不思議なのっぽさん


「…困ったな…どうしよう」
 その日…全国大会準決勝もすぐ傍に迫った或る日…桜乃は道路の片隅で立ち止まり、そこから一歩も踏み出せないでいた。
 朝も早いその時刻、既に日は昇り、徐々に大気の気温も上がりつつあったのだが、彼女の目の前の道路には、一面の水溜りが広がっていたのだ。
 おそらくは昨日の一気に降った雨と、この道路の傾斜などによるものだろう。
 水溜りはかなり広範囲に渡っており、ちょっとジャンプする程度では到底飛び越せない。
 いや、これを飛び越すには、おそらくは身の丈数メートルの巨人でなければ無理だろう。
 他の道路がもう完全に水気を失っているのに、ここだけがまるで小さな池の様であり、それがこの少女の行く手を阻んでいたのだ。
 普段であれば、桜乃はそこを急いで走って渡るなど、あまり気にもしなかっただろう。
 しかし、今日に限っては…
「…きっと泥はねしちゃうよね…お気に入りのサンダルなのに…」
 今日の服はお気に入りのスカートだし、足元も買ったばかりの白いサンダル…
 池ほどの深さがないとは言え、水溜りを渡れば足元は濡れるしサンダルは汚れる…水の跳ねによってはスカートまで被害が及ぶかもしれない。
 乙女心としては、それは出来るだけ避けたい被害だった。
「う、ん…回り道をした方がいいのかな…」
 でも、そうしたら到着まで時間かかっちゃうし…
(会場の下見って事だから、私が急ぐ必要はないんだけど…でもやっぱり、遅れたくもないもんね…しょうがない、覚悟を決めて…)
 からん、ころん…からん、ころん…
 後ろから何か小気味いい音が一定のリズムで響いてきていたが、今の桜乃にはそれに気を向けるゆとりはなかった。
 なるべく浅いところを狙って、目で走り抜ける場所を探して、出来るだけ水が跳ねない様に…でもやっぱり、クリーニングは必要になるだろうな…
(えーいっ!…)
 走る直前に目を閉じて気合を入れて、さぁ、渡ろうと一歩を踏み出そうとした時だった。
 ひょいっ…
「ほえ…?」
 身体が…重力から解放される。
 足が…地面についてない…目線が…高い……
「そぎゃん可愛か服着とっちゃけん、勿体なかよ」
「え…!?」
 下から聞こえる声と共に、自分の身体を抱き上げている誰かの腕の温もりを感じて、桜乃ははっと視線を下へと下ろす。
 長身の若者…日に焼けた逞しい身体を持つ彼が、片腕で軽々と自分の身体を掬い上げる形で抱き、こちらを見上げていた。
 くせっ毛でやや長めの髪と、全てを見透かされるような不思議な瞳が印象的な男だ。
 服はゆったりとしたシャツとジーパン…なのに、履いているのは下駄。
「あ、の……」
 抱き上げられたまま、どうしたらいいのか分からなくなってしまっている桜乃に、その若者はにこ、と人懐っこい笑顔を見せる。
「軽かね〜、羽ん生えとるごたる…じゃ、行くばい」
「あ…」
 からん、ころんと再び下駄の音を響かせながら、若者は水溜りを桜乃を抱えたままに渡り始めた。
 片腕で、軽々と…
「ふわ…」
 ぱしゃんぱしゃんぱしゃん…
 耳に心地よい水音を響かせ、下駄で水溜りを越えて行く男に、桜乃は無意識の内に縋りつく。
 落とされるとは思ってはいなかったが、やはり身体が多少揺れることに対する恐怖があり、傍の若者に遠慮がちに手を伸ばし、力を込めた。
「……」
 受けるささやかな力を感じ、男は薄い笑みを浮かべながらちらりと桜乃の方を見遣ったが、特に何を言う事もなかった。
 代わりに、抱き抱える腕に力を込めて安心を与えるように気遣いながら、彼はゆっくりと歩いてゆく。
 そして、水溜りを越えて、水気のない通常の道へと辿り着いたところで、若者は抱えていた桜乃の身体をゆっくりと地面へと返してやった。
「そら」
「わ…」
 抱き抱えられてから、驚いてばかりの少女だったが、地面に降りて姿勢を正すと、改めて相手を見上げた。
(うわぁ…凄いのっぽさんだぁ〜!)
 こんなに背が高い人って、あまり見ないかも…でも、凄く優しそうな目をしてる…
 向こうは、何を考えているのか分からない不思議な雰囲気を醸し出しながらも、見つめてくる桜乃を柔らかな視線で見返す。
 そこには、少なくとも敵意などの様な陰の感情は認められない。
「あ…有難うございました、助かりました」
 いつまでも見つめていては失礼だと、桜乃は慌てて瞳を伏せ、そのまま頭を深く下げてお辞儀をした。
 そうして下げた視線の先に、男の足元が映る。
 下駄の足で多少は地面からの距離はあったものの、やはり水溜りの深さもそれなりにあったのか、素足とジーパンの裾とが濡れているのが見えた。
「あ、の……すみません…」
 自分だけの所為ではない事は分かっていたが、それでも彼女は思わず謝ってしまった。
 もし自分があそこでうろうろと立ち往生していなければ、彼にももしかしたら回り道をするという選択肢もあったかもしれないのだ。
 下手に自分がそこにいたから、彼に余計な気を遣わせてしまったのかも…
 申し訳なさそうに俯く桜乃に、男はにこ、と優しく笑った。
「よかよか、こぎゃんこつ気にしとったら何処にも行けんたい。大した服でもなかし、アンタが汚れんで良かったとよ」
 特徴的な方言で話している若者は、そう言いながら照れ臭そうにぽり、と頭を掻く。
 飾り気のない素朴な態度は、桜乃の目に優しく、心を温かくさせた。
(何だろう、凄く落ち着く…不思議…)
 頭から手を離したところで、その男のポケットから電子音のメロディーが流れ出した。
 どうやら携帯の着信があった様だ。
 その音を聞いたことが切っ掛けで、桜乃は目の前の若者から現実へと意識を引き戻された。
 いけない、自分は早く会場に行かないと…!
「あ…」
 桜乃の仕草でそれとなく事情を察した男は、携帯を取り出しながら、軽く手を振る。
『バイバイ』
 それは、「気にしないで行っていい」という意味のジェスチャーでもあり、少女に対する気遣いでもあった。
「……」
 出来たら名前を聞いておきたかったが、相手の通話を邪魔する訳にもいかなくなった桜乃は、せめて目に見える形でもう一度相手に深々とお辞儀をした後で、その場を走り去った。
 ぱたぱたと走っていく少女のゆれるおさげを見つめつつ、その若者は携帯を耳元に当てて、向こうの相手に喋る。
「白石か、何ね?」
 白石と呼ばれた相手の言葉を携帯の向こうで聞きながら、男はまだ桜乃の小さくなった姿から目を離さない。
「ああ、知っとるたい…今向かっとるけん……ああ」
 短い会話の後、携帯を切ってそれをまたぞんざいにポケットに押し込んだ後、若者は再びからん…と下駄の音を響かせながら歩き出す。
 その道筋は、どういう訳か桜乃が辿ったものと全く同じだった……


「わぁ、流石に全国大会の会場になるだけあって、凄い設備…」
「気が引き締まるってもんだねぇ」
 会場に到着した桜乃は、そこに先に来ていた祖母の竜崎スミレと連れ立って辺りの設備を見回っていた。
 何とか時間内に到着出来てから、彼女はずっと祖母と一緒に行動している。
 傍ら、青学のレギュラー達は、会場のコートの一部を借りて、場に慣れる為の打ち合いを行っている真っ最中だ。
 見ているだけでも彼らの気合が伝わってきて、時間も忘れてしまうようだ。
「…私達はあそこで観戦することになるの? おばあちゃん」
 孫が指差した観客席の方を眺めながら、竜崎スミレはうんと頷いた。
「ああ、あたしはベンチに降りてることになるけどね。応援、しっかり頼むよ」
「うん」
 準決勝からの集合場所、時間、待機場所などを確認しているところに、青学メンバーのデータ管理を一任されている乾が歩いてきた。
「竜崎先生、ちょっと確認したいところが」
「うん? 何だい?」
 祖母が監督としての仕事を始めたところで、桜乃は辺りをきょろっと見回してみる。
 今自分達がいるのは観客席のベンチだが、ここから辺りを見回すと会場の周囲の光景もよく見える。
 会場の周囲をドームの様に緑が囲んでいるのは、やはり青少年の育成に因み、自然を重視した環境作りも考慮しているというアピールだろうか。
 周りを見回していた桜乃の耳に、祖母の少し驚いた様な声が聞こえてきて、彼女にそちらへと注意を向けさせた。
「おや、しまったね、ついうっかり…」
「? どうしたの? おばあちゃん」
「いや、ちょっと予定表を持って来たんだが、ミスコピーの方を持って来てしまったらしい。幸い原本はあるから、これをコピーしたら用は足るが…」
「あ、じゃあ、私、コピーに行って来ようか?」
 孫娘の申し出に、スミレが笑顔で応じる。
「おや、頼めるかい?」
「うん、おばあちゃんは皆さんの指導があるし、乾先輩もお忙しいだろうし…コピーぐらいなら私でも出来るよ」
「すまないな、竜崎」
「じゃ、ちょっと行ってきとくれ。ついでにこのミスコピー分は、車の中にでも入れといておくれ。後でメモ紙にでも使おう。これが鍵だよ」
「はい」
 ミスコピーの書類と原本、車の鍵を持って、桜乃は近場のコンビニへと向かって行った。
 流石に方向音痴でも、これだけ施設が大きく、見えている場所にある分には迷いようがない。
 彼女は今日は危なげなく目的地のコンビニに到着すると、必要分の枚数、コピーを取り、それを抱えて施設へと戻る。
 その途中で祖母の車の中にミスコピーを届ければ良かったのだが…
「…あれ?」
 会場の外…緑が茂る木々の内の一本の根元に…足が見えた。
(な、何…? 誰…!?)
 こんな所で横になっているなんて…しかも、裸足の様に見えるけど…
 つい好奇心に誘われて、桜乃はこそこそこそっと場所を変えて、その人がよく見える場所まで移動した…ところで、
「あっ…!」
 思わず声を上げてしまった…が、距離もあり、そんなに大きな声でもなかったので、幸い向こうには聞こえなかった様だ。
(あの人…)
 さっき、自分を抱えて水溜りを渡ってくれた人…!
 相手はどうやら木陰のある芝生で適当な日陰を見つけて、昼寝を決め込んでいる様だ。
 しかし、あんな所で無造作に身体を投げ出して眠れるなんて、なかなか豪快な人物の様だ…まぁ何となくイメージは合っている。
 裸足に見えたのは、傍に下駄を脱ぎ捨てていた所為か…
(…あまりこだわりのない人なのかな…あ、でも)
 ちょっと近づいてみると、桜乃はある事に気付いた。
 木漏れ日が、丁度彼の顔の部分に掛かっていた。
 最初は木陰が掛かっていたのかもしれないが、時間の僅かな経過か、枝葉の揺れで、今の男の顔には直射日光が注がれている。
 それでも気にせずに眠っている様だが…
(何だか眩しそう…ちょっと可哀想かも…)
 何とかしてあげられないかな…けど、だからと言って起こすのも悪いし…
「…そうだ」
 ふと、桜乃は手にしていた書類の束へと視線を下ろした。
 これを使ったら、少しは役に立てるかもしれない……



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