残夏濫觴
全国大会も一応の決着が着き、今年の夏は終わった。
とは言え、まだ夏休みには多少のゆとりがあり、この際とことん夏を楽しもうと思ったのは良かったのだが…
「たっ…楽しむどころか、もしかして結構ピンチ…?」
見も知らぬ土地で、青学の一年生女子・竜崎桜乃は、呆然としながら目の前に果てなく続く道と、その両脇のサトウキビ畑…頭上に広がる青空、そして燦燦と照りつける日光の中に身を置いていた。
身を置いていながら、自分が何処にいるのか皆目見当がつかない。
本来であれば、今頃は自分はホテルに到着している筈なのだが…
(お、おかしいなぁ…駅で道を聞いた時には、すぐに着くって話だったんだけど…)
くるりと背後を振り向いてみても同じ様な景色が広がっていて、この地に到着した時に見ていた街並みは一切姿を消してしまっていた。
まぁ…確かにあれだけ歩いたのだから当然と言えば当然か。
(…ちょっと気が付くのが遅かったかなぁ…これはやっぱり…迷ったんだよね)
ちょっとどころかかなり気付くのに遅れたのだが、結果としては合っている。
彼女は誰も周りにいない状態で、初めて訪れた土地であるここ沖縄で、完全な迷子となってしまっていた。
折りしもこの日は超快晴…本土の人間にはきつい陽射しが容赦なく照り付けており、駅から何も水分を摂取していない桜乃にとってはかなりの拷問だった。
別に沖縄の暑さを舐めていた訳ではないのだが、道を聞いた人の『すぐに着く』という言葉に安心して、水分の購入には至らなかったのだ。
しかしそれが命取り
「…どうしようかな…」
また同じ道を引き返すか、それとももう少し頑張って歩いて、何処かの施設が見えたらそこで休ませてもらうか…地元の人間が通ってくれたら、どちらがいいのか聞くことも出来るんだけど、と思いながら、桜乃は道端にぺたんと座り込む。
炎天下でそういう行動をとってしまう事が、彼女が今、どれだけ正常な判断が出来なくなっている危険な状態かという何よりの証だった。
一刻一刻と身体から体力が失われ、意識が遠のいていく中で、彼女は薄れる視界の中、揺らぐ陽炎を朦朧としながら見つめていた。
(…ホント…どうしようかな…)
どんっ!
突然の衝撃が桜乃を背後から襲い、彼女はそのまま前のめりに倒れ伏す。
「…あい? いたの?」
「……」
掛けられたのは若い男の声だったが、桜乃はもうそれに答える気力も失われてしまっていた。
倒れ伏す少女の背後に立っていたのは、長身の男。
背後で一つに括られている長髪は艶やかな黒髪だったが、その前髪の一部は白色のメッシュが入っている。
顔立ちは非常に彫りが深く、きろりとした瞳が印象的で、肌も地元の人間らしく小麦色に焼かれていた。
どうやら彼は桜乃にぶつかって、そのまま彼女を倒してしまったらしいのだが、手にしていた文庫本が故意ではないことを物語っている。
おそらくは本を読みながら歩き、ついそちらに熱中して目の前に座っていた桜乃に気付かず、そのまま衝突してしまったというところだろう。
「くぅまてぃぬーそーがんだ(ここで何してるんだ)?」
当然とも言える質問を投げかけてはみたものの、向こうの少女には反応がない。
「…?」
流石におかしいと思ったのか、その男は文庫本を抱えていた鞄の中にしまい込みながら、膝をついて桜乃の肩に手をかけ軽く揺すってみた。
「おい?」
「……」
かろうじて意識が少しは残っていたのか、桜乃はのろのろと顔を上げて、相手のそれを見る。
明らかに熱に浮かされていた桜乃の顔は見るからに上気しており、瞳は潤み、普段より更に弱々しさが際立っていた。
例えて言うなれば、捨てられた子犬や子猫の様な…
「!」
何を思ったか、男がきろっと大きな瞳を更に見開いて彼女を見下ろしている間に、相手は細い手を伸ばして彼の白い半袖のシャツを握り締める。
それは最早、半分は無意識による救済を求める手だったのかもしれない。
縋るような瞳に、何を男が感じ取ったのかは分からない。
しかし、彼は桜乃の縋る腕を一度は振り解いたものの、彼女を見捨てる事はなく、ひょいっと軽々と相手の身体を抱えると、傍に落ちていた手荷物も拾い上げ、すたすたと早足で先へと歩き始めた。
その行動に抗うこともなく、桜乃はただされるがまま…
腕力に富んだ男は無言で桜乃をその場から連れ去ったが、そのシャツの左胸の部分には、『嘉』という一文字が縫い付けられていた…
「では、本日も各自のトレーニングを始めて下さい。メニューは先日、私が配布したものに準じるように、いいですね」
同日、比嘉中のテニスコートでは、普段と同じ様な光景が展開されていた。
同校のテニス部主将である三年生・木手永四郎の指示の許、部員達がコートで指示を受けると一斉に動き出す。
彼らは非レギュラーメンバーであるが、その行動は実に俊敏としており、まるで軍隊のそれすらも思わせる程に素早いものだった。
その理由は、同部の顧問として活動していた教師の教育方針にもあるのだろうが、今、ここには彼の姿は無い。
彼らに全ての指示を出し終えた木手は、そこで一度眼鏡のブリッジを指先で押し上げると、手にしていたバインダーに挟んだスケジュールを確認しながら頷いた。
「ふむ…大体は予定通り…さて、そろそろ彼らにも指示をださなければいけませんね。確か今日は特に欠席予定者はいなかった筈ですが」
ここ比嘉中では、漁師を親に持つ生徒も多く、彼らは時期によっては部活よりも家業の手伝いなどを優先せざるをえない場合もある。
勿論、それは前もって届出があった場合は考慮されるのであるが、本日は特に誰からもそういう報告は受けていない。
…ということは、全員参加…の筈なのだが…?
「おかしいですねぇ」
自分と同じレギュラーメンバーが、まだコートに出てきていないとは…
確かに、全国大会が終了した時点で自分達の活躍の場は幕を閉じた、が、まだ正式に引退していない以上、レギュラーとしての立場にある。
そして立場にある以上は、相応の自覚を持ってそれに相応しい行動を見せて貰わなければ困る。
そう、丁度今のように、遅刻をするという不届きな行為は許されるべきものではない…となると、当然、然るべき処罰は…
「…ゴーヤーですかね」
やれやれ、と罰を決定しようかとするものの、何となく腑に落ちなくて木手は首を傾げる。
(しかし、遅刻にしても自分以外の全員が、というのもあまりにも不自然です…まさか、彼等ががここに来る途中で何らかのトラブルに巻き込まれたのでは…)
確率的には滅多にない話だろうが、もし来る道で車が横転事故でも起こして通行不能になってしまっている場合は、人的努力では如何ともし難い場面もあるだろう。
確かに、そういう事は考えていなかった。
「決定するにはまだ早いかもしれません…」
鋭利な刃物を思わせる鋭い瞳の奥に、人としての情を垣間見せた若者は、本当に彼等が来ていないのだろうかと今一度確認する為に、コートから部室へと場所を移動するべくそちらへと向かった。
当然、距離としてはそうそう離れていない部室だったが、近づくにつれて、徐々に木手の耳に誰か複数の人間がひそひそと話しをしているような声が聞こえてきた。
『ちゃーすがんだぁ(どうするんだ)? くんぐとーるくとぅ しち(こんなコトして)』
『永四郎にぬらーりんぞ(怒られるぞ)』
『やしが(だけど)…』
『やーぬくくるや分かるしが(お前の気持ちは分かるけどさ)』
或る程度距離が縮まったところで、木手はその会話の主達が、レギュラーメンバー達であると確信した。
あの声色は間違いない、彼らだ…
「…ほう」
キラーン、と不気味に眼鏡の奥が光る。
つまり、練習時間に姿を現さなかったばかりか、私に怒られるようなコトをしているという訳ですね…
(やっぱりゴーヤーでしょうね)
再度罰則を考えながら、木手は遂に、彼らの内緒話が聞こえてきた部室の裏手に回った。
やはりそこにいたのは、自分以外のレギュラーの面々だった。
彼ら全員が、こちらに背を向ける形で何かを覗き込んでいる様な姿だ。
「何をしているんです、君達」
冷たい一言を浴びせた途端、
「っ!! うげっ、永四郎!?」
「っとととっと…田仁志! くまんかい立て(こっちに立て)…!」
「ぬ、ぬーんち、わんが(何で俺が)…」
慌てた様子の男達がわたわたとその場を取り繕うように動き、彼らの中で一番の巨体である田仁志を目隠しのように押し出してきた。
「……」
あからさまに怪しい…これで怪しまないようなら、一度病院への受診を勧めたいぐらいだ。
「何をしているのかと聞いているんですよ」
「う…」
早くも木手の眼光に射竦められてしまった田仁志の背後から、こっそり顔を覗かせて帽子を被った男が口を濁す。
木手と同じレギュラーの一人…サウスポーの甲斐だ。
「や、いやその〜〜〜…」
更にその隣からは、鮮やかな金髪の男が恐々と端的な言葉を吐き出した。
「ち…知念が拾い物を…」
「拾い物…?…ああ」
そこまでを聞いたところで、木手は既に何かを察した様に頷き、眉をひそめながらため息をついた。
「…どうせまた犬や猫を拾ってきたんでしょう。この間も何匹か子猫を拾ってきて、君が飼い主募集のポスターを作っていたのでしたね、平古場君」
「や…やたんやーがや〜(そうだったっけ)?」
指摘を受けても、平古場はそっぽを向いて強張った笑みを浮かべつつシラを切っている。
「?」
何だか様子がおかしい…ただの犬や猫を拾ってきたのではないようだ。
では何を…?
「何を拾ってきたんですか、知念君」
「え、えーと、えーとっ!」
「ま、まぁ大したむぬじゃ…」
平古場と甲斐が更に慌ててその場を取り成そうとしたのとは裏腹に、当人である知念は特に動じる様子もなく、ひょいっと何かを片手に掲げて木手に晒して見せた。
「……」
慌てる仲間達を他所に知念が晒したのは、襟首を捕まれ猫さながらにぶら下げられた、長いおさげの少女…
「わ〜〜〜〜っ!」
「やー! あんしー堂々とっ(お前っ、そんなに堂々と)!!」
彼女は完全にグロッキーの様子で、きゅう〜〜、と伸びてしまっており、それを見た木手は…
「元いた場所に返してらっしゃい!!」
と、子供を叱る母親の様に物凄い剣幕で怒鳴ってしまっていた…
色々あって…
「で、通学路で倒れていた彼女を拾って、連れて来た訳ですか」
「…」
取り敢えず外で騒ぐこともないと彼らは部室内に移動し、そこで長椅子を移動させて作った即席ベッドに桜乃を寝かせ、眠る彼女を前に知念から報告を受けていた。
木手に確認を取られながら、知念は無言でこっくりと頷きながら、作った氷嚢をひょいっと桜乃の額に置いてやっている。
「がっさん(軽い)熱中症んなったみたいやし」
桜乃を覗き込みながら甲斐が振り返りつつ言い、隣では平古場が首を傾げて考え込んでいた。
「やしが、ぬーんちあんなとぅくまに(だけど何であんな処に)…? それにこの子、どっかで見た気が…」
「まーで(何処で)?」
早速部室に来てから自前のおやつであるサーターアンダギーを食べながら、田仁志が平古場に聞き返したが、相手はそれ以上は思い出せないと更に首を捻った。
「うーん…」
「勝手に荷物の中を漁る訳にもいきませんし…かといって放り出す訳にもいきませんね」
(元の場所に返せって言ってたクセに…)
木手の言葉に甲斐が心の中でそう言ったが、言葉に出しては言わない…間違いなくゴーヤー責めになるからだ。
「う…ん…」
知念が相変わらず桜乃の様子を伺っていたが、不意に、うなされていた彼女の目がぱちりと開き、彼と視線が合った。
「…」
「…」
知念は、あまり積極的に自分から喋る人間ではない。
加えて、その特徴的に彫りが深い顔立ちと目立つ瞳が相まって、一見さんには結構強烈な印象を残しがち…分かりやすく言うと、恐がられることもしばしばなのだ。
しかし相手の少女はそんな彼に怯えるでもなく、意識がまだはっきりとはしないながらも、うっすらと微笑を浮かべた。
「!!」
驚きを示すように知念の瞳が見開かれ、その身体が硬直する。
微動だにしなくなった男の変化を感じ取った木手が、平古場たちから彼へと意識を向け直し、そちらへと再び足を向けた。
「どうしました、知念君…ん」
「お、気が付いたみたいやし…」
「じゅんにか(本当か)?」
彼に続き、他の男達もわらわらと彼女を取り囲む。
見下ろす少女の瞳が開かれている事を確認した木手は、相手が自分へと視線を移した事を確認すると、改めて彼女に尋ねた。
「気が付きましたか…気分はどうです」
「えと…ここ、は…?」
首を傾げながら、桜乃はゆっくりと起き上がり、ぽわんとおぼつかない表情で木手を見上げる。
邪気も警戒心の欠片もない様子の少女に全員が見入っている中で、部長は更に質問を続けた。
「比嘉中ですよ……貴女に少し聞きたいことがあります」
「はぁ…バナナはおやつに入ると思います」
『……』
その場を沈黙が支配する。
何? その遥かに見当が外れまくった答え…
「いやー、ちげぇいんやんやー(違うだろう)」
「黙りなさいよ、田仁志君」
唯一、律儀、且つ迅速に反応を示した田仁志にぴしりと言い切ると、木手は眼鏡を押し上げながら、必死に平常心を保とうとしている。
「まぁ、まだ本調子ではないようですが…聞きたいのはそういう事ではありません」
(すげぇーさ、永四郎)
(あのポーカーフェイス…只むんやあらん(只者じゃない))
ひえええ、と甲斐と平古場が陰で感心している脇で、知念は桜乃と木手を交互に無表情のままに見つめており、相変わらずその真意は読めない。
その知念を軽く手で示しながら、木手は桜乃にこれまでの経過を説明する。
「説明しますと、貴女が道端で倒れているところを知念君が拾って来たんですよ。どうしてそうなったのか、覚えていませんか」
「…ああ、多分、迷ってたんだと思います」
「…迷った?」
「はい…よくやるんです、私…本当は△△ホテルに行きたかったんですけど」
「…もしそうなら完全に逆の方向やさろうし…どーしたら間違えるんさ」
呆れた様子でそう突っ込みを入れる甲斐に続いて、平古場も首を傾げて不思議がる。
「つか、迷ったとしてももっと早くに気が付くんじゃ…」
「ああ…私、結構鈍感なんですよ〜。この間も都内のプールに行こうとして、千葉まで行っちゃったことあったし…」
(マジですか!?)
「ヤマトンチューって、みんなそうなのか?」
「土地がでけーと、勘違いもでけーなー」
「それは違うと思いますがね…そのお話ですと、貴女は東京から来たんですね」
男達がそれぞれ思い思いの発言をしている間、暫く桜乃は無言で彼らの様子を見つめていたが、やがて何かに気付いたように、ぽむ、と両手を軽く叩いて頷いた。
「ああ、何処かでお会いしたことがあると思ったら、比嘉の木手さんですね」
「!?」
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