いつか、あの子に焦がれるあまりに自分は気が触れてしまうのかもしれない。
けど、そうなったとしても、彼女を他の男に渡すなど考えられなかった。
(…春、か)
季節が巡り、花綻ぶ時になれば、また会える…
そして会ったら、思い切り彼女を抱き締めよう。
絶対に離さない…その誓いと決意を込めて……
了
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