いつから見ていたのか…授業を終えたらしい三年の不二周助が、鞄を片手に提げた学生服姿でその場に現れていた。
「越前は、桜乃ちゃんを泣かせる様な事は絶対にしないから…そうだろう? 越前」
「…どーッスかね」
 厄介なヤツが来た…と言わんばかりの後輩の返事だったが、それも想定の内なのか、不二は相変わらず柔和な笑みを浮かべているばかりだ。
 押し黙った兄に代わり、桜乃が身体を相手に向けて会釈した。
 兄が世話になっている相手だし、自分にとっても優しい先輩なのだ、礼儀を尽くすのは当然だろう。
「こんにちは不二先輩、授業、終わったんですか?」
「うん、さっきね…君は今から見学希望?」
「いえ…ちょっと夕食のリクエストを聞きに」
「和食」
 即答で返してきた兄に、桜乃はまた、と苦笑する。
「本当に和食が好きだね、リョーマ…和食って言っても色々あるよ」
「じゃあ美味しいもの」
「…………たまにはリョーマが台所に立てば?」
 その美味しいものを作る為に、普段どれだけ苦労している事か…と静かに桜乃が怒っていると、不二も彼女に賛成票を投じた。
「越前、桜乃ちゃんにはちゃんと感謝をしないとね…料理も作ってくれるし、目薬だって差してくれる、優しい妹なんだから」
「え…」
「!…見てたんスか?」
「ああ」
 更にまずいという表情をしたリョーマに、不二はあっさりと先程の二人の様子を見ていた事を認めた。
「気が付きませんでした…声、掛けて下さったら良かったのに」
「いや、掛けようとは思ったんだけどね…」
 桜乃に、不二はくすくすと口元に手を当てながら笑いつつ答えた。
「君達があんまりラブラブだったから、邪魔しちゃ悪いかと思ってね…借りてきた猫みたいに大人しい越前を見るのも面白かったし。ちょっと妬けたけど」
「らぶらぶ?」
「余計なコト言わないでいーッスよ、不二先輩」
 どうやら相手の台詞をよく理解していないらしい桜乃は不思議そうに小首を傾げていたが、それを幸いにとばかりに、リョーマは相手が理解する前にその場から追い出そうとした。
「桜乃、俺達そろそろ部活だから…帰りがけに乾先輩に会っても、変な飲み物は絶対に貰わないでよ」
「?…はぁい」
 部活の邪魔をしては悪いと思い、素直に返事を返して去ってゆく桜乃の後ろ姿を、不二が黙って見つめている…のを、胡散臭そうにリョーマが見つめる。
「何見てんスか」
「桜乃ちゃん」
「…人の妹にヘンなことしないで下さいよね、さっきもノゾキみたいな真似して…」
 桜乃がいなくなった分、後輩の台詞にも辛辣さが増してきたが、それでも不二は一向にたじろがない。
「嫌だな越前、さっきも言ったじゃないか、君達のラブラブっぷりに当てられてただけだよ……それと…」
 そして、そのまま不思議な言葉を付け加える。
「…珍しいお客さんが、来ているみたいだったからね。黙っておいた方が面白そうだなって思って」
「お客さん?」
 誰が…?と思い、今更ながらリョーマがきょろっと辺りを見回したが、それらしい人物は何処にも見当たらない。
「???」
「ああ、もういないよ。さっき走って行ったみたいだから…まぁ、勘違いするのはその人の勝手だよね」
「何なんスか、一体…」
「ナイショ」
 最後まで楽しそうな笑顔を崩さなかった先輩だったが、その笑顔の裏でまた何か…と言うか誰かが犠牲になったことだけはよく分かる。
(…先輩達にはあまり近づかないように、帰ってからよく言っておかないとな…)
 理由は適当につけておいたらいいや…と思いつつ、リョーマは自分の入った部活内の人物の危険性を再確認していた。


 一方、その後の立海…
「…あれ?」
 部室前のドアのところで佇んでいる相棒の姿を見つけ、教室から一度購買に立ち寄り、ガムを買い込んでここに来た丸井ブン太が、不思議そうに首を傾げた。
「おーい、何やってんだよい、ジャッカル。何か落としたのか?」
「ああ、ブン太…いや、何か中で赤也がな…」
「赤也? アイツがどうかした?」
「まぁ……覗いてみれば分かるって」
「???」
 何がどうなっているのかさっぱりだった丸井は、取り敢えずは相手に勧められた通りに、ドアを静かに少しだけ開き、その隙間から中をこっそりと覗いて見た。
「…ありゃ」
 一言呟き、再びドアから顔を離して…ジャッカルへと振り返った。
 その表情が非常に微妙なものへと変わってしまっている事を受けて、な?と相手も同意を求めた。
「おかしいだろ?」
「…また英語で赤点でも取っちまったんじゃねぇの?」
「いや〜、赤点取ったぐらいじゃあそこまで落ち込んだりしねぇだろ、アイツなら」
 結構酷い事を外で言われているが、中の切原には当然聞こえてはいない。
 いつもなら、確かに先輩達の言う通り赤点の一つや二つ取ってもへこたれない正確の若者だったが、今の彼は部室内の椅子に座ったまま地の底まで落ち込んでいた。
 見るだけでもその病んだ空気が纏わりついてきそうで、だからジャッカルも丸井もおいそれと部室の中へは踏み込めないでいるのだった。
 そうこうしている内に…
「おう、何じゃ、どうしたそんな所でお二人さん」
「何か部室内でトラブルでも?」
 自分達と同じくダブルスで活躍する、仁王と柳生が揃ってその場に現れた。
 彼らも当然、部活動に参加目的で来たのだろうが、先客のジャッカル達の様子を見て興味深そうな目を向けてきている。
「いや、赤也が何かヘンなんだよい」
「今更そんな事で驚くんか」
「や、そういう意味じゃなくて…」
 辛辣な言葉をけろっとした顔で返した詐欺師に、困り顔でジャッカルがドアの隙間を指差した。
 無言で、「そこを見ろ」というジェスチャー。
 仁王は一度柳生と顔を見合わせ…言われるままに先ずは仁王が隙間へと顔を近づけ、中を覗く。
 そして、中を見るとそのまま無言でその場を柳生に譲り…相手もまた、切原の姿を確認後、無言で姿勢を正しながら全員の方を見た。
「肝試しに行って呪われたに一票」
「私は、ゲームを家族に没収されたに一票」
「投票すんのは自由だけどさ、誰が確認すんの?」
「俺やだぞ、これ以上不幸になるのは真っ平ゴメンだ」
 どうしようどうしよう…と四人が揃って悩んでいると、また今度は後ろから…
「お前ら…何をやっとるんだ」
「部活の準備がまだなら、早く着替えるべきだな」
 声質は明らかに異なるものの、どちらも凛とした口調で、二人の人物が彼らに注意を促した。
「あ、真田と柳だ」
 立海の三強の内の二人、副部長の真田と参謀の柳が、揃って歩いてきていた。
 因みに部長である若者は、現在は闘病中の為に学校への登校そのものが困難な状態である為、現在の立海の活動は彼ら二人、特に副部長の双肩に掛かっている。
 丸井に名を呼ばれたものの、二人はそれに応えようとはせず、代わりに全員がその場で集まっている光景を怪訝そうに見つめながら歩み寄って来た。
 彼らも着替えなどで部室に用がある以上、寄ってくるのも当然の話なのだが。
「どうした、中に入らないのか?」
「や…どうしたもんかなーと」
「ヘンにつついたら、祟られそうじゃからな」
「?」
 ちょいちょいとドアの隙間を指差され、今度は真田と柳がそれぞれ中を覗き込む。
 他のレギュラー達もそうだったが、特にこの二人が揃ってドアの隙間から中を覗く姿はシュールなものがあった。
 そして振り向いた真田が先ず一言。
「…で? 今度はヤツは何を仕出かしたと?」
「どう転んでも原因がアイツにあるって疑ってないな、真田…」
「まぁ、これまでの所業を考えたら無理からぬ話ではありますが」
 つまりは自業自得、と言いたいらしい真田に対し、柳は最初からそうと決め付ける事はしなかった代わりに、何が彼をそうさせているのか非常に興味を持った様子で観察を続けている。
「興味深いな…朝の赤也は普段と何ら変わるところはなかった筈だが…?」
「昼休みに購買で会ったが、俺もその時には特に異常は感じんかったのう」
 では、何かがあったのはそれ以降ということになるか…
「あ、そう言えば俺…」
 ふと何かを思い出した様に、丸井が声を上げて全員の注目を集める。
「何だ?」
「今日、赤也に青学の一年の噂を教えてやったんだけど…赤目ノイローゼになってるって」
「?…それと今の赤也の状態と、何か関係があるのか?」
 真田の素直な疑問に、相手の丸井もいや〜と首を捻る。
「それはわかんねーけどよい…それぐらいしか心当たりが…」
「むぅ…」
 相変わらず原因について悩んでいる先輩達だったが、当の本人である切原は、今まさに丸井からの一言が原因で大いに落ち込んでいた。
 あの言葉がなければ、今日、あのタイミングで青学に行ったりはしていなかったのだから。
 小生意気だった相手の醜態が拝めるかと思っていたらまさか…まさか、あんな光景を目撃することになるなんて…!!
(くっそ〜〜〜〜!! 越前リョーマ!! 赤目ノイローゼで少しは苦しんでるかと思ったら、あんな可愛い子とイチャつきやがって〜〜〜〜〜〜!!!)
 誤解である。
(つーか、俺との試合の後遺症を上手い理由にして、恋人に気ぃかけてもらうように仕向けるんじゃねーっての! 年上の俺でもまだ彼女いないのに!!)
 完全に誤解である。
(大体一年からあんな恵まれた学生生活送るってナシだろ! 俺なんかあの時期は後ろからおっかねぇ副部長に睨まれながら、日々命削る思いで部活やってたってーの!!)
 更に甚だしい八つ当たり…ついでに言うと、そういう学校を選んだお前が悪い、と鋭いツッコミが来そうな言い分。
 兎に角、大いに落ち込むところまで落ち込んだら、今度は徐々に切原の怒りのボルテージが上がってきていた。
 そして、結局代表として真田が部室に入って相手の様子を伺おうとしていたところで、爆発。
「見てやがれ!! 今度は赤目なんかにならなくても、ぜってーアイツを潰してやらあ!!」
「…ほう」
 立ち上がり、背中を向けたままそう宣言する二年生ルーキーを、真田は珍しく活目して頷いた。
「……年下にやられて少しは気合も入ったか。男子たるもの、それぐらいの覚悟でなければな」
 素直にそう評価している副部長の背後…ドアの向こうでは、しかし、その他の面々が何となく諦めた表情で互いの顔を見合わせていた。
「…何で真田のヤツはあそこまで人を信じられるんじゃろ」
「きっと私達より心根が真っ直ぐなんですよ…少しでも夢を見させてあげましょう」
「俺はもう何も信じてねぇ…アイツに関しては」
「そこまで分かっといて巻き込まれるんだから、お前の不幸も筋金入りだよなぁ、ジャッカル」

 そんな騒動を立海にまで巻き起こした、リョーマと桜乃が実は双生児だという事実が切原達の前で明らかになるのは、それから更に先の事である…





前へ
Field編トップへ
サイトトップへ