「やぁ、桜乃ちゃんじゃないか」
「む…」
「お早うございます、不二先輩、手塚先輩」
 部室に入るまでもなく、既に不二と手塚はジャージに着替えを済ませてコート脇に立っていた。
 まだ部が活動を始める前なので桜乃がその場にいるのは問題にはならないのだが、珍しい客人ということで、自然と少女に注目が集まる。
「手塚先輩、不二先輩、お早うございます」
「ああ、お早う」
「早いね、今日も越前と一緒に登校したのかい?」
「はい」
 手塚と不二が桜乃とまぁ友好的ムードの中で挨拶を交わしている脇では、何となく面白くなさそうなリョーマが沈黙を守って立っている。
「何だあいつは」
「言うなって、妹のコトが心配なんだろおにーちゃんは。まぁ分かる気もするけどなぁ」
 手塚達に対する反抗的な態度と取れなくもないリョーマの渋い表情を咎めた二年生の海堂を、同じく二年の桃城があっさりと軽く抑える。
「? 何のことだ」
「あの一年生が、手塚と不二を妹の恋愛対象になりうる存在と懸念している確率百パーセント…つまりそういうコトだ」
 今ひとつ意味が分からなかった海堂に傍の乾が補足を入れたが、それは更に相手の混乱を招いてしまった。
「…??? よく分からないッス」
「まぁ朴念仁のマムシじゃあ無理ねぇか」
「んだとテメェ!!」
 早速朝から賑やかな二人だったが、話の焦点だった桜乃達の方は専ら落ち着いた雰囲気。
 尤も、そこには部長の手塚がいたからだという理由もあるだろう。
「先日は、お見苦しいところを…」
「いいんだよ、誤解が解けて良かったね桜乃ちゃん。俺達も、越前だけじゃなく君もここに来てくれる事になって、正直嬉しいんだ。ね、手塚?」
「……後輩を受け入れ指導する事は先輩の義務だ。しかし、部員の妹だからと言って特別視するつもりはない」
 にこりと笑いながらこちらを振り向く不二に、手塚は相変わらず固い表情を崩さず、やや困惑した面持ちでそう応えた。
 事実そう思っているのかもしれないが、その言葉の節々にはやや惑いの感情も滲んでいるのは、女子に対する態度をどうとればいいのか手塚自身が掴めていないからなのだろうか?
「は、はい…分かっています」
 聞きようによっては実に厳しい先輩の一言だったが、確かにその通りだとも言えるものであり、桜乃は素直に言葉を受け止め、手塚に頷いた。
「…別に悪戯にきつく指導するつもりはない、そう緊張するな」
 脅かしすぎたかもしれないという自覚はあったのか、手塚が出来る限りの気遣いを見せる一方で、不二が背を向けて意味深な笑みを浮かべている。
「…連れて来て、良かったのかな」
「ま、慣れてけば手塚ももーちょっとはマシになるんじゃない?」
 河村が強張った顔で菊丸に再度確認したが、相手はのほほんと手を頭の後ろに組んで笑っている。
 どうやら、部員の妹であり、且つ青学の生徒でもある桜乃は、手塚の鉄面皮を剥がすリハビリにはもってこいだと判断したらしいが、河村の質問の真意はそこではなかった。
(…不二の笑顔が何となくいつもと違う気がするんだけど…)
 でも、それもはっきりした証拠なんてないしなぁ、と結局口を挟まずに傍観するのみに留めた河村の代わりに、副部長である大石が会話に入って来た。
「朝練に合わせて一緒に通学するなんて、君も結構早起きなんだね、越前さん」
「あ、大石先輩…でも、向こうにいた頃からそんな感じでしたし」
「へぇ、アメリカでも?」
「はい」
「ふぅん…」
 妹の返事に対し、大石はその兄にちらっと視線を移し、それを再び桜乃へと戻す。
「君のお兄さんは、凄いテニスセンスを持っているね。向こうでは何処か特別なテニススクールにでも通ってたの? 本人はなかなか話したがらなくてね」
「ああ…」
 相変わらずむすっとしたまま口を開こうとしない兄をちらっと眺めて、桜乃がくすりと笑う。
 妹だけは知っている。
 兄が過去の経歴を必要以上に話したがらないのは、毎日実父とテニスの試合をしてはコテンパンにのされている事実があるからだ。
 思春期の若者にありがちな反抗期の反応であると共に、負けず嫌いの性格からそれを認めたくない気持ちもあるのだろう。
 いつかはアイツを越えてやる。
 そんな思い、決意が兄の胸から消えた時はない事も、桜乃はよく知っていた。
「別に特別な事はしてませんけど…でも小さい時からラケット握ってましたよ。周りのテニスやってる子よりは全然強かったです」
「へぇ、やっぱり」
「……」
 上手く肝心のところははぐらかしてくれる妹の言葉を聞きながら、リョーマがぷいとそっぽを向く。
「じゃあ、向こうにはライバルとかはいなかったの?」
「うーん、そうですねぇ…強すぎて、結構敬遠されてた事もありましたけど…見た目が東洋人で向こうの人と比べたら背も低いし、なのに凄く強いギャップがあったから尚更で」
「そうか…確かにね」
 うんうんと納得の態で頷いた大石に続いて、さり気なく不二が桜乃の隣に歩いて来る。
「東洋人か…やっぱり向こうと日本では、君達が感じることも色々と違うのかな?」
「はぁ…」
 なでなで…と自然に不二から頭を撫でられながら、桜乃が相手を見上げる。
「…!!」
 妹が赤の他人から過剰な接触を受けている様子を目の当たりにしたリョーマが、後ろでびきっと固まっていたが、背を向けている桜乃は気付かない。
 元々、警戒心が薄い性格もあるのだろうが、不二に頭に手を乗せられても桜乃は全く嫌がる素振りも無く、ただなされるがままだった。
 因みに不二の立ち位置ではリョーマの表情もよく見えた筈なのだが、当人の「天才」は全く意に介する事無くスルーし、相変わらず桜乃の頭をかいぐりしている。
「……」
「手塚?」
 そんな不二と桜乃の姿を何故かじっと見ていた手塚に、不思議に思った大石が声を掛けたところで、不二に応える桜乃のそれが響いた。
「ハーフの子とか結構いたんですけど、生粋の日本人はウチの学校では意外に少なくて…見た目でも結構目立ってましたね。入学してから暫くはちょっと馴染むのに時間が掛かりました」
「そうなんだ…越前も?」
「…そうッスね」
 話を振られた少年は、ちらっと不二を見遣ると、意外なコトに無視することなく素直な返事を返し、桜乃と彼の方へと近づいていった。
「別に見た目は関係ないッスけど、向こう身体大きい奴結構いたし、それなりに大変だったんスよ。しかも桜乃はちっちゃいし、弱虫だし、臆病だったから、変ないじめられっ子に目ぇ付けられない様にいつも気をつけてなきゃいけなかったから…」
「ちょ、ちょっとリョーマ!」
 事実ではあったが、恥ずかしい事を喋りすぎだと桜乃が赤くなって相手の台詞を止めようとする。
 その時丁度、桜乃のすぐ隣まで移動していたリョーマは、何故か挑むような挑発的な笑顔を浮かべながらぐいと妹を自らへと抱き寄せ、不二から引き離していた。
 そして…
「だ・か・ら…俺達ずーっと『二人っきり』でいたんスよね」

 ごぉ――――――――――――っ!!!!!

 さりげない、しかし大胆な自慢とも言える宣言に、リョーマと不二の境界に目には見えないブリザードが吹き荒れた。
「…ふぅん」
 さらっと流した不二の顔は相変わらず柔和な笑みが称えられていたが、その奥に潜む何かが一瞬だけ顕現した様な気がする。
 決して、望んで触れたいとは思わない何かが…
『…リョーガお兄ちゃんも一緒だったじゃない、リョーマ』
『いいんだよ、アイツはまた別の話だろ、名前出したらまた面倒になるしさ。それに今はリョーガは向こうにいるし、俺が桜乃と一緒にいたのは嘘じゃない』
「???…うん」
 兄に抱かれたまま、きょとーんとした桜乃は相変わらず気付いていないらしいが、周囲の男達は手塚以外の全員が凍り付いていた。
(な、何かテニス以外のバトルが始まった感じだな、オイ…)
(あまり関わりたくねぇ)
 桃城と海堂の珍しく息の合った心の会話が周囲の者達の心情を代弁する中、空気の変容のみに気付いたらしい手塚だけが、声を発することが出来た。
「? どうした、みんな…不二? そろそろ越前も着替えないといけないだろう」
「ああ、分かってるよ手塚。じゃあ越前、部室で着替えておいでよ」
「ウイッス」
 後は何事もなかったように、いつものやり取りに戻りながら、リョーマは桜乃から手を離しつつ念押しをした。
「桜乃は教室に戻るか、どうしても見たい場合は向こうのネットまで下がってなよ。ボール来て危ないからさ、『先輩方』に迷惑かけらんないでしょ」
「うん、分かった」
 元気に返事を返す妹に満足してリョーマが部室に引っ込んだ後、傍にいた菊丸達が心配そうに顔を見合わせた。
 どうやらここにきて、菊丸もようやく自分が仕出かしたことに気付いたらしい。
 確かにあのルーキー、噂に違わぬツンデレっぷりだ、しかも…
「まさか、あんなに不二があの子に執着してるなんて思ってなかったよ〜…どうしよ」
「いや、どうしようもこうしようも、もうなる様にしかならないんじゃ…」
 そんな苦悩の先輩達を他所に、桜乃は一人、ほう…と息をついて明後日を向いた感動を覚えていた。
「あのリョーマが、『先輩方』なんて呼ぶの初めて…リョーマがそんなに尊敬出来る人達がいる学校に来れて、本当に良かったぁ…」

(いやいや、別の意味が思い切り篭ってますから、ソレ)

 そうは思っていても男達は結局それは言えないまま、なあなあで流してしまった。
 言いたくもないし、言わない方が彼ら兄妹の為だろう。
 計り知れない程のテニスの実力を、リョーマが青学のみでなく他校の選手達にも示し始めたのはそれから間もなくのことだったが、陰で別の戦いが繰り広げられていたのを知る者は少ない…






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