「…んん」
下駄を脱ぎ、一時の休息に身を委ねていた男は、心地良い満足感と共に瞳を開き、再び意識を現実へと覚醒させる。
何だか、途中から久し振りに心地良い昼寝具合だった気がするが…
「……ん?」
眼を擦りつつ、空を眺めると木の枝と枝に引っ掛かる形で何かの紙が掛かっていた。
それが丁度、自分の顔に掛かる筈の直射日光を防いでくれていた。
「…?」
随分とベストな位置にあるものだと思いつつ、よいしょ、と上体を起こしながら改めてその紙へと目を遣ると、何かが書かれているのに気付いた。
「…あ」
『おはようございます』
何とも端的な挨拶である。
しかしこれを見る限り、どうやら…この紙は風に飛ばされてここに引っ掛かってきた訳ではないらしい。
「……?」
立ち上がり、手を伸ばし、すっと紙を枝の拘束から外して手にとって見る。
マジックで書かれている文字は、何処となく女性的で十分に整っている…が、自分の知る人物の中でこういう文字を記す者はいない。
「ふぅん…?」
一度紙から視線を外して、それが掛けられていた枝へと注意を向ける。
木そのものがそれ程に高さのないもので、枝に手を伸ばしたら比較的背が低い人物でも触れることは可能だ。
身長では相手の正体を探るのは難しい、か…
「誰か知らんけど、粋なコトするばいね」
その相手を思いながら男が笑っているところに、一人の同年代の若者が彼の姿を見つけて走ってきた。
「千歳! ここにおったんか!?」
「…ああ、白石か」
「全く…相変わらずやな、放浪癖は」
のんびりと下駄を履きながら、千歳と呼ばれた男は、白石と呼んだ男に悪びれもせずに微笑んだ。
「すまんね…ちょっとばかり昼寝しとったとよ。よか天気じゃけん」
「金ちゃんと言い、千歳と言い、ウチの学校程、面子が揃わんトコロもそうないやろなぁ…ん? 何や? ソレ…」
「ああ…ちょっとな」
相手が手にしている紙に目を向けた白石は、そこに書き込まれている文字を見て眉をひそめた。
「女が書いた様な文字に見えるけど…知り合いでもおったん?」
「いや、誰もおらんとよ……見覚えなかね?」
「…全くないな」
白石の言葉を受けて、頷きながら、千歳が何気なく紙を反転させる。
「ん…」
そこには明らかに印刷を誤った跡が残されていた。
所謂ミスコピーだ。
印刷された面と紙の大きさが一致していない。
「……青学、か」
そこに記載されていたのは、青学のテニス部の大会予定日の移動スケジュールだった。
別段、極秘と言う程ではない情報ではあるが、こういう内容はその学内の関係者しか知らない筈…と、なると。
(青学の誰かが、これを掛けてくれたと?)
しかし、青学には自分の知己は一人もいない…いや、手塚は知ってはいるが、彼の筆跡は見た事がある…無論、こういうものではない。
(青学の女子…? 尚更分からんとやけど…)
しかし…こういう事をされると非常に気になる。
眠っている間とは言え、自分の知らない間にこんなコトが出来る…?
それだけ自分が心を許した相手…ということか? 無意識の内に…
「…そう言えば、丁度青学が来とったばいね…まだおっちゃろか?」
「ああ…コートの方で監督さんと色々とやっとったわ…って、何処行くんや?」
ようやく探し当てた放浪男が、またからころと下駄を響かせながら歩き出すのを見て白石が声を掛けたが、相手はもう足を止める様子はない。
「んー、ちょっと覗きに行くけん、また後でな」
「おいおい、連絡事項も聞かんと…」
「緊急のモンか?」
「いや」
「じゃあ、ホテルで聞くけん」
どうやら物事に拘らない性格は対象が何であっても誰であっても変わらないらしく、半分はこういう反応を予想していた白石は苦笑するに留まった。
「帰りが遅いと、夕食、金ちゃんに取られてまうで?」
「はは、肝に命じとくたい」
ひらひらと手を振って答えながら、千歳はからころと青学がまだ残っているというコートへと向かって行った。
「それじゃあ、もう一回ローテーションが回ったところで、終了にしようか」
『はいっ』
青学のメンバー達がそろそろ打ち合いも終盤を迎えようとしているところで、桜乃はベンチで彼らの様子を静かに眺めていた。
車の中にミスコピーを置いて、今、代わりに彼女の手には正規の資料が握られている。
全ての活動が終了したら、これらを青学メンバーへと渡すのだ。
(そろそろかな…ええと、もう一回念の為に枚数を確認しておこう…)
もう店でも確認はしているのだが、やはり不安になって再度プリントを数え始めていたところで…
からん、ころん、からん、ころん……
「…?」
何だろう、何処かで…つい最近聞いたことがある、この音…
「…あ」
「ん…?」
一人の少女と一人の若者が再び出会う。
そこに彼らの意図はなくても、縁が再び彼らを引き合わせた様に。
「……」
言葉を継げずにいる少女が戸惑う前で、若者も多少は驚きながらも、彼女よりは落ち着いた様子で相手を眺め下ろした。
立っている男と、座っている少女の目線の差は更に大きく開かれ、桜乃はかなり首を曲げないと相手の顔を見ることすら難しい。
「たまげたね…また会えるとは思っとらんかった」
素直に思っていた事を口にしながらも、千歳は柔らかな笑みを口元に刻む。
「あ…の…」
まだどもりながら、桜乃がかたりと立ち上がったところで、男は素早くコートとそこにいる青学のメンバー達を確認して、続けて観戦席を見渡した。
彼女以外で、選手以外の青学の関係者はコートに立つ監督だけか…
監督ならコートからおいそれとは離れない筈、となると、あの紙を残してくれたのは、ほぼ間違いなく……
「…ふぅん」
「?」
この子…だろうな…
そう確信しながら、千歳はさりげなく腰を屈めて手を伸ばし…桜乃の持っていたコピー紙に触れてそのまま掴む。
「あ…っ」
男性のいきなりの行為に驚いた桜乃が声を上げたが、気付いた時にはもうそれらは彼の手の中にあっさりと奪われてしまっていた。
(わ…っ)
桜乃が驚いている間に、千歳はそれと自分が持っていたミスコピーを比べてみた。
コピーされている画像の大きさこそ違えど、中身は全く同じ…
自分の予想を裏付ける物証を得られ、若者は満足げに微笑んで紙から桜乃へと視線を移すと、ぴらっとミスコピーの方へ書かれた文字を示してみせた。
「……君だったとね」
「あ…」
内緒にしていた…こっそりと仕組んだ恩返しをあっさりと見抜かれてしまった娘は、見下ろしてくる千歳の視線を真っ向から受け止めてしまい、更にかぁっと顔を赤くしながら、恥ずかしさに俯いてしまった。
「…」
その仕草に、千歳が微かに瞳を揺らせる。
(何ね…妹んごたると思っとったけど…)
そんな相手に、何で胸がせわしなく脈打ちだしているのか…まるで…
「…あのう」
「ん…?」
「よく、お休みに…なれましたか…?」
恥ずかしさを抑え、気を取り直し、桜乃は微笑みながら千歳を見上げた。
「気持ち良さそうに眠ってらっしゃいましたけど…陽射しが眩しそうでしたから」
「ああ…ありがとさん」
陽射しより…今はこの子の笑顔が眩しく見えるのは何故なのか……いや、もう答えは己の中では出ているのかもしれない。
言葉であからさまに言うには、まだ早いかもしれないが…このぐらいは許されるだろう。
「優しかね…よか子は好きばい」
「い、いえ…そんな…」
『好き』と言われて照れてしまった桜乃が慌てて相手からコピー紙を受け取ろうとした…時、不意に男の左手がすぅと動き、それはそのまま天へと伸ばされた。
(…え?)
その動作を不思議に思った瞬間、自分の手に戻された書類達の一番上の一枚が、突然吹き抜けて来た風に煽られ、ひらりと宙を舞う。
「きゃ…!」
掴み方が甘かった所為で、飛ばされてしまった…と思いながら、慌てて足をそちらへと踏み出しつつ空を仰ぐと、その紙はひらひらと舞い上がり…千歳の上げられた左手へと飛び込んだ。
「!」
まるで、その紙が『そうなる』事を見越していた様に…風が吹くことも、桜乃の手の力が弱いことも、全てを読んでいた様に。
そうしてあっさりと風の向きを読み、手の中に目的の物を取り返した千歳の姿は、見上げた桜乃の瞳に何故か眩しく映った。
しかし、それも僅かな時間のこと。
「あ…っ」
踏み込んだ足がよろりと縺れ、バランスを崩す…と、それもまた読まれていた様に、千歳の右手が伸ばされ、彼女の身体を抱きとめる。
ぽふん…
多少の勢いこそあったものの、受け止めてくれた身体は温かく、支えてくれた腕は優しかった。
その居心地があまりにも心地良くて、桜乃は一瞬ぼーっとしてしまったが、すぐに我に返って相手を見上げた。
「ご、ごめんなさい…!」
謝る少女に、上から見下ろすのっぽさんは、ぽんぽんと背中を優しく叩きながら笑ってくれた。
「ん…怪我せんでよかった」
威風堂々とした…まるで大樹の様な人……そして、とても不思議な人…
「あ、あのう…」
「ん…?」
「も、もう大丈夫…ですから、その…身体を…」
ずーっと抱き締めてもらっている事に流石に赤くなって桜乃が断ると、相手もああ、と気付いた様に苦笑して、ようやく手を下ろして紙も返してくれた。
「ああ、すまんかったばい……あんまりむぞかったけん、離しとうなかった」
(むぞかった…?)
よく分からない言葉だな、と桜乃が思っているところに、祖母である竜崎スミレが彼女達に気付いて近づいてきた。
「おや桜乃、どなただい?」
「あ…おばあちゃん…」
「…」
千歳が、桜乃と、彼女が祖母と呼んだ婦人を交互に眺め、何かを察した様に薄く笑う。
(…成る程)
青学の監督である竜崎スミレ…彼女が祖母なのか…面白い縁だな。
「アンタは…もしかして千歳千里かい?」
近づいた竜崎スミレが、は、と気付いた様に相手に確認し、その相手は更に笑みを深めて何も言わずに一礼した。
否定はしない…ということは肯定だ。
「チトセ…?」
たどたどしく繰り返した桜乃に再度視線を落として笑うと、千歳はそっと彼女の頭に手を置いて、なで…と優しく撫でた。
「!?」
「きれか名前たい…桜乃」
「え…?」
聞き返した時は、相手はもう手を離しながら背を向けていた。
そして、からん、ころんと下駄の音と共に、去っていく。
「…千歳…さん」
ようやく知った名前を呼んだが、男はもう去っていく。
少女に優しい温もりだけを残して、己については語ることもなく。
(折角、お名前を聞いたのに…)
何となく名残惜しい感情を抱きながら、桜乃はそれ以上引き止める理由をもつ事も出来ずに、唯、男を見送るしかなかった。
「…珍しい相手と話してたねぇ、桜乃」
「おばあちゃん…千歳さんって、お知り合い、なの?」
「直接知り合った訳じゃないけどね、中学テニス界では知らない奴はそういないよ…何しろ橘と並んで九州二強の一人だった男だからね」
「橘さんと…!?」
祖母の説明に、桜乃は大いに驚いて小さくなった相手の背中をもう一度見つめた。
「同じ中学生!? あんなに大きくて…」
あんなに、頼りがいのありそうな人なのに…?
呆然とする桜乃の隣で、スミレは冷静な表情で同じく若者の姿を見送りながら、自身の見解を述べた。
「学校を四天宝寺に移してまだテニスをやっていると聞いたが…間違いなく『来るよ』、あの学校は」
「四天宝寺…?」
その時、桜乃の脳裏に過ぎったのは、青学と四天宝寺のテニスによる試合の行く末ではなく、また彼に会えるかもしれないという、淡い期待だった。
「…あ、あの…おばあちゃん?」
「ん?」
「あの…『むぞか』った…て…あの人の方言で、どういう意味、なのかな…」
「んん? 千歳は確か熊本の人間だったね…アタシもそう詳しくはないが、確かそっちの言葉では『可愛い』って意味の筈だよ」
「か…」
『あんまり可愛かったから、離したくなかった』
脳内で、彼の言葉の真意を知り、桜乃は熱を感じてしまう程に赤面し、言葉を失ってしまった…
そして大会当日
準決勝が行われる日、桜乃はきょろきょろと辺りを見回しながら、会場の周囲を回っていた。
お弁当を青学メンバーに届ける為ではない…それは昼にでも間に合う事だ。
(あの人…来ていると思うんだけど…)
もう会う必要はない筈なのに…どうしてか、気になって仕方ない。
会ってどうするという目的もないのに…会うことだけでも目的にしたくて、彼を探してしまう。
(四天宝寺は…確かこっちのコートで…)
青学の応援をしなければいけないことは分かっている、でも、試合が始まっていない今ぐらいは…
「……あ」
四天宝寺のベンチへと通じる通路に設置されていた長椅子に、その人は座っていた。
流石に今日は下駄ではなく、しっかりと四天宝寺のウェアーとテニスシューズを履いている。
同じ人物の筈なのに、出で立ちが違えばイメージそのものも一変しており、桜乃は思わず声を掛けることを躊躇ってしまった。
誰もいない…彼と自分以外にはここに他の人の姿は見えない。
しかし瞳を閉じた千歳の周囲には何か見えない光の様なものが…彼を包んでいる気がする。
(…意識を集中してるのかな…じゃあ、声、掛けないほうがいいよね、お邪魔したら悪いもの…)
結局…会えはしたけど、自分はそれ以上の目的を見つける事が出来なかったんだし…と思っていると、不意に向こうの唇が歪み、開かれた。
「どぎゃんしたと…? 桜乃」
「!?」
名を呼ばれてそこに立ち竦んだ少女に、千歳は伏せていた瞼を開き、ゆっくりと瞳を向けて微笑んだ。
「立ってばかりおらんで、こっちに来んね?」
会うだけの筈だったのに、そう誘われて、桜乃はどぎまぎしながらも彼の言葉に従い、おずおずと相手に近づいていく。
そして彼の前に立ったところで、彼女はぺこりと礼をした。
「…あの…お、はようございます。千歳さん」
「うん、お早うさん。随分、早かとね…青学の試合開始まで結構あっちゃろ?」
「はっ、はい……でも、千歳さんも、早いですよ」
「…何かね、早う目が覚めてしまったけん、しょうがなく来たとよ」
「え、試合で緊張されてたんですか?」
「はは、いや、違うたい…多分」
自嘲の笑みを浮かべたところで、千歳は真っ直ぐ桜乃の目を見て答えた。
「桜乃に、また会えるかもしれんって、思っとったけんたい…大当たりばいね」
「!!」
なかなか衝撃的な台詞をさらっと言った男に、桜乃が真っ赤になっている間に、彼はきょろっと辺りを見回して自分の隣の空き場所をぽんと叩いた。
「座って話さんね…? 桜乃」
「…はい」
自然な仕草で誘われて、少女は男のすぐ隣に腰を下ろした。
(あ…やっぱりあの時と同じだ…)
知らない男の人なのに…緊張しているのに、それでも何故か心が安らいでいく…
胸が高鳴っているのに、心は凪いでいく…とても不思議な…のっぽさんだ…
「…でもあの…何を、お話しましょう…?」
「何でもよかよ…桜乃のことなら」
「!!」
泰然とした、大らかな若者は、嬉しそうに笑って答えた。
試合まで、まだ時間はある。
いつもなら、会場を巡って暇を潰すだけの時間だったが、今この時はここに留まろう。
そして、初めて好きになった女(ひと)を傍に感じ、互いの触れた縁の糸をより強く、深く、絡めて…離れないように……
了
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