赤目と目薬
『おい知ってるか、赤也。お前が野試合したあの一年生、今、赤目ノイローゼになってるんだってよ』
「テニスで負けちまったのは癪だけど、ちょっと面白い話だなソレ…副部長に試合は止められてるけど、ちょろっと見るくらいならいーだろ」
その日、立海大附属中学の二年生、切原赤也は、放課後に少し足を伸ばして都内の青春学園を訪れていた。
ここを訪れるのは初めてのことではない…ので、まぁテニスコートまでの道順ぐらいなら覚えている。
前回は偵察…のつもりだったが、半ば手塚部長に喧嘩を売る形になり、そこから更に騒動が大きくなって已む無く撤収。
逃げ切れるかと思っていたが、きっちり手塚からこちらの副部長である真田に、一連の騒動についての連絡がいってしまっていたらしく、戻ると同時に物凄い雷が落とされた。
そして先日、一年下の青学のルーキー・越前リョーマと非公式の試合を行い、まさかの敗北を喫して、再び副部長からしたたかに叱られたのはまだ新しい記憶。
お陰で暫くの間、野試合はご法度と相成ってしまったのだ。
まぁそこには、全国への試合を見据え、こちらの手の内をおいそれと見せるべきではないという参謀・柳の当然とも言える配慮も関わっているのだろう。
正直面白くはない話だが、その相手である越前が赤目になった自分に対し、多少なりとも精神的苦痛を感じたらしいという話は、大いに彼の興味を沸かせた。
ここに来たのは、そんな一年のコートでの様子を覗いて、運が良ければその実態を見る事が出来ると思っていたのだが…
「……あ?」
前に来た時と同様、こっそりとなるべく人目につかずにコートに向かうと、遠目ではまだ人気らしいものはない。
(ちっ…まぁしょーがねーか、今日は立海は特別授業で時間が短縮されてたからな…じゃなけりゃ、平日の放課後にこんなトコまで来れるワケねーんだけど…でも、それにしたってそろそろ誰かが来ても良さそうな…おっ!)
いた!
コート脇のベンチに座っている白い帽子を被った少年は、間違いない、越前リョーマだ。
早速ターゲットを確認した切原は、何をやっているのかとそちらの方へ歩いて行き、部室の裏からこっそりと様子を覗いて見たのだが……
「リョーマー…あれ? 何してるの一人で」
「……なんだ、桜乃か」
部活がまだ始まっていないコートに早めに着いて着替えを終わらせ、ベンチに座っていたところで、越前リョーマは自分の双子の妹である桜乃の来訪を、少しばかりうざったそうな口調で迎えていた。
「むっ、なんだはないでしょー、失礼しちゃう」
「何か用?」
ささやかな苦言を呈しても、さらっとかわしてしまう小憎らしい態度はいつもの事…なので、長年の付き合いである桜乃は怒る気にもならずにやれやれと息を吐いた…ところで、ふとある事実に気付く。
「んん…?」
「……」
相変わらず、向こうはつれない態度でつーんとこちらに視線を合わせてくれない…その顔が若干濡れている。
最初は汗かとも思ったが、まだ部活の前で走りこんだりといった汗をかくような事はしていない筈。
その証拠に、顔は濡れているものの、息は一切乱れていないし、ユニフォームも僅かな汗を吸った様子も無い。
顔だけが濡れているのだ…不自然に。
「リョーマ、どうしたの? 顔がびしょぬれだよ?」
「別に…」
つーん…としたままリョーマはまだそっぽを向いている、が、何となくその表情は本気で不機嫌というものではなく、若干気まずさの匂いも漂っている。
しかもその彼の左手が、不自然に彼の体の向こうへと隠されている体制を見た桜乃は、はは〜んと相手の態度の理由に当たりをつけた。
「リョ・ウ・マ・く・ん?」
「…な、なに? 気持ち悪い呼び方やめてよ」
うふふふ〜と楽しそうに笑いながら、桜乃はぴし、と相手を指差して指摘した。
「目薬、上手く差せないんでしょ〜?」
ぎくっ…
「べ、別にそんなコトしてないし…」
「ふーん……あ、そっちの袖、糸がほつれてるよ」
「え?」
指摘され、思わずリョーマが左腕を掲げて問題の袖を見たが、異常は無い。
その代わり、手に握られていた目薬のミニボトルが、しっかりと桜乃の前に露呈されてしまった。
この勝負、桜乃の勝ち。
「…やっぱり」
「…ちぇっ」
バレたのはしょうがないと、あっさりとリョーマは相手の予想を認めた。
確かに自分は、ベンチに座ってそのついでに目薬を差そうと思っていたのだ。
ところが、毎度の事ながらなかなか自分では上手く差すことが出来ず、目に薬液が入る前に彼は顔面をそれで大いに濡らす羽目になってしまい、そこに桜乃がタイミング悪く来てしまったのだった。
「テニスなら何処に打つのも自由自在なのに、どうしてこういうのは苦手なのかなー」
「知らないよ」
苦手なものがあるという事実を指摘されたのが面白くないのか、リョーマはやはり少しばかり不機嫌だったが、そんな彼に向かって、桜乃が徐に自分の右手を出した。
「? なに?」
「貸して、私が差してあげるから」
「え…いいよ別に」
「それだけ顔を濡らしてるって事は、気になってるんでしょ? いいから」
「別にそんなワケじゃ…」
「早くしないと先輩達来ちゃうよ?」
「……」
断固断ろうと思っていたリョーマだったが、向こうは向こうで断固引くつもりはないらしい…こういう場合、この妹は非常に厄介なのだ。
いつまでもこうしていると、本当に他のレギュラー達が来てしまうかもしれないし…そうなるとこの騒動も知られることになるだろう。
となれば、桃城先輩や菊丸先輩は、まず間違いなく面白がって桜乃の応援に回るに違いない!
他の先輩達も、傍観はするが桜乃を止めるような動きは期待できない。
結論…自分にとっては長引かせるだけ不利。
「…分かったよ」
もう一度だけ小さく舌打ちして、リョーマは目薬を妹に手渡した。
「うん…じゃあリョーマ、帽子を取って上を向いてね」
「ん」
流石にここまで来ると意固地になっても仕方がない。
リョーマは素直に相手の言うままに帽子を脱いで、軽く髪をかき上げながら空を仰いだ。
鮮やかな青の色を遮る様に、ひょこんと桜乃が自分を覗き込んでくる。
いつものおさげで見慣れた顔だ。
しかし如何に妹とは言え、ここまで顔を間近に寄せて見るという機会は殆ど無いので結構気恥ずかしい。
「あ、ダメだよ下向いたら。ちゃんと上向いて」
「は、早く差してよ」
気恥ずかしさで顔を俯けかけた兄を優しくたしなめながら、桜乃は目薬のキャップを取って、相手の目にそれを差すべく顔を寄せた。
「はーい、差しますよー」
ぴちょん…っ
一人で孤軍奮闘していた時のまだるっこさが嘘の様に、あっけなく目薬は差された。
桜乃はもう一つの瞳にも、難なく目薬を差してやり、これで全ての行程が終了。
「はい、終わり」
「サンキュ」
妹の宣言と同時に、リョーマが顔を戻して帽子を再び被る。
「染みてない?」
「ん、平気」
アフターケアも忘れない妹がしっかりと確認して、目薬に再びキャップを被せ、そのままリョーマに返した。
「はいどうぞ…最近、よく目を気にしてるよね、リョーマ。もしかして調子悪い?」
「いや…ちょっと疲れ目ってだけ」
「そう? ならいいんだけど…こないだの立海…だっけ? そこの人と試合した時も酷い怪我したし何だか心配。テニス…やるのはいいけど、身体だけは大切にしてね」
「…分かってる」
目を気にするようになったのも、酷い怪我で帰って来たのも、理由は立海の赤目と野試合をしたことだ。
結果は勝ったし、怪我をするのもコートに立つ時から覚悟している。
しかしいつになっても、この妹の不安げな表情…これにだけは慣れない。
赤の他人なら「余計なお世話」で突き放すのも何ということはないのに…桜乃にだけはそんな言葉は絶対に言えなかった。
(昔っからそうだよ…俺がテニスで怪我したり負けそうになると、泣いたり辛そうな顔してさ…そっちの方が余程辛いっての、こっちは)
だから…その度に歯を食いしばりながら思っていた。
こいつにこんな顔、させるもんか。
いつだって、お前の兄貴は、誰にも負けないテニスをするんだって……だから、安心して笑ってろって。
(…まぁ、一番は俺の為だけど、勿論)
それが本心かどうかよく分からない追加事項をリョーマが心で呟いていると、不意に、傍から穏やかな声が聞こえて来た。
「大丈夫だよ、桜乃ちゃん」
「あ…」
「…不二先輩」
Field編トップへ
サイトトップへ
続きへ